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「小倉黒人米兵集団脱走事件」の版間の差分

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'''小倉黒人米兵集団脱走事件'''は[[1950年]][[7月11日]]、[[小倉市]](現[[北九州市]])で、基地から多数の[[在日米軍]]の[[アフリカ系アメリカ人]]([[黒人]])兵が集団脱走し、周辺地区の住民に[[暴行]]を行なった騒擾事件。
| 名称 = 小倉黒人米兵集団脱走事件{{efn2|[[福岡県警察]]は「黒人兵暴動」としている<ref name="police848">福岡県警察史編さん委員会・編[https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN04072723 『福岡県警察史』昭和前編] [[福岡県警察本部]] 1978年 P.848</ref>。}}
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'''小倉黒人米兵集団脱走事件'''は、[[1950年]]([[昭和]]25年)[[7月11日]]、[[連合国軍占領下の日本]]である[[福岡県]][[小倉市]](現[[北九州市]])で発生した[[アメリカ陸軍]]の兵士の大量脱走事件である。基地から多数の[[アフリカ系アメリカ人]]([[黒人]])兵が集団で脱走し、周辺地区の住民に[[略奪]]や[[暴行]]、[[強姦]]を行なった。しかし[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)による[[情報規制]]のためほとんど報道されず、被害者も口を閉ざしたことから、事件の詳細は分かっていない<ref name="police848"/><ref name="gekidou20a"/>。


==概要==
== 背景 ==
[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]])終結後、小倉市にあった[[歩兵第14連隊]](小倉連隊)の跡地には、[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]として[[アメリカ陸軍]][[第24歩兵師団 (アメリカ軍)|第24歩兵師団]]が駐屯するキャンプ小倉(現・[[陸上自衛隊]][[小倉駐屯地]])が設置された。小倉には米兵を相手に商売をする者が集まり、[[パンパン]]の数も増加していった。
[[連合国軍]]占領下の1950年7月11日に、[[アメリカ軍]]の駐屯する小倉市・[[城野分屯地|城野補給基地]]から武装した黒人兵士約75~250名が[[脱走]]、数名ずつに分かれて繁華街や周辺民家に侵入し、破壊、[[略奪]]、傷害、[[強姦]]など犯罪行為を繰り返した。脱走兵らは[[カービン|カービン銃]]や[[小銃|ライフル銃]]を手にし、[[手榴弾]]をぶら下げている者もおり、少人数のアメリカ軍[[憲兵]]と[[小倉市警察]]では対応できず、[[アメリカ陸軍]]二個中隊が鎮圧のために出動する。翌日12日には収束に向かうが、[[市街戦]]の末15日に鎮圧したともいう。


1950年6月に入ると、小倉市内の[[ペンキ]]屋に[[戦闘用ヘルメット|軍帽]]や[[ジープ]]の塗り直しが大量発注され、米兵たちにも武器の手入れが命じられるなど、風雲急を告げた<ref name="gekidou20b">『激動二十年-福岡県の戦後史』P.158{{ndash}}159</ref>。6月25日、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[朝鮮人民軍]]十個師団が[[大韓民国]]に侵入し、朝鮮戦争が勃発した。[[朝鮮半島]]に最も近い場所にあった第24歩兵師団は、6月30日には第1大隊の通称「スミス支隊」が派遣されるなど、続々と朝鮮半島に派遣されていった。小倉市[[砂津]]の[[北九州港]]の岸壁では、[[リバティ船]]や[[LST-1級戦車揚陸艦|LST]]が続々と横付けされ、規制線が張られて慌ただしく出港準備が進む中、米兵と馴染みのパンパンが別れを悲しむ光景があった<ref name="gekidou20b"/>。
彼らは前日10日に[[岐阜県|岐阜]]から城野補給基地第24連隊に移送され、近いうちに[[朝鮮戦争]]の前線に送られる予定であった。事件当時は[[国際連合軍|国連軍]]が連戦連敗の劣勢の時期で、またアメリカ軍のなかで黒人部隊は厳しい人種差別にさらされ、黒人だけの人種隔離された部隊のなか危険なに送られる恐怖と自暴自棄が高じて脱走につながったともいう<ref>{{Cite web|title=『論』 朝鮮戦争と「黒地の絵」 1950年が見えてくる|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=70463|website=ヒロシマ平和メディアセンター|accessdate=2021-02-10|language=ja}}</ref>。生った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られほとんどが戦死したともいう


