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セルゲイ・ルカシン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
セルゲイ・ルキヤノヴィチ・ルカシン
Сергей Лукьянович Лукашин
Սերգեյ Լուկյանի Լուկաշին
生年月日 (1885-01-13) 1885年1月13日
(または1月12日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ドン軍管州ロストフ管区クルィムロシア語版
没年月日 1937年(51 - 52歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
出身校 サンクトペテルブルク大学法学部英語版卒業
サンクトペテルブルク工科学院経済学部卒業
前職 建物管理者
所属政党ロシア社会民主労働党→)
ボリシェヴィキ
称号 労働赤旗勲章(1936年)

アルメニア共産党英語版)中央委員会
責任書記・書記長
在任期間 1921年5月19日 - 1922年4月29日

在任期間 1922年2月 - 1925年6月23日
中央執行委員会議長 サルキス・アンバルツミャン[1]

アルメニア社会主義ソビエト共和国
国民経済会議・国民経済最高会議議長
在任期間 1921年5月21日 - 12月

ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国
労農監査人民委員
在任期間 1927年6月9日 - 1928年1月12日

全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方統制委員会
議長
在任期間 1927年6月 - 1928年1月
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セルゲイ・ルキヤノヴィチ(ルキアニ)・ルカシンロシア語: Сергей Лукьянович Лукашинアルメニア語: Սերգեյ Լուկյանի Լուկաշին1885年1月13日〈または1月12日〉 - 1937年)、本名サルキス・ルセゲノヴィチ・スラピオニャン(スラビオニャン)(Саркис Лусегенович Срапионян (Срабионян))、民族名サルギス・ルセゲニ・スラピオニアン (Սարգիս Լուսեգենի Սրապիոնյան)[2] は、アルメニア人のボリシェヴィキ。党名の「ルカシン」は、父が持っていた愛称に由来する[3]

生涯

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青年期

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1885年1月13日(ユリウス暦1日)[4]または12日、ロシア帝国ドン軍管州クルィムロシア語版に生まれた[3]。地元の小学校を卒業して[3]1896年ナヒチェヴァニ・ナ・ドヌロシア語版アルメニア人神学校に進み、1902年に卒業してバクーの実科学校で学んだ[5]。在学中に油田の労働運動に影響を受けてアルメニア社会民主労働者協会 (hy) に接近したが[5]1905年夏にはロストフロシア社会民主労働党に入党した[3]。翌1906年に実科学校を卒業してサンクトペテルブルク大学法学部英語版へ入学し、同時にサンクトペテルブルク工科学院経済学部でも学んだ[5]。同年にはボリシェヴィキとなっている[5]1909年から1910年まではドイツスイスフランスで過ごし[5]、同年にロシアに帰国[4]。翌1911年にペテルブルク大学法学部とペテルブルク工科学院経済学部(3年)を卒業した[6]

大戦・内戦期

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その後はペテルブルクでアルメニア教会会議の建物管理者として働いていたが[7]1916年から翌1917年までは従軍し、同年にはペトログラード市議会議員に選出されている[4]。12月には、ウラジーミル・レーニンの要請に基づき、ヴァハン・テリアンとともにトルコ領アルメニアについて」の布告草案を作成した[8]。同年4月から翌1918年まではペトログラードの赤衛隊ロシア語版に所属し、同年4月からはドン・ソビエト共和国経済会議議長、4月から翌5月までは法務委員、9月からはロシア共産党ドン局メンバーを務め[4]白軍との戦闘にも参加[6]南部戦線ロシア語版政治局と協力してドンでの地下活動を指揮した[9]

ドン共和国の崩壊後は12月までモスクワの全ロシア統一委員会と党モスクワ州局で活動し[7]、年内には赤軍戦線革命軍事会議メンバーやチェーカー反革命闘争部調査課課長にも就いた[4]。同年から翌1919年1月まではチェーカー統制参議会メンバーに就いていたが、党ドン委の要請によって南部戦線に呼び戻され[9]、同月から翌1920年まで従軍した[4]。同年4月からはロストフ市公共事業・土地・財務部部長、同年9月から翌1921年3月まではドン州 (ru) 労農監査英語版部部長、同月2日から翌4月24日までは党ドン州委員会責任書記を務めた[4]。同時期にはナヒチェヴァニ・ナ・ドヌ市ソビエト幹部会とドン州中央執行委にも属した[9]。1920年12月に開催された第8回全ロシア・ソビエト大会英語版 (ru) では全ロシア中央執行委ロシア語版メンバーに選出されている[10]

アルメニアでの活動

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1921年3月、党中央委の指令によりルカシンはアルメニア社会主義ソビエト共和国に送られた(ルカシンは引き続きドン州での活動を希望したが、要請は却下された)[10]。そして同月24日からはアルメニア革命委メンバー、5月19日から翌1922年4月29日まではアルメニア共産党英語版中央委責任書記・書記長に就き、1921年5月21日から12月まではアルメニア共和国国民経済会議ロシア語版および国民経済最高会議ロシア語版議長、1922年2月から1925年6月23日までは人民委員会議議長に就いた[4]

