コンテンツにスキップ

「アルヴィン・ジョンストン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加
 
(同じ利用者による、間の10版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox aviator
'''アルヴィン・ジョンストン'''(Alvin M. "TEX" Johnston, [[1914年]][[8月18日]] - [[1998年]][[10月29日]])は、ジェット時代の[[ボーイング|ボーイング社]]と[[ベルエアクラフト]]の[[テストパイロット]]。
|name = アルヴィン・ジョンストン
|native_name = Alvin Johnston
|image = CINCSAC Gen. Curtis LeMay and Boeing test pilot Tex Johnston.jpg
|image_size =
|caption = [[カーチス・ルメイ]](左操縦席)とジョンストン(右操縦席)。空中給油機[[KC-135 (航空機)|KC-135]]のテスト飛行にて。
|full_name =
|birth_date = {{birth date|1914|8|18}}
|birth_place = {{USA}} [[カンザス州]][[ライアン郡 (カンザス州)|ライアン郡]]{{仮リンク|アドマイア (カンザス州)|label=アドマイア|en|Admire, Kansas}}
|death_date = {{death date and age|1998|10|29|1914|8|14}}
|death_place = {{USA}} [[ワシントン州]][[スカジット郡 (ワシントン州)|スカジット郡]][[マウントバーノン (ワシントン州)|マウントバーノン]]
|death_cause =
|spouse = Delores Honea
|relatives =
|known_for = [[ボーイング367-80]]による[[バレルロール (マニューバ)|バレルロール]]
|first_flight_aircraft =
|first_flight_date = 1925年
|famous_flights = [[ボーイング707]]や[[B-52 (航空機)|B-52]]のテスト飛行
|license_date =
|license_place =
|air_force =
|battles =
|rank =
|awards = 1946年 {{仮リンク|トンプソン・トロフィー|en|Thompson Trophy}}<br>1993年 {{仮リンク|全米航空殿堂|en|National Aviation Hall of Fame}}
}}
'''アルヴィン・メルヴィン・“テックス”・ジョンストン'''(Alvin Melvin "Tex" Johnston、[[1914年]][[8月18日]] - [[1998年]][[10月29日]])は、[[アメリカ合衆国]]の飛行機操縦士である。ジェット機時代の[[ベルエアクラフト]]と[[ボーイング]]で[[テストパイロット]]を務めた。ジェット機による[[バレルロール (マニューバ)|バレルロール]](宙返り飛行)を行ったことで最も良く知られている。


== 若年期 ==
[[B-47 (航空機)|B-47]]、[[B-52 (航空機)|B-52]]原型機などのテスト飛行を行っている。[[1955年]][[8月7日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[シアトル]]郊外の[[ワシントン湖]]上空で[[ボーイング367-80]]のデモンストレーション飛行を行い、[[バレルロール (マニューバ)|バレルロール]]をしたことで知られている。満84歳没。
ジョンストンは[[1914年]][[8月18日]]に[[カンザス州]][[ライアン郡 (カンザス州)|ライアン郡]]{{仮リンク|アドマイア (カンザス州)|label=アドマイア|en|Admire, Kansas}}の農家で生まれた。ジョンストンが初めて飛行機に乗ったのは1925年、11歳のときで、家族の農場の近くに{{仮リンク|バーンストーミング|label=バーンストーマー|en|Barnstorming}}(曲芸飛行家)が着陸したときだった。15歳のとき、新聞配達で稼いだお金で壊れた[[グライダー]]を購入した<ref name="Johnston">{{cite book |last1=Johnston |first1=A.M. Tex |title=Tex Johnston, Jet-Age Test Pilot |date=1991 |publisher=Smithsonian Institution Press |location=Washington D.C. |isbn=1-56098-013-3 |pages=4–30, 85–100, 201–204, 259–264 |edition=1st}}</ref>。そして、修理したグライダーを、父が運転する自動車で牽引して離陸し、牽引ケーブルを切り離して近くの野原に着陸させた<ref name=Johnston/>。1932年に{{仮リンク|エンポリア高校|en|Emporia High School}}を卒業した後、[[オクラホマ州]][[タルサ (オクラホマ州)|タルサ]]にある{{仮リンク|スパルタン航空技術学校|label=スパルタン航空学校|en|Spartan College of Aeronautics and Technology}}の飛行機整備士課程に入学した。ジョンストンは学校の飛行機を整備することで学費と相殺した。航空学校を卒業後、曲芸飛行団インマンズ・フライング・サーカスに入団し、操縦士と整備士を兼任した<ref name=Johnston/>。インマンズで1シーズンを過ごした後、{{仮リンク|コマンドエアー|en|Command-Aire}}の複葉機を購入し、自分で曲芸飛行を始めた<ref name=Johnston/>。

