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トム・グラビン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トム・グラビン
Tom Glavine
1993年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 マサチューセッツ州コンコード
生年月日 (1966-03-25) 1966年3月25日(58歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
205 lb =約93 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1984年 2巡目
初出場 1987年8月17日
最終出場 2008年8月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 2014年
得票率 91.9%
選出方法 BBWAA選出

トム・グラビン英語: Tom Glavine、本名:トーマス・マイケル・グラビンThomas Michael Glavine, 1966年3月25日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコード出身の元プロ野球選手投手)。左投左打。

経歴

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プロ入り前

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高校時代はアイスホッケー野球をプレイし、高校ではアイスホッケー部のキャプテンを務めた[1]

プロ入りとブレーブス時代

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1984年のNHLドラフト英語版4巡目(全体69位)でロサンゼルス・キングスから指名を受けたが[1]、同年6月のMLBドラフト2巡目でアトランタ・ブレーブスからも指名を受け、野球に専念して入団[1]

1987年8月17日にメジャーデビューを果たす。

1988年先発ローテーションに定着したが、7勝17敗でリーグ最多の敗戦数を記録した。

1989年に14勝8敗、リーグ3位の4完封を記録し、飛躍の年となった。

1990年は10勝12敗に終わる。

1991年は5月に6勝0敗でピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞し、オールスターゲームでは先発投手を務めた[2]。シーズン通算で20勝11敗、防御率2.55を記録し、最多勝利のタイトルを獲得。チームの9年ぶり、前年地区最下位からの地区優勝に貢献した。ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは2敗を喫したが、チームは33年ぶりにアトランタ移転後初のリーグ優勝を果たす。ミネソタ・ツインズとのワールドシリーズでは1勝1敗だったが、3勝4敗で敗退した。シーズン終了後初のサイ・ヤング賞を受賞した。

1992年1954年1955年ロビン・ロバーツ以来となる2年連続でオールスターゲームの先発投手に選ばれた[2]が、初回一死から7連続安打を打たれるなど2回途中5失点の乱調だった。シーズンでは20勝8敗、防御率2.76、リーグ最多の5完封を記録し、2年連続の地区優勝に貢献。前年に続きピッツバーグ・パイレーツとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズではまたも2敗を喫したが、チームは2年連続のリーグ制覇。トロント・ブルージェイズとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、4安打、無四球、1失点で完投勝利を挙げたが、チームは3勝4敗で敗退。サイ・ヤング賞の投票ではシカゴ・カブスグレッグ・マダックスに次ぐ2位に入った。

1993年にはマダックスが加入し、ジョン・スモルツスティーブ・エイベリーと合わせて四天王と呼ばれた。22勝6敗、防御率3.20を記録、1967年から1972年ファーガソン・ジェンキンス以来となる3年連続20勝以上を記録し、3年連続で最多勝利のタイトルを獲得した[3]

1994年8月に労使交渉が決裂し、選手側がストライキを決行。当時MLB選手会会長だったグラビンはファンから怒りを買った[2]。ストライキが解除された1995年は登板時にブーイングを浴びた。クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズでは2戦2勝の活躍でシリーズMVPを受賞。38年ぶり、移転後初のワールドチャンピオンとなった[4]

スプリング・トレーニングの実戦登板で投げるグラビン(1998年)

1998年は20勝6敗、キャリアハイの防御率2.47を記録し、4度目の最多勝を獲得。サイ・ヤング賞の投票では1位票がトレバー・ホフマンを下回ったが、獲得ポイントで上回り2度目の受賞を果たした[5]

1999年はリーグ最多の259被安打を記録するなど苦しんだ[2]。6月4日時点で3勝7敗、防御率5.00だったが、シーズン終盤に調子を取り戻し[2]、最終的に14勝11敗、防御率4.12を記録した。