第24歩兵師団と朝鮮人民軍の戦闘は熾烈を極め、7月17日は師団本部が直接攻撃され壊滅。[[ウィリアム・ディーン]]師団長自らゲリラ戦を展開{{efn2|ディーン師団長は8月25日に[[捕虜]]となり、国連軍で捕虜となった最高位の人物となった。}}するなど激戦が続いた。米軍を指揮する[[第8軍 (アメリカ軍)|第8軍]]司令官の[[ウォルトン・ウォーカー]]は、激闘を繰り広げる米兵への慰問の一環として、12月に帰休(リターン・レスト、Return Rest)の制度を設けた。朝鮮半島で戦闘に従事する米兵を空路で[[芦屋基地]]に送還し、キャンプ小倉内に設置したRRセンターで5日から1週間の休養を与えられた。RRセンターで身支度を整えた米兵は小倉の町に繰り出したが、[[売春]]などで彼らが小倉で消費した日本円は1ヶ月で4億円にも及んだ{{efn2|[[1951年]](昭和26年)6月に小倉市は風紀取締条例を制定したが、これは九州でも[[佐世保市]]に続く2番目という早さだった。}}<ref>『激動二十年-福岡県の戦後史』P.164{{ndash}}165</ref>。
大事件ではあったが、当時の日本が連合国軍の占領下であったことから、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[情報規制]]のためほとんど報道されず、被害の詳細もわかっていない。後に発行された福岡県警史では、1950年7月の1カ月間で占領軍人による不法事案は64件あったと報告されており、米国立公文書館にも記録が残されている<ref>{{Cite news|title=小倉の米兵集団脱走、浮かぶ被害 70年前、占領下の屈辱 一夜で窃盗・強姦未遂など42件|url=https://mainichi.jp/articles/20200729/ddm/012/040/087000c|work=Mainichi Daily News|date=2020-07-29|accessdate=2021-02-10|language=jp}}</ref>。警察に届けられた被害は70数件に過ぎないが<ref>{{Cite book|title=炎と緑と北九州の歩み|date=|year=1973|publisher=西日本新聞社開発局出版部}}</ref>、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数あったと伝えられる。

一方で、明日には激戦地に送られ、帰休しても再び激戦地に戻る米兵の心は荒れ、自暴自棄による犯罪が続発した。7月4日には、小倉市下城野(現・[[小倉南区]]下城野)で23歳の米兵が[[銃剣]]で一家5人を襲撃し、5歳の娘を除く4人を殺害する事件が起きた。しかし[[小倉市警察]]には[[捜査]]の権限が無く、[[憲兵]]からの「[[軍法会議]]で処罰する」という通達と、娘への60万円の保証金だけで事件は解決させられた<ref>『激動二十年-福岡県の戦後史』P.161{{ndash}}162</ref>。

== 脱走 ==
7月9日、壊滅した第24歩兵師団の補充として、黒人を中心に構成された{{efn2|脱走兵の中には、少数だが[[白人]]の兵士もいた<ref name="police850">『福岡県警察史』昭和前編 P.850</ref><ref name="police855">『福岡県警察史』昭和前編 P.855</ref>。}}[[第25歩兵師団 (アメリカ軍)|第25歩兵師団]]第24歩兵連隊が、[[岐阜県]]から小倉市の城野補給基地(後に陸上自衛隊[[城野分屯地]]、現在の[[城野駅]]北側住宅地)に送られてきた<ref name="police848"/>。7月11日、戦後初めて開催される[[小倉祇園太鼓]]の前夜祭の中、17時には2人の黒人兵が近所の酒店を訪れ、見本の一升瓶を持ち去った<ref name="gekidou20a"/><ref name="police849"/>。