1934年のバーンストームのシーズンが終わると、ジョンストンは飛行機を売ってカンザス州[[エンポリア (カンザス州)|エンポリア]]の実家に戻った。そして高校時代のガールフレンドであるデローレス・ホネアと再会し、1935年に結婚した<ref name=Johnston/>。家族を養うための安定した収入を得るために、数年間映画館を経営していたが、やがて航空業界に戻りたいと思うようになった<ref name=Johnston/>。[[カンザス州立大学]]の航空工学課程に入学したが、1939年に退学し、[[アメリカ陸軍航空隊]]の{{仮リンク|民間人パイロット養成プログラム|en|Civilian Pilot Training Program}}の教官になった。アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、ジョンストンは陸軍航空隊輸送司令部に転属し、テキサス州[[ダラス]]を拠点に国内の輸送便を運航した<ref>{{Cite book | last1=Jackson | first1=Kenneth T. | last2=Markoe | first2=Karen | last3=Markoe | first3=Arnie | title=The Scribner Encyclopedia of American Lives | publisher=Simon and Schuster | year=1998 | location=United States | pages=295–296 | url=https://books.google.com/books?id=7QsOn9_NviAC&q=The+Scribner+Encyclopedia+of+American+Lives | isbn=978-0-684-80663-1}}</ref>。

== テストパイロット ==
===ベルエアクラフト===
1942年12月、[[ベルエアクラフト]]のチーフテストパイロットである{{仮リンク|ロバート・スタンレー|en|Robert Stanley (aviator)}}からプロダクションテストパイロットとして雇われた<ref name=Johnston/>。ジョンストンは、試作段階の[[P-39 (航空機)|P-39エアラコブラ]]、[[P-63 (航空機)|XP-63キングコブラ]]、アメリカ初のジェット機[[P-59 (航空機)|XP-59エアラコメット]]を操縦した。ジョンストンは、勤務中に[[カウボーイブーツ]]と{{仮リンク|ステットソン|en|Stetson}}ハットを好んで着用していたことから、「テックス」(Tex.、テキサス州の略称)というニックネームで呼ばれていた<ref name="Jet Age">Sam Howe Verhovek, ''[https://books.google.com/books?id=C3rlY7K3y5sC&pg=PT28 Jet Age: The Comet, the 707, and the Race to Shrink the World]'', c. pp. 48-49<!-- Sorry! Google books provides it w/o page numbers, and the index gives the entries but not the page #s --></ref>。

[[第二次世界大戦]]終結後、ジョンストンは社長の[[ローレンス・ベル]]に掛け合って、終戦で余ったP-39エアラコブラを2機購入してもらい、これを改造して、自社の宣伝のために1946年の{{仮リンク|ナショナル・エア・レース|en|National Air Races}}に出場させることにした。2機のP-39はコブラI、コブラIIと名付けられ、ジョンストンはコブラIIに、フライトテストのボスである{{仮リンク|ジャック・ウーラムス|en|Jack Woolams}}はコブラIに搭乗した。レースの前日、コブラIはキャノピーの故障が原因と推定される不具合により[[オンタリオ湖]]に墜落し、ウーラムスは死亡した<ref name=Johnston/>。ベルエアクラフト社の内部では、このままレースを続けるかどうかが議論されたが、ジョンストンは、ウーラムスもレース出場を望んでいるだろうと主張した。コブラIIのクルーは徹夜で安全対策を施し、ジョンストンは時速373マイル(時速600キロメートル)のレーススピード記録を樹立して優勝した<ref>{{Cite web|url=http://www.airrace.com/thompson_trophy_story.htm|title=Thompson Trophy Story|accessdate=2021-12-01}}</ref>。