2000年のスプリングトレーニングでマダックスからカット・ファストボールを教わった[2]。7月31日にMLB史上96人目となる通算200勝を達成した[6]。最終的に21勝9敗、防御率3.40で、5度目のシーズン20勝と最多勝を記録した。

2002年6月26日にはナショナルリーグで5人目となる同一チームで2000奪三振を達成した[7]

2002年は6月まで防御率1点台を維持するなど好調で、最終的に18勝11敗、防御率2.96を記録。それまで16シーズンをブレーブス一筋で過ごし、生え抜きの人気選手だったが、同年の新労使交渉の際に選手代表として矢面に立って来たグラビンに対し「強欲な選手の代表」と反感を持つ人もいた[8]。シーズン終了後フリーエージェントとなり4年契約を希望したが、球団はシーズン後半の不調を理由に拒否[8]

メッツ時代

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ニューヨーク・メッツ時代
(2005年5月8日)

2002年12月5日にニューヨーク・メッツと3年総額3500万ドル、4年目のオプションを含めると4250万ドルで契約した。

2003年は9勝14敗、防御率4.52に終わり、1989年から続いていた2桁勝利が14年で途切れ、チームも地区最下位に終わる。

2004年は、前半戦は7勝7敗、防御率2.66だった。8月10日には交通事故に巻き込まれてしまった[9]。後半戦はコントロールが悪化し4勝7敗、防御率5.06の成績に終わった。シーズントータルでは11勝14敗、防御率3.60と、負け越しはしたが前年より防御率は改善した。

2005年は先発陣に故障者が続出する中、ペドロ・マルティネスと共に先発ローテーションを守り、13勝13敗でチームをポストシーズン争いに踏み止まらせた。

2006年は8月中旬に血行障害のため精密検査を受けたが、軽症で投薬治療が可能なため約2週間ほどで戦線復帰[10]。同年はリーグ2位の15勝を記録。シーズン終了後球団がオプションを行使せず、違約金を払いFAとなったためブレーブス復帰が噂されたが、1年750万ドルで残留[11]。ブレーブスが契約条項にノートレード条項を加えなかったためと言われている[11]

2007年8月5日のカブス戦で史上23人目の300勝を達成。チームは9月12日時点で地区2位のフィラデルフィア・フィリーズに7ゲーム差を付けていたが、そこから失速。ついにフィリーズに同率で並ばれて迎えたシーズン最終戦のフロリダ・マーリンズ戦で先発したが、一死を取っただけで7失点で降板し敗戦投手となり、チームはプレーオフ進出を逃した。試合後のインタビューの冷静な自己分析は大ブーイングと共に称賛の声が上がった[12]。シーズン終了後、1300万ドルのオプションを破棄してFAとなった。

ブレーブス復帰、引退

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2007年11月19日に1年800万ドルで5年振りに古巣ブレーブスに復帰[13]

ブレーブス復帰後の初登板試合でのスターティングオーダー(2008年)

2008年は4月18日にふくらはぎの故障で自身22年間のキャリアで初となる故障者リスト入り[14]。2勝4敗、防御率5.54に終わる。オフに一旦フリーエージェントとなった。

2009年2月19日に1年100万ドルでブレーブスと再契約を結んだ。6月3日にFAとなった。

引退

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2010年2月11日に正式に現役引退を表明した。

グラビンのブレーブス在籍時の背番号「47
アトランタ・ブレーブスの永久欠番2010年指定。

5月には古巣ブレーブスがグラビンの在籍時の背番号47』を永久欠番に指定することを発表し、同年8月6日に欠番表彰式が行われた。

2014年1月8日に資格取得1年目でブレーブス時代の僚友グレッグ・マダックスと共に野球殿堂入り。得票率91.9%は歴代24位だった。

メジャーデビューしてから引退するまで一度も救援登板がなかった。先発登板数682は歴代12位だが、上位の投手は全員救援での登板があり(ロジャー・クレメンスでも2試合、マダックスでも4試合の救援登板がある)、「一度も救援登板したことのない投手」としては史上最多である。