18時頃、約200人の兵士が基地西側の[[有刺鉄線]]を破り集団[[脱走]]した<ref name="gekidou20a"/><ref name="police849"/>。脱走兵たちは野戦服のまま[[U.S.M1カービン|カービン銃]]や[[拳銃]]、[[手榴弾]]で武装しており<ref name="police851"/>、周辺住民には[[演習]]と思う者もいた<ref name="police849"/>。基地の周囲は[[水田]]で、大量の兵士が脱走する様は「黒いサルの集団が走り去るようだった」という<ref name="gekidou20a"/><ref name="police849"/>。

脱走兵は基地周辺の足立や足原、三郎丸、熊本町に繰り出し<ref name="gekidou20a"/><ref name="police850"/>、酒店に押し入り[[酒]]を盗み<ref name="gekidou20a"/><ref name="police849"/>{{efn2|ただし、金を払って[[ワイン]]を購入したり、団地の中にあった[[居酒屋]]で飲み食いするなど、合法的に飲酒をする兵士もいた<ref name="police850"/>。}}、[[焼酎]]の小瓶まで盗んで<ref name="police854">『福岡県警察史』昭和前編 P.854</ref>店舗を破壊したり、民家の[[箪笥]]をひっくり返す<ref name="police853">『福岡県警察史』昭和前編 P.853</ref>などの狼藉を働いた。

脱走兵は女性をもとめて家の扉をこじ開けようとした<ref name="police851"/>が、住民は妻や娘を押入や便所に隠したりして<ref name="police853"/>脱走兵が去るのを待った。隣接する福岡県立小倉ろう学校(現・福岡県立小倉聴覚支援学校)の寄宿舎にも白人1人を含む3人の脱走兵が侵入し、舎監に拳銃を突きつけ女を出せと迫った<ref name="police850"/>。脱走兵の数が20{{ndash}}30人に増えたが<ref name="police853"/>、舎監がとっさに町の方を指さしたので脱走兵はその方向にあった旧[[小倉陸軍造兵廠]]の宿舎に向かった。脱走兵が学校を立ち去った後、女子生徒を浴室の風呂桶の中に隠して男性教諭が寝ずの番をしたが、宿舎の方から女性の悲鳴がしたという<ref name="police850"/>。このほかにも、各地で女性の悲鳴が聞こえたという証言があり<ref name="police853"/>、悲鳴が聞こえたところへ行くと髪が乱れ泥だらけの女性がうずくまっていたという例は「いくらもあった」<ref name="police855"/>という。しかし、婦女暴行既遂の報告は1件も無かったと結論付けられており<ref name="police854"/>、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数あったと伝えられる。

事件後、小倉署で米軍立ち合いの元、市民からの被害申し立てが行われた<ref name="police856">『福岡県警察史』昭和前編 P.856</ref>。強盗、窃盗、暴行、傷害、強姦は、警察や憲兵隊に報告されたものだけで70数件にのぼり<ref name="gekidou20a"/><ref>{{Cite book|title=炎と緑と北九州の歩み|date=|year=1973|publisher=西日本新聞社開発局出版部}}</ref>、[[アメリカ国立公文書記録管理局|米国立公文書館]]にも窃盗や強姦未遂42件の記録が残されている<ref>{{Cite news|title=小倉の米兵集団脱走、浮かぶ被害 70年前、占領下の屈辱 一夜で窃盗・強姦未遂など42件|url=https://mainichi.jp/articles/20200729/ddm/012/040/087000c|work=Mainichi Daily News|date=2020-07-29|accessdate=2021-02-10|language=jp}}</ref>。しかしこれらの事件で小倉市警察が検挙したのは殺人の1件のみ<ref name="police857">『福岡県警察史』昭和前編 P.857</ref>で、強姦など申告されていない事件もあり、その真相は不明である<ref name="gekidou20a"/><ref name="police848"/>。