ジョンストンは、ロケット推進の[[X-1 (航空機)|X-1]]の設計に携わり、1947年5月22日には[[マッハ数|マッハ]]0.72の速度で飛行した<ref name="dryden_flight_summary">"[http://www.nasa.gov/centers/dryden/history/HistoricAircraft/X-1/fltsummary.html NASA - Dryden History - Historic Aircraft - X-1 Flight Summary]."</ref>。同年末、[[チャック・イェーガー]]がこの飛行機で[[音の壁|音速の壁]]を破ったことで有名になった。

X-1プロジェクトが終了した後、ベルエアクラフト社は[[ヘリコプター]]に参入することを決定した。ジョンストンはヘリコプターの操縦を学んだものの、固定翼機のテスト飛行をしたいと思っていた<ref name=Johnston/>。

===ボーイング===
1948年7月、ジョンストンは[[ボーイング]]のテストパイロットに転職した。[[B-47 (航空機)|B-47ストラトジェット]]に乗り、[[B-52 (航空機)|B-52ストラトフォートレス]]の試作機の初飛行の操縦を行った<ref name="boeing_b52_first_flight">"[http://www.boeing.com/defense-space/military/b52-strat/b52_50th/ff.htm Boeing: News Feature - B-52 50th Anniversary - First Flight] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091217203816/http://boeing.com/defense-space/military/b52-strat/b52_50th/ff.htm |date=December 17, 2009}}."</ref>。

ジョンストンは、[[1955年]][[8月7日]]、[[シアトル]]郊外の{{仮リンク|ワシントン湖|en|Lake Washington}}上空で、同社のジェット輸送機の試作機である[[ボーイング367-80]](ダッシュ・エイティ)で[[バレルロール (マニューバ)|バレルロール]]を実演したことで知られている<ref>{{Cite web | url=http://www.airspacemag.com/history-of-flight/Dash_80.html | last=Thompson | first=R.G. | title=Dash 80 - The story of the prototype 707 | publisher=Air & Space Magazine | date=May 1, 1987 | access-date=March 14, 2009}}</ref>。ボーイングの{{仮リンク|ウィリアム・マクファーソン・アレン|label=ビル・アレン|en|William McPherson Allen}}社長(当時)は、シアトルの夏祭りである{{仮リンク|シーフェア|en|Seafair}}で行われる水上機エアレースに航空宇宙企業や航空会社の幹部を招き、ワシントン湖を遊覧するヨットから観戦していた。事前にアレンはジョンストンに、自社の新しい航空機でその上空をデモ飛行するように依頼した。そこでジョンストンは、社長やその招待客の真上でバレルロールを行い、{{仮リンク|シャンデル|en|Chandelle}}でコースを反転させ、帰りにもう一度バレルロールを行ったのである<ref name=Johnston/>。翌週の月曜日、アレンはジョンストンを社長室に呼び出し、何をしたんだと尋ねた。ジョンストンは「飛行機の売込みをしました」と答えた<ref name=Johnston/>。この一件で、ジョンストンはテストパイロットを辞めさせられることはなかった。

==プログラムマネージャーとその後==
1960年から1963年まで、シアトルで宇宙偵察機[[X-20 (宇宙船)|X-20ダイナソア]]の開発のアシスタントプログラムマネージャーを務めた<ref name=Johnston/>。1964年から1968年まで、[[フロリダ州]][[ココアビーチ]]にあるボーイング・アトランティック・テストセンターのマネージャーとして、[[ミニットマン (ミサイル)|ミニットマン・ミサイル]]と[[アポロ計画]]に向けた[[ルナ・オービター計画|ルナ・オービター]]の開発に携わった。また、[[NASA]]でも[[サターンロケット]]と[[アポロ計画]]を担当した<ref name=Johnston/>。