選手としての特徴

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投球スタイル

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全盛期の速球フォーシームツーシーム)のスピードは最速93mph(約150km/h)、常時140-145km/h程度だったが、制球力が非常に良く「世界最高の技巧派左腕投手」と評された程で、しばしばブレーブス時代のチームメイトだったマダックスと並び称される。変化球スライダーカーブサークルチェンジなど、特にサークルチェンジの評価が高い。ゴールドグラブ賞の受賞経験は無いが、守備、牽制の評価は高かった。最多勝5回はウォーレン・スパーン(8回)、グローバー・アレクサンダー(6回)、ボブ・フェラー(6回)、ウォルター・ジョンソン(6回)に次ぐ5位タイ。

クレメンス、マダックス、ランディ・ジョンソンといった同時代の他の300勝投手と比較すると、WHIPや防御率といった投球内容を示す数字では、それほど傑出した数字を残してきたわけではない。しかし、クオリティ・スタート(6回3自責点以内)の数は682登板中436試合、63.9%と高い数字を残しており、勝利に繋げるピッチングができる投手であったことを示している。

打撃

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打撃の良い投手としても有名で、1991年、1995年、1996年、1998年の4回シルバースラッガー賞を受賞している。犠打も上手く、通算216犠打は投手としては歴代1位。2001年にはリーグ最多犠打(17個)も記録している。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1987 ATL 9 9 0 0 0 2 4 0 -- .333 238 50.1 55 5 33 4 3 20 1 1 34 31 5.54 1.75
1988 34 34 1 0 0 7 17 0 -- .292 844 195.1 201 12 63 7 8 84 2 2 111 99 4.56 1.35
1989 29 29 6 4 2 14 8 0 -- .636 766 186.0 172 20 40 3 2 90 2 0 88 76 3.68 1.14
1990 33 33 1 0 0 10 12 0 -- .455 929 214.1 232 18 78 10 1 129 8 1 111 102 4.28 1.45
1991 34 34 9 1 4 20 11 0 -- .645 989 246.2 201 17 69 6 2 192 10 2 83 70 2.55 1.09
1992 33 33 7 5 1 20 8 0 -- .714 919 225.0 197 6 70 7 2 129 5 0 81 69 2.76 1.19
1993 36 36 4 2 3 22 6 0 -- .786 1014 239.1 236 16 90 7 2 120 4 0 91 85 3.20 1.36
1994 25 25 2 0 0 13 9 0 -- .591 731 165.1 173 10 70 10 1 140 8 1 76 73 3.97 1.47
1995 29 29 3 1 0 16 7 0 -- .696 822 198.2 182 9 66 0 5 127 3 0 76 68 3.08 1.25
1996 36 36 1 0 0 15 10 0 -- .600 994 235.1 222 14 85 7 0 181 4 0 91 78 2.98 1.30
1997 33 33 5 2 1 14 7 0 -- .667 970 240.0 197 20 79 9 4 152 3 0 86 79 2.96 1.15
1998 33 33 4 3 0 20 6 0 -- .769 934 229.1 202 13 74 2 2 157 3 0 67 63 2.47 1.20
1999 35 35 2 0 1 14 11 0 0 .560 1023 234.0 259 18 83 14 4 138 2 0 115 107 4.12 1.46
2000 35 35 4 2 1 21 9 0 0 .700 992 241.0 222 24 65 6 4 152 0 0 101 91 3.40 1.19
2001 35 35 1 1 0 16 7 0 0 .696 929 219.1 213 24 97 10 2 116 2 0 92 87 3.57 1.41
2002 36 36 2 1 1 18 11 0 0 .621 936 224.2 210 21 78 8 8 127 2 0 85 74 2.96 1.28
2003 NYM 32 32 0 0 0 9 14 0 0 .391 791 183.1 205 21 66 7 2 82 2 0 94 92 4.52 1.48
2004 33 33 1 1 0 11 14 0 0 .440 904 212.1 204 20 70 10 0 109 0 0 94 85 3.60 1.29
2005 33 33 2 1 0 13 13 0 0 .500 901 211.1 227 12 61 5 3 105 1 0 88 83 3.53 1.36
2006 32 32 0 0 0 15 7 0 0 .682 842 198.0 202 22 62 7 6 131 1 0 94 84 3.82 1.33
2007 34 34 1 1 0 13 8 0 0 .619 855 200.1 219 23 64 2 4 89 2 0 102 99 4.45 1.41
2008 ATL 13 13 0 0 0 2 4 0 0 .333 281 63.1 67 11 37 4 1 37 0 0 40 39 5.54 1.64
MLB:22年 682 682 56 25 14 305 203 0 0 .600 18604 4413.1 4298 356 1500 145 66 2607 65 7 1900 1734 3.54 1.31
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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投手(P)