アルメニア共和国指導者としてルカシンは綿花・織物・ワイン醸造産業・鉱業の発展に着手し、任期中にはアラヴェルディ英語版カパンの復興、アララト運河・サルダラパートアルメニア語版運河・シラクアルメニア語版運河 (hy) の復旧・建設による灌漑ネットワークの拡大、レニナカン紡績工場の建設、そしてエレヴァン水力発電所 (hy) の建設による電化が開始された[11]。また、前指導者アレクサンドル・ミャスニコフの時代に起こった中東メソポタミアからの在外アルメニア人の帰還の波も維持された[12]

ザカフカースでの活動

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1923年4月のロシア共産党第12回大会ロシア語版においては、ザカフカース連邦構想に反対した「グルジア反対派」に対する強硬な批判者となり[13]、1925年4月15日から1928年1月まではザカフカース連邦共和国の人民委員会議副議長を務めた[4]。1925年5月26日から11月21日まではソビエト連邦革命軍事会議の、同年から1927年まではカフカース赤旗軍 (ru) 革命軍事会議のメンバーに就いた[4]。1925年12月31日から1927年12月2日までは全連邦共産党中央委員候補でもあった[4]。同年6月には党ザカフカース地方委第一書記マミヤ・オラヘラシュヴィリの提案によって[14]党同地方統制委議長を1928年1月まで、6月9日からザカフカース連邦共和国労農監査人民委員を1928年1月12日まで務めた[4]。1921年から1928年までは党ザカフカース地方委幹部会にも属した[6]

全連邦での活動

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1927年12月の第15回党大会ロシア語版においては「トロツキスト反党グループ」を経済的な見地から批判した[13]。翌1928年3月から1930年までは連邦労働防衛会議ロシア語版附属建設委議長、同年2月21日から1932年1月までは「ソユーズストロイ」社長および連邦国民経済最高会議ロシア語版幹部会メンバーに就き、また1930年2月から1931年までは連邦ゴスプラン幹部会メンバーおよびゴスプラン建設局局長でもあった[4]。1932年1月から1934年6月までは連邦重工業人民委員部 (ru)「ツェントルソユーズストロイ」全連邦統一監督、翌1935年から1937年までは同委員部建設資材大部部長、同年5月から8月までは「ソユーズセメント」トラスト監督を務めた[4]

ルカシンは連邦党大会に第11回ロシア語版から第15回まで出席し[6]1936年4月には建設計画のノルマ超過を賞して労働赤旗勲章も受章した[4]。しかし、1937年6月20日[6](または8月)に逮捕され、年内に死去した[4]。ルカシンの名は、クルィムの通り・コルホーズ・中学校、そしてアルメニアの村アルメニア語版に残された[3]

脚注

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  1. ^ Высшие органы государственной власти Армянской ССР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年5月17日閲覧。
  2. ^ Սարգիս (Սերգեյ) Լուսեգենի (Լուկյանի) Սրապիոնյան (Լուկաշին)”. Freenet.am. 2018年5月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e Краеведческий календарь знаменательных и памятных дат Мясниковского района на 2010 год”. Межпоселенческая центральная библиотека Мясниковского района. 2018年5月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Лукашин Сергей Лукьянович (Срапионян Саркис Лусегенович)”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2018年5月16日閲覧。
  5. ^ a b c d e Կարապետյան (1965) էջ. 32
  6. ^ a b c d e Կարապետյան (1965) էջ. 44
  7. ^ a b Կարապետյան (1965) էջ. 33
  8. ^ Կարապետյան (1965) էջ. 35
  9. ^ a b c Борохова И. М. “Саркис Лукашин”. Rostov-Region.ru. 2018年5月17日閲覧。
  10. ^ a b Կարապետյան (1965) էջ. 34
  11. ^ Կարապետյան (1965) էջ. 36
  12. ^ Саркис Лукашин /Срапионян/”. Правительство Республики Армения. 2018年5月17日閲覧。
  13. ^ a b Կարապետյան (1965) էջ. 42
  14. ^ Կարապետյան (1965) էջ. 41

参考文献

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  • Կարապետյան Հ. Ն. (1965). "Սարգիս Լուկաշին (Ծննդյան ութսունամյակի աոթիվ)" (PDF) (ամսագիր) (2) (ՀՍՍՌ ԳԱ Տեղեկագիր հասարակական գիտությունների ed.). Երևան: Հայկական ՍՍՀ ԳԱ: 31–44. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
党職
先代
ゲヴォルク・アリハニャン
アルメニア共産党(ボ)中央委員会責任書記
2月7日から書記長
1921年5月19日 - 1922年4月29日
次代
アスカナズ・ムラヴャン
先代
アマヤク・ナザレチャン
全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方統制委員会議長
1927年6月 - 1928年1月
次代
アマヤク・ナザレチャン
公職
先代
アレクサンドル・ミャスニコフ
アルメニア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長
1922年2月 - 1925年6月23日
次代
サルキス・アンバルツミャン
先代
アルメナク・カラコゾフ
アルメニア社会主義ソビエト共和国国民経済会議議長
任期中から国民経済最高会議議長
1921年5月21日 - 12月
次代
?
先代
アマヤク・ナザレチャン
ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国労農監査人民委員
1927年6月9日 - 1928年1月12日
次代
アマヤク・ナザレチャン