== 鎮圧 ==
この間、脱走兵の事実は隠され、[[朝日新聞西部本社]]のニュースカーが「三萩野から南の交通が遮断されるので、芦塚、城野方面の帰宅者は派出所に情報を尋ねること」と呼びかけるだけだった<ref name="gekidou20a"/><ref name="police852">『福岡県警察史』昭和前編 P.852</ref>。

三萩野派出所に市民からの通報があり<ref name="police851"/>、小倉警察署(現・[[小倉北警察署]])は初めて事件の発生を知った。[[小倉玉屋]]の前にあった米軍の憲兵司令部が鎮圧にあたることになり、米軍による非常線が張られたのは、脱走が発生して2時間ほど経過してからのことだった。[[三萩野]]から[[北方 (北九州市)|北方]]の「[[旧電車通り (北九州市)|電車通り]]」を中心に自動小銃や[[機関銃]]、[[エリコンFF 20 mm 機関砲|20mm機関砲]]で武装した憲兵隊の[[ジープ]]が展開した<ref name="gekidou20a"/>。応援を要請された小倉市警察も、[[拳銃]]{{efn2|支給されたばかりの[[S&W M10]]<ref name="gekidou20a"/>や、三萩野派出所に1丁だけある[[十四年式拳銃]]<ref name="police852"/>が小倉市警察の数少ない銃器だった。}}を武器に<ref name="gekidou20a"/>全署員を非常招集、清水・旦過橋・香春口に非常線を敷いて交通を遮断し、警戒にあたった<ref name="police852"/>。憲兵司令部の当直担当だったマグリアノ憲兵曹長<ref name="police851"/>は、ともに鎮圧にあたる小倉署の巡査に次のように注意した<ref name="gekidou20a"/>。

{{Quotation|やつらが少しでも手を降ろそうとしたら撃ち殺してしまえ。遠慮したらやられるぞ。}}

マグリアノ曹長は巡査と共に20mm機関砲を装備したジープで走り回りながら、兵士の拳銃の[[弾倉]]を抜き取り、ワインの窃盗が判明した兵士は殴るなど、事態の鎮圧に動いた。基地に戻された兵士の中には、白人の中隊長から[[認識票]]をむしり取られる処罰を受ける者もいた<ref name="police852"/>。小倉市警察は非常線で脱走兵を基地に押し戻そうとし、市民を基地に近づけないようにした<ref name="police852"/>。10名の署員が十四年式拳銃と[[警棒]]だけで基地の北東側にある黒原営団住宅(現・城野団地)に向かった<ref name="police852"/>が、脱走兵の数が多すぎ<ref name="police853"/>、ついには30{{ndash}}40人の脱走兵に囲まれた<ref name="police854"/>。23時半には「警官隊が集中射撃を受け全滅」の報が小倉署に届き、署員が憲兵隊のジープで救出に向かったが、警官隊は脱走兵と白人の憲兵の銃撃戦の中、[[匍匐]]で脱出したため無事だった。結局、少人数の憲兵隊と小倉市警察では対応できず、米陸軍二個中隊が鎮圧のために出動した。装甲車に分乗した中隊は脱走兵と[[市街戦]]になったほか<ref name="police852"/>、基地の西側でも[[弾道]]が飛び交う銃撃戦が起きた<ref name="police850"/>。

夜23時半になって、第24歩兵連隊のスミス代将が脱走兵を説得し回って鎮圧に入ったが、2、3人で徒党を組みカービン銃で武装した脱走兵は朝6時頃まで市中をうろつき、市民は夏なのに[[雨戸]]を閉じて一夜を過ごした<ref name="police854"/>。翌朝、小倉署管内の派出所には、押収された手榴弾や銃弾、[[銃剣]]が山積みされた<ref name="police855"/>。