1968年、ジョンストンはボーイング社を離れ、テックス・ジョンストン社(Tex Johnston, Inc.)、トータル・インフライト・シミュレータ社(Total-In-Flight-Simulator Inc.)、{{仮リンク|エアロ・スペースラインズ|en|Aero Spacelines}}社(Aero Spacelines)を経営した。エアロ・スペースラインズでは、「[[プレグナントグッピー]]」と呼ばれる大型貨物機の製造と型式認定取得を担当した<ref name=Johnston/>。

1975年、ジョンストンはかつての上司であるロバート・スタンレーと再会し、{{仮リンク|スタンレー・アビエーション|en|Stanley Aviation}}のチーフパイロットとなり、[[射出座席]]の開発を行った<ref name=Johnston/>。

1991年、ジョンストンは作家のチャールズ・バートンとともに回顧録"''Tex Johnston: Jet Age Test Pilot''"(テックス・ジョンストン: ジェット時代のテストパイロット)を執筆した。

==死去==
ジョンストンは[[1998年]][[10月29日]]に[[アルツハイマー病]]により、[[ワシントン州]][[スカジット郡 (ワシントン州)|スカジット郡]][[マウントバーノン (ワシントン州)|マウントバーノン]]の老人ホームで亡くなった<ref>https://www.nytimes.com/1998/11/14/us/tex-johnston-84-pilot-ushered-in-airline-era.html</ref>。

ジョンストンは1993年に{{仮リンク|全米航空殿堂|en|National Aviation Hall of Fame}}に殿堂入りした<ref name=AviationHOF>{{Cite web|title=Alvin "Tex" Johnston|url=http://www.nationalaviation.org/johnston-alvin/|publisher=National Aviation Hall of Fame|access-date=April 6, 2011}}</ref>。

映画『[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|博士の異常な愛情]]』に登場する、[[スリム・ピケンズ]]が演じたB-52パイロットのT・J・“キング”・コング少佐のキャラクターは、ジョンストンのカウボーイスタイルの服装や破天荒な行動の影響を受けていると言われている<ref name="Jet Age" />。

==脚注==
{{Reflist}}

==外部リンク==
*{{YouTube|3IV9PZW1N9U|Video of Johnston's Barrel Roll}}
*[http://www.aviationexplorer.com/707_roll_video.htm Aviation Explorer - Barrel Roll]
*[http://www.nationalaviation.org/johnston-alvin/ National Aviation Hall of Fame - Tex Johnston]
*[https://www.historylink.org/File/21030 Encyclopedia of Washington State History - Tex Johnston]


{{Normdaten}}
{{Normdaten}}
9行目: 77行目:
[[Category:1914年生]]
[[Category:1914年生]]
[[Category:1998年没]]
[[Category:1998年没]]
[[Category:カンザス州ライアン郡出身の人物]]
{{People-substub}}
[[Category:テストパイロット]]
{{Aviation-stub}}

2021年12月1日 (水) 13:08時点における最新版

アルヴィン・ジョンストン
}
カーチス・ルメイ(左操縦席)とジョンストン(右操縦席)。空中給油機KC-135のテスト飛行にて。
現地語名 Alvin Johnston
生誕 (1914-08-18) 1914年8月18日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カンザス州ライアン郡アドマイア英語版
死没 1998年10月29日(1998-10-29)(84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントン州スカジット郡マウントバーノン
配偶者 Delores Honea
飛行経歴
著名な実績 ボーイング367-80によるバレルロール
初飛行 1925年
著名な飛行 ボーイング707B-52のテスト飛行
受賞 1946年 トンプソン・トロフィー英語版
1993年 全米航空殿堂英語版
テンプレートを表示

アルヴィン・メルヴィン・“テックス”・ジョンストン(Alvin Melvin "Tex" Johnston、1914年8月18日 - 1998年10月29日)は、アメリカ合衆国の飛行機操縦士である。ジェット機時代のベルエアクラフトボーイングテストパイロットを務めた。ジェット機によるバレルロール(宙返り飛行)を行ったことで最も良く知られている。

若年期

[編集]

