アルブレヒト・ヴェーバー
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人物情報 | |
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生誕 |
1825年2月17日 ヴロツワフ |
死没 | 1901年11月30日 (76歳没) |
出身校 | ブレスラウ大学 |
学問 | |
研究分野 | 東洋学(インド学) |
研究機関 | ベルリン大学 |
アルブレヒト・フリードリヒ・ヴェーバー(Albrecht Friedrich Weber、1825年2月17日 - 1901年11月30日)は、ドイツの東洋学者、インド学者。ヴェーダの研究者として知られる。ジャイナ教研究の草分けでもあった。
経歴
[編集]ヴェーバーはブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)に生まれた。1842年にブレスラウ大学に入学して、アドルフ・フリードリヒ・シュテンツラーにサンスクリットを学んだ[1]。その後ボン大学、ベルリン大学に移って研究を進めた。1845年に『ヤジュル・ヴェーダ』に関する論文をブレスラウ大学に提出して博士の学位を取得した[1]。
1846年から2年間ロンドンとパリを旅行した後、ベルリン大学の私講師の職を得た。1856年に員外教授、1867年にフランツ・ボップの後任として正教授に昇任した。没するまでその職にあった。1857年にプロイセン科学アカデミーの会員に選ばれた[2]。
1949年にヴェーバーはインド学の学術雑誌『インド研究』(Indische Studien)を創刊した。1885年まで18巻を出版し、ヴェーバー自身多数の記事を発表した。
主な業績
[編集]- ヴェーバーは多数の論文や書評を書き、自ら論文集『Indische Skizzen』(1857)、『Indische Streifen』(1868,1869,1879) を編纂した。
- 『白ヤジュル・ヴェーダ』の校訂本を1849-59年に出版した。これはルドルフ・フォン・ロートのヴェーダ研究(1845)、テーオドール・ベンファイの『サーマ・ヴェーダ』校訂出版(1848)に続くヨーロッパのヴェーダ研究の成果だった[3]。
- The White Yajurveda. 1. Berlin/London. (1852) 巻2(1849) 巻3(1859)
1871-1872年には『黒ヤジュル・ヴェーダ』タイッティリーヤ・サンヒターの校訂本を『インド研究』11-12巻として公刊した。
- ヴェーバーはベートリンクとロートによるサンスクリット大辞典(1855-1875)の編纂に大きく貢献した[4]。
- 『インド文学史に関する学術的講演』(1852)は、フランス語や英語に翻訳された。第2版(1876)では注釈の形で大量に情報が追加されている。
- Akademische Vorlesungen über indische Literaturgeschichte. Berlin. (1852)
- ヴェーバーはジャイナ教文学とプラークリット研究の草分けであり、とくに教え子のゲオルク・ビューラーによって大量のジャイナ教写本がベルリンにもたらされた1870年代から1880年代にかけて、プラークリットに研究の中心を移した[5]。
- Das Saptaçatakam des Hâla. Leipzig. (1881)(ハーラ『七百頌集』)
- “Über die heiligen Schriften der Jaina”. Indische Studien 16-17. (1883-1884).(ジャイナ教聖典について)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- “Weber, Albrecht”. The New International Encyclopedia. 20. (1905). p. 389
- Morgenroth, Wolfgang (1975-1976). “Albrecht Friedrich Weber - A pioneer of Indology”. Indologica Taurinensia III-IV: 321-338 .(1975年の第2回国際サンスクリット会議での発表)