コンテンツにスキップ

ジグジドゥ・ムンフバト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジグジドゥ・ムンフバト
個人情報
生誕 (1941-06-01) 1941年6月1日
トブ県エルデネサント[1]
死去 (2018-04-09) 2018年4月9日(76歳没)
ウランバートル
家族白鵬翔(息子)
スポーツ
モンゴルの旗 モンゴル
競技モンゴル相撲、レスリング
獲得メダル
モンゴルの旗 モンゴル
男子 レスリング・フリースタイル
オリンピック
1968 メキシコシティ 87kg級
レスリング世界選手権
1967 ニューデリー 87kg級

ジグジドゥ・ムンフバトモンゴル語キリル文字表記:Жигжидийн Мөнхбатラテン文字転写Jigjidiin Mönkhbat1941年6月1日 - 2018年4月9日)は、モンゴル国の元スポーツ選手。モンゴル人史上初のオリンピックメダリスト。元ブフ(いわゆるモンゴル相撲)のフテチ(力士)で最高位アヴァルガ(大相撲横綱に相当)の地位にあった。オリンピックにはレスリングで、当時のモンゴル人民共和国代表として1964年東京オリンピックから5大会連続出場。1968年メキシコオリンピックレスリング・フリースタイル87kg級で銀メダルを獲得。このことから母国では銅像が作られるほどの人気がある[2]

他に日本では、大相撲横綱白鵬(ムンフバティーン・ダワージャルガル)の実父であることでも知られる。

日本語ではまれに「ジジド・ムンフバト」と表記されることもある[3]

来歴

[編集]

メキシコオリンピックではモンゴル選手団の中でただ一人メダルを獲得した。日本においては当時NHKアナウンサーで相撲の実況で知られた杉山邦博がこの模様を報道している。

ナーダムで通算6度優勝[1]

息子である白鵬の番付が上がっていくにつれ、「白鵬の父は偉大だった」というような見出しでテレビなどマスメディアに紹介されるようになり、日本国内でも再度注目を浴びるようになった。その後はしばしば来日し、白鵬を激励、大関昇進の時には「ただ強いだけでは駄目だぞ」という旨のアドバイスを与えた。国や文化は違えどトップアスリートとしての経験を持つムンフバトならではのコメントといえる。

2007年5月31日、江戸川区総合文化センターにて日蒙外交樹立35周年として息子と共に特別講演を行った。ここでも「強いだけでは意味が無い。優しい心をもってこその横綱だ」というコメントが聞かれた。

2018年4月9日、肝臓病のためウランバートルの自宅で死去[4]。76歳没。

死去の直前になってそれまで反対であった白鵬の日本国籍取得を後押しするようになったと伝わっている[5]

略歴

[編集]
  • 1964年22歳でブフ最高位に[6]
  • 1964年東京五輪に出場
  • 1968年メキシコ五輪にて銀メダル
  • 1985年3月、医師の妻との間に息子のダワージャルガルを儲ける。後の大相撲力士・白鵬である。

TV出演(日本国内)

[編集]
  • 2006年3月10日 - とくダネ! モンゴルの実家紹介(息子と共に出演)
  • 2006年5月1日 - グレートマザー物語(母にスポットを当てるという番組構成であるため、メインは妻であるが、ムンフバトも出演している)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 【訃報】ジジド・ムンフバト氏が死去 横綱白鵬関の父、モンゴル相撲の元横綱産経新聞 2018年4月10日
  2. ^ 元横綱白鵬の宮城野親方が5年前に亡くなった父の墓参り「モンゴルでは男は5年墓参りできない」”. 日刊スポーツ (2023年8月3日). 2022年8月5日閲覧。
  3. ^ "Жигжидийн"(ジグジディーン/Jigjidiin)とは「ジグジドゥ(=父親名)の」の意であり、フルネームを日本語に置き換えると「ジグジドゥの(息子)ムンフバト」という意味になる。日本語報道では属格助詞の「ийн/iin(-ィーン)」を省略して、単に父親名をカナ転写して「ジグジドゥ・―」と表記されてしまうことが多い(実子の白鵬をはじめとするモンゴル国出身大相撲力士の本名についても全く同様の傾向がある。詳細については、モンゴル人の名前#モンゴル国における用例も参照)。
  4. ^ 訃報 ジジド・ムンフバトさん76歳=横綱白鵬関の父 毎日新聞、2018年4月9日
  5. ^ 白鵬の国籍取得、亡き父が背中押した 「我が道を行け」 朝日新聞 2019年9月3日10時32分(2019年9月8日閲覧)
  6. ^ 三省堂月刊スポーツジャスト

外部リンク

[編集]