ジョンストンは1914年8月18日カンザス州ライアン郡アドマイア英語版の農家で生まれた。ジョンストンが初めて飛行機に乗ったのは1925年、11歳のときで、家族の農場の近くにバーンストーマー英語版(曲芸飛行家)が着陸したときだった。15歳のとき、新聞配達で稼いだお金で壊れたグライダーを購入した[1]。そして、修理したグライダーを、父が運転する自動車で牽引して離陸し、牽引ケーブルを切り離して近くの野原に着陸させた[1]。1932年にエンポリア高校英語版を卒業した後、オクラホマ州タルサにあるスパルタン航空学校英語版の飛行機整備士課程に入学した。ジョンストンは学校の飛行機を整備することで学費と相殺した。航空学校を卒業後、曲芸飛行団インマンズ・フライング・サーカスに入団し、操縦士と整備士を兼任した[1]。インマンズで1シーズンを過ごした後、コマンドエアー英語版の複葉機を購入し、自分で曲芸飛行を始めた[1]

1934年のバーンストームのシーズンが終わると、ジョンストンは飛行機を売ってカンザス州エンポリアの実家に戻った。そして高校時代のガールフレンドであるデローレス・ホネアと再会し、1935年に結婚した[1]。家族を養うための安定した収入を得るために、数年間映画館を経営していたが、やがて航空業界に戻りたいと思うようになった[1]カンザス州立大学の航空工学課程に入学したが、1939年に退学し、アメリカ陸軍航空隊民間人パイロット養成プログラム英語版の教官になった。アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、ジョンストンは陸軍航空隊輸送司令部に転属し、テキサス州ダラスを拠点に国内の輸送便を運航した[2]

テストパイロット

[編集]

ベルエアクラフト

[編集]

1942年12月、ベルエアクラフトのチーフテストパイロットであるロバート・スタンレー英語版からプロダクションテストパイロットとして雇われた[1]。ジョンストンは、試作段階のP-39エアラコブラXP-63キングコブラ、アメリカ初のジェット機XP-59エアラコメットを操縦した。ジョンストンは、勤務中にカウボーイブーツステットソン英語版ハットを好んで着用していたことから、「テックス」(Tex.、テキサス州の略称)というニックネームで呼ばれていた[3]

第二次世界大戦終結後、ジョンストンは社長のローレンス・ベルに掛け合って、終戦で余ったP-39エアラコブラを2機購入してもらい、これを改造して、自社の宣伝のために1946年のナショナル・エア・レース英語版に出場させることにした。2機のP-39はコブラI、コブラIIと名付けられ、ジョンストンはコブラIIに、フライトテストのボスであるジャック・ウーラムス英語版はコブラIに搭乗した。レースの前日、コブラIはキャノピーの故障が原因と推定される不具合によりオンタリオ湖に墜落し、ウーラムスは死亡した[1]。ベルエアクラフト社の内部では、このままレースを続けるかどうかが議論されたが、ジョンストンは、ウーラムスもレース出場を望んでいるだろうと主張した。コブラIIのクルーは徹夜で安全対策を施し、ジョンストンは時速373マイル(時速600キロメートル)のレーススピード記録を樹立して優勝した[4]

ジョンストンは、ロケット推進のX-1の設計に携わり、1947年5月22日にはマッハ0.72の速度で飛行した[5]。同年末、チャック・イェーガーがこの飛行機で音速の壁を破ったことで有名になった。

X-1プロジェクトが終了した後、ベルエアクラフト社はヘリコプターに参入することを決定した。ジョンストンはヘリコプターの操縦を学んだものの、固定翼機のテスト飛行をしたいと思っていた[1]

ボーイング

[編集]

1948年7月、ジョンストンはボーイングのテストパイロットに転職した。B-47ストラトジェットに乗り、B-52ストラトフォートレスの試作機の初飛行の操縦を行った[6]

