アラニ・ヤーノシュ
アラニ・ヤーノシュ | |
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アラニ・ヤーノシュ(1848年) | |
誕生 |
1817年3月2日 オーストリア帝国 ハンガリー王国、サロンタ[1] |
死没 |
1882年10月22日(65歳没) オーストリア=ハンガリー帝国 ハンガリー王国、ブダペスト |
職業 | 作家、詩人、ジャーナリスト、翻訳家、教師 |
言語 | ハンガリー語 |
最終学歴 | デブレツェン大学 |
代表作 |
『トルディ3部作』[2] 『ウェールズの吟遊詩人』[3] |
配偶者 | Julianna Ercsey |
ウィキポータル 文学 |
アラニ・ヤーノシュ(ハンガリー語:Arany János、1817年3月2日 - 1882年10月22日)は、ハンガリー王国ナジサロンタ[4](現:ルーマニアサロンタ)出身の詩人、作家、翻訳家。
代表作は1846年から1879年にかけて著された14世紀の騎士を主人公とした[5][6]全3部作からなる長編叙事詩『トルディ3部作』がある。
また、イギリスの劇作家、詩人であるウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』などを訳し[7]、多くのバラッドを作った。
生涯
[編集]1817年3月2日にハンガリー王国ビハール県ナジサロンタ(現:ルーマニアビホル県サロンタ)にて没落した貴族の家庭に10人兄弟の末っ子として生まれる。幼い頃より父から口承文芸を聞いて育った[7]。
1833年、デブレツェン大学に入学してドイツ語とフランス語を学び、ブダペストで教師やジャーナリストとして働いた。
1840年、ジュリアナ(Julianna Ercsey、1816年 - 1885年)と結婚する。
1846年から1879年にかけてヤーノシュの主著『トルディ3部作』[8]を著す。なお、同年の1846年頃にはキシュファルディ協会の懸賞募集にヤーノシュの著作である『Az elveszett alkotmány』が入賞された[7]。
1848年に『トルディの夜(Toldi estéje)』を著す。
1857年、バラッドの『ウェールズの吟遊詩人』を著す。
1858年にハンガリー科学アカデミーのメンバーとなり、1865年にハンガリー科学アカデミーの事務局長を務めた。
1863年、フン族の伝説に基づいた『ブダの死(Buda halála )』を著す。
1877年、『秋の花』を著す。
1879年は『トルディの恋(Toldi szerelme)』を著した。
1882年10月22日にブダペストで亡くなる。
脚注
[編集]- ^ サロンタは現在のルーマニアである。
- ^ 3部作とは『トルディ(Toldi)』『トルディの夜(Toldi estéje)』『トルディの愛(Toldi szerelme)』を指す。
- ^ いずれも邦題は岩崎悦子によるものとする。
- ^ サロンタのハンガリー名。
- ^ 万有大百科事典 1973, p. 19.
- ^ 岩崎悦子. “アラニュ”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年6月2日閲覧。。
- ^ a b c アラニュとは - コトバンク、2013年2月6日閲覧。
- ^ なお、1846年に著した時のタイトルは『トルディ(Toldi)』である。
参考文献
[編集]- 高津春繁、手塚富雄、西脇順三郎、久松潜一 著、相賀徹夫 編『万有百科大事典 1 文学』(初版)小学館〈日本大百科全書〉(原著1973-8-10)。
- “アラニュとは”. コトバンク. 2013年2月6日閲覧。
関連項目
[編集]- アラニ・ヤーノシュ通り駅
- オシアン
- コダーイ・ゾルターン
- ハンガリー革命 (1848年)
- ハンガリー国立博物館 - ヤーノシュの像がある。
- ペテーフィ・シャーンドル - ハンガリーの詩人で、ヤーノシュの友人であった。
- マルギット橋 - マルギット橋で自殺する人々を見てヤーノシュは多くのバラッドを作った。