最後まで脱走した黒人兵は、12日夕方に首から銃を下げ、右手に靴、左手にウイスキーの空瓶を持ったまま[[小文字通り]]で逮捕された<ref name="gekidou20a"/>。しかし、7月14日に小倉地区憲兵司令官は数名の黒人兵と白人兵が帰隊していないと発表し、見つけた場合は小倉憲兵隊か最寄りの警察署に報告するよう市民に要望した<ref name="police855"/>。

== 事件後 ==
軍のなかで黒人部隊は厳しい人種差別にさらされ、黒人だけの人種隔離された部隊の、激に送られる恐怖と自暴自棄が高じ<ref name="police855"/><ref>{{Cite web|title=『論』 朝鮮戦争と「黒地の絵」 1950年が見えてくる|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=70463|website=ヒロシマ平和メディアセンター|accessdate=2021-02-10|language=ja}}</ref>、小倉祇園太鼓の祭囃子がっかけで脱走につながったと言われている<ref name="gekidou20a"/><ref name="police855"/>。第24歩兵連隊2日後に朝鮮半島へ出発し朝鮮半島北部で全滅した<ref name="gekidou20a"/>

強姦の被害に遭った世帯の中には、噂が広まり[[転居]]を余儀なくされた世帯や、目の前で妻が強姦された夫が酒浸りになって溺死し生活に困窮する世帯もあった<ref name="police850"/>。

7月13日、キャンプ小倉司令官のロバート大佐は、「当地の米軍に不吉な事件が発生した」ことに[[遺憾の意]]を示し、全ての違反は当局に起訴され処罰されるという談話を発表した<ref name="police855"/>。1ヶ月後、黒人兵の感情に応えるため、キャンプ小倉の憲兵副長に初の黒人であるタケット中尉が任命された<ref name="gekidou20a"/>。

当時、小倉に住んでいた[[松本清張]]は、『半生の記』(河出書房新社、1992年)で当事件を記録しているほか、この事件を題材にした小説『黒地の絵』を発表している。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 『激動二十年―福岡県の戦後史』 [[毎日新聞]]西部本社刊
* 『目録20世紀 1950』 [[講談社]]刊
* 『目録20世紀 1950』 [[講談社]]刊
* 『20世紀全記録』 講談社刊
* 『20世紀全記録』 講談社刊
* 『朝鮮戦争』 [[児島襄]]著
* 『朝鮮戦争』 [[児島襄]]著
* 『黒地の絵』 [[松本清張]]著-この事件を題材にした小説
* 『半生の記』松本清張著、河出書房新社、1992年
** 当時、小倉に住んでいた松本が当事件を記録している。
* 『門司と小倉の歴史から九州がわかる話27 アメリカ陸軍黒人兵の暴動と北九州大水害』田郷利雄、J・F刊
* 『門司と小倉の歴史から九州がわかる話27 アメリカ陸軍黒人兵の暴動と北九州大水害』田郷利雄、J・F刊
* [https://core.ac.uk/download/pdf/228690673.pdf 松本清張「黒地の絵」論(李 彦樺、関西大学学術リポジトリ)]
* [https://core.ac.uk/download/pdf/228690673.pdf 松本清張「黒地の絵」論(李 彦樺、関西大学学術リポジトリ)]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

* [https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076573 松本清張の小説『黒地の絵』の題材にもなった事件で朝鮮戦争のとき小倉市の米軍キャンプから米兵が脱走した事が載っている資料を紹介してください。 - レファレンス協同データベース]
* [https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000076573 松本清張の小説『黒地の絵』の題材にもなった事件で朝鮮戦争のとき小倉市の米軍キャンプから米兵が脱走した事が載っている資料を紹介してください。 - レファレンス協同データベース]