1987 ATL 9 1 13 1 0 .933
1988 34 12 41 4 3 .930
1989 29 7 37 4 4 .917
1990 33 19 33 1 1 .981
1991 34 16 45 0 4 1.000
1992 33 18 31 0 2 1.000
1993 36 17 36 2 4 .964
1994 25 11 33 1 1 .978
1995 29 14 42 1 6 .982
1996 36 15 52 1 1 .985
1997 33 15 35 1 4 .980
1998 33 11 50 1 3 .984
1999 35 12 59 1 6 .986
2000 35 11 41 0 5 1.000
2001 35 12 40 0 2 1.000
2002 36 22 49 0 3 1.000
2003 NYM 32 6 42 2 5 .960
2004 33 10 49 1 2 .983
2005 33 12 43 0 5 1.000
2006 32 11 43 4 3 .931
2007 34 6 26 1 2 .970
2008 ATL 13 4 16 0 1 1.000
MLB 682 262 856 26 67 .977
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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  • 最多勝利:5回(1991年 - 1993年、1998年、2000年)

表彰

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記録

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背番号

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脚注

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  1. ^ a b c April Whitzman. “MLB Players Who Played Hockey” (英語). MLB.com. January 2, 2022閲覧。
  2. ^ a b c d e f The Ballplayers - Tom Glavine” (英語). BaseballLibrary.com. 2008年9月19日閲覧。
  3. ^ Tom Glavine 1993 Career Highlights” (英語). 2008年4月19日閲覧。
  4. ^ 1995 World Series - ATL vs. CLE - Baseball-Reference.com 2008年1月12日閲覧.
  5. ^ Baseball Awards Voting for 1998” (英語). Baseball-Reference.com. 2008年9月19日閲覧。
  6. ^ Tom Glavine 2000 Career Highlights” (英語). 2008年4月19日閲覧。
  7. ^ Tom Glavine 2002 Career Highlights” (英語). 2008年4月19日閲覧。
  8. ^ a b 大冨真一郎 「回帰と旅立ち 再びのアトランタ」『月刊メジャー・リーグ』2008年1月号、ベースボールマガジン社、2008年、雑誌 08625-1、4 - 7頁。
  9. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005』廣済堂出版、2005年、266頁頁。ISBN 978-4-331-51093-3 
  10. ^ 澤田敏典 「MLB30球団最新レポート&全選手個人成績 ニューヨーク・メッツ/NYM 来季の300勝達成に視界良好」『スラッガー』2006年11月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌 15509-11、80頁。
  11. ^ a b 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』廣済堂出版、2007年、245頁頁。ISBN 978-4-331-51213-5 
  12. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』廣済堂出版、2008年、281頁頁。ISBN 978-4-331-51300-2 
  13. ^ Bowman, Mark (2007年11月19日). “Braves, Glavine agree on one-year deal” (英語). The Official Site of The Atlanta Braves. 2009年3月20日閲覧。
  14. ^ Cooper, Jon (2007年11月19日). “Glavine makes first career trip to DL” (英語). The Official Site of The Atlanta Braves. 2009年3月20日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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