ジョンストンは、1955年8月7日シアトル郊外のワシントン湖上空で、同社のジェット輸送機の試作機であるボーイング367-80(ダッシュ・エイティ)でバレルロールを実演したことで知られている[7]。ボーイングのビル・アレン英語版社長(当時)は、シアトルの夏祭りであるシーフェア英語版で行われる水上機エアレースに航空宇宙企業や航空会社の幹部を招き、ワシントン湖を遊覧するヨットから観戦していた。事前にアレンはジョンストンに、自社の新しい航空機でその上空をデモ飛行するように依頼した。そこでジョンストンは、社長やその招待客の真上でバレルロールを行い、シャンデル英語版でコースを反転させ、帰りにもう一度バレルロールを行ったのである[1]。翌週の月曜日、アレンはジョンストンを社長室に呼び出し、何をしたんだと尋ねた。ジョンストンは「飛行機の売込みをしました」と答えた[1]。この一件で、ジョンストンはテストパイロットを辞めさせられることはなかった。

プログラムマネージャーとその後

[編集]

1960年から1963年まで、シアトルで宇宙偵察機X-20ダイナソアの開発のアシスタントプログラムマネージャーを務めた[1]。1964年から1968年まで、フロリダ州ココアビーチにあるボーイング・アトランティック・テストセンターのマネージャーとして、ミニットマン・ミサイルアポロ計画に向けたルナ・オービターの開発に携わった。また、NASAでもサターンロケットアポロ計画を担当した[1]

1968年、ジョンストンはボーイング社を離れ、テックス・ジョンストン社(Tex Johnston, Inc.)、トータル・インフライト・シミュレータ社(Total-In-Flight-Simulator Inc.)、エアロ・スペースラインズ英語版社(Aero Spacelines)を経営した。エアロ・スペースラインズでは、「プレグナントグッピー」と呼ばれる大型貨物機の製造と型式認定取得を担当した[1]

1975年、ジョンストンはかつての上司であるロバート・スタンレーと再会し、スタンレー・アビエーション英語版のチーフパイロットとなり、射出座席の開発を行った[1]

1991年、ジョンストンは作家のチャールズ・バートンとともに回顧録"Tex Johnston: Jet Age Test Pilot"(テックス・ジョンストン: ジェット時代のテストパイロット)を執筆した。

死去

[編集]

ジョンストンは1998年10月29日アルツハイマー病により、ワシントン州スカジット郡マウントバーノンの老人ホームで亡くなった[8]

ジョンストンは1993年に全米航空殿堂英語版に殿堂入りした[9]

映画『博士の異常な愛情』に登場する、スリム・ピケンズが演じたB-52パイロットのT・J・“キング”・コング少佐のキャラクターは、ジョンストンのカウボーイスタイルの服装や破天荒な行動の影響を受けていると言われている[3]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Johnston, A.M. Tex (1991). Tex Johnston, Jet-Age Test Pilot (1st ed.). Washington D.C.: Smithsonian Institution Press. pp. 4–30, 85–100, 201–204, 259–264. ISBN 1-56098-013-3 
  2. ^ Jackson, Kenneth T.; Markoe, Karen; Markoe, Arnie (1998). The Scribner Encyclopedia of American Lives. United States: Simon and Schuster. pp. 295–296. ISBN 978-0-684-80663-1. https://books.google.com/books?id=7QsOn9_NviAC&q=The+Scribner+Encyclopedia+of+American+Lives 
  3. ^ a b Sam Howe Verhovek, Jet Age: The Comet, the 707, and the Race to Shrink the World, c. pp. 48-49
  4. ^ Thompson Trophy Story”. 2021年12月1日閲覧。
  5. ^ "NASA - Dryden History - Historic Aircraft - X-1 Flight Summary."
  6. ^ "Boeing: News Feature - B-52 50th Anniversary - First Flight Archived December 17, 2009, at the Wayback Machine.."
  7. ^ Thompson, R.G. (May 1, 1987). “Dash 80 - The story of the prototype 707”. Air & Space Magazine. March 14, 2009閲覧。
  8. ^ https://www.nytimes.com/1998/11/14/us/tex-johnston-84-pilot-ushered-in-airline-era.html
  9. ^ Alvin "Tex" Johnston”. National Aviation Hall of Fame. April 6, 2011閲覧。

外部リンク

[編集]