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2021年4月7日 (水) 15:21時点における版

小倉黒人米兵集団脱走事件[注 1]
場所 日本の旗 日本福岡県小倉市城野[2]
日付 1950年昭和25年)7月11日18時頃[2][3] – 7月12日夕方[2]
攻撃側人数 約200人[2][3]
武器 U.S.M1カービン拳銃手榴弾など
影響 憲兵副官に黒人を登用[2]
管轄 小倉市警察[2][4]
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小倉黒人米兵集団脱走事件は、1950年昭和25年)7月11日連合国軍占領下の日本である福岡県小倉市(現北九州市)で発生したアメリカ陸軍の兵士の大量脱走事件である。基地から多数のアフリカ系アメリカ人黒人)兵が集団で脱走し、周辺地区の住民に略奪暴行強姦を行なった。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による情報規制のためほとんど報道されず、被害者も口を閉ざしたことから、事件の詳細は分かっていない[1][2]

背景

第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)終結後、小倉市にあった歩兵第14連隊(小倉連隊)の跡地には、進駐軍としてアメリカ陸軍第24歩兵師団が駐屯するキャンプ小倉(現・陸上自衛隊小倉駐屯地)が設置された。小倉には米兵を相手に商売をする者が集まり、パンパンの数も増加していった。

1950年6月に入ると、小倉市内のペンキ屋に軍帽ジープの塗り直しが大量発注され、米兵たちにも武器の手入れが命じられるなど、風雲急を告げた[5]。6月25日、北朝鮮朝鮮人民軍十個師団が大韓民国に侵入し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島に最も近い場所にあった第24歩兵師団は、6月30日には第1大隊の通称「スミス支隊」が派遣されるなど、続々と朝鮮半島に派遣されていった。小倉市砂津北九州港の岸壁では、リバティ船LSTが続々と横付けされ、規制線が張られて慌ただしく出港準備が進む中、米兵と馴染みのパンパンが別れを悲しむ光景があった[5]

第24歩兵師団と朝鮮人民軍の戦闘は熾烈を極め、7月17日は師団本部が直接攻撃され壊滅。ウィリアム・ディーン師団長自らゲリラ戦を展開[注 2]するなど激戦が続いた。米軍を指揮する第8軍司令官のウォルトン・ウォーカーは、激闘を繰り広げる米兵への慰問の一環として、12月に帰休(リターン・レスト、Return Rest)の制度を設けた。朝鮮半島で戦闘に従事する米兵を空路で芦屋基地に送還し、キャンプ小倉内に設置したRRセンターで5日から1週間の休養を与えられた。RRセンターで身支度を整えた米兵は小倉の町に繰り出したが、売春などで彼らが小倉で消費した日本円は1ヶ月で4億円にも及んだ[注 3][6]

一方で、明日には激戦地に送られ、帰休しても再び激戦地に戻る米兵の心は荒れ、自暴自棄による犯罪が続発した。7月4日には、小倉市下城野(現・小倉南区下城野)で23歳の米兵が銃剣で一家5人を襲撃し、5歳の娘を除く4人を殺害する事件が起きた。しかし小倉市警察には捜査の権限が無く、憲兵からの「軍法会議で処罰する」という通達と、娘への60万円の保証金だけで事件は解決させられた[7]

脱走

7月9日、壊滅した第24歩兵師団の補充として、黒人を中心に構成された[注 4]第25歩兵師団第24歩兵連隊が、岐阜県から小倉市の城野補給基地(後に陸上自衛隊城野分屯地、現在の城野駅北側住宅地)に送られてきた[1]。7月11日、戦後初めて開催される小倉祇園太鼓の前夜祭の中、17時には2人の黒人兵が近所の酒店を訪れ、見本の一升瓶を持ち去った[2][3]

18時頃、約200人の兵士が基地西側の有刺鉄線を破り集団脱走した[2][3]。脱走兵たちは野戦服のままカービン銃拳銃手榴弾で武装しており[4]、周辺住民には演習と思う者もいた[3]。基地の周囲は水田で、大量の兵士が脱走する様は「黒いサルの集団が走り去るようだった」という[2][3]

脱走兵は基地周辺の足立や足原、三郎丸、熊本町に繰り出し[2][8]、酒店に押し入りを盗み[2][3][注 5]焼酎の小瓶まで盗んで[10]店舗を破壊したり、民家の箪笥をひっくり返す[11]などの狼藉を働いた。

脱走兵は女性をもとめて家の扉をこじ開けようとした[4]が、住民は妻や娘を押入や便所に隠したりして[11]脱走兵が去るのを待った。隣接する福岡県立小倉ろう学校(現・福岡県立小倉聴覚支援学校)の寄宿舎にも白人1人を含む3人の脱走兵が侵入し、舎監に拳銃を突きつけ女を出せと迫った[8]。脱走兵の数が20 – 30人に増えたが[11]、舎監がとっさに町の方を指さしたので脱走兵はその方向にあった旧小倉陸軍造兵廠の宿舎に向かった。脱走兵が学校を立ち去った後、女子生徒を浴室の風呂桶の中に隠して男性教諭が寝ずの番をしたが、宿舎の方から女性の悲鳴がしたという[8]。このほかにも、各地で女性の悲鳴が聞こえたという証言があり[11]、悲鳴が聞こえたところへ行くと髪が乱れ泥だらけの女性がうずくまっていたという例は「いくらもあった」[9]という。しかし、婦女暴行既遂の報告は1件も無かったと結論付けられており[10]、被害者や周囲がひた隠しにして表ざたにならない性暴行事件も多数あったと伝えられる。

事件後、小倉署で米軍立ち合いの元、市民からの被害申し立てが行われた[12]。強盗、窃盗、暴行、傷害、強姦は、警察や憲兵隊に報告されたものだけで70数件にのぼり[2][13]米国立公文書館にも窃盗や強姦未遂42件の記録が残されている[14]。しかしこれらの事件で小倉市警察が検挙したのは殺人の1件のみ[15]で、強姦など申告されていない事件もあり、その真相は不明である[2][1]

鎮圧

この間、脱走兵の事実は隠され、朝日新聞西部本社のニュースカーが「三萩野から南の交通が遮断されるので、芦塚、城野方面の帰宅者は派出所に情報を尋ねること」と呼びかけるだけだった[2][16]

三萩野派出所に市民からの通報があり[4]、小倉警察署(現・小倉北警察署)は初めて事件の発生を知った。小倉玉屋の前にあった米軍の憲兵司令部が鎮圧にあたることになり、米軍による非常線が張られたのは、脱走が発生して2時間ほど経過してからのことだった。三萩野から北方の「電車通り」を中心に自動小銃や機関銃20mm機関砲で武装した憲兵隊のジープが展開した[2]。応援を要請された小倉市警察も、拳銃[注 6]を武器に[2]全署員を非常招集、清水・旦過橋・香春口に非常線を敷いて交通を遮断し、警戒にあたった[16]。憲兵司令部の当直担当だったマグリアノ憲兵曹長[4]は、ともに鎮圧にあたる小倉署の巡査に次のように注意した[2]

やつらが少しでも手を降ろそうとしたら撃ち殺してしまえ。遠慮したらやられるぞ。

マグリアノ曹長は巡査と共に20mm機関砲を装備したジープで走り回りながら、兵士の拳銃の弾倉を抜き取り、ワインの窃盗が判明した兵士は殴るなど、事態の鎮圧に動いた。基地に戻された兵士の中には、白人の中隊長から認識票をむしり取られる処罰を受ける者もいた[16]。小倉市警察は非常線で脱走兵を基地に押し戻そうとし、市民を基地に近づけないようにした[16]。10名の署員が十四年式拳銃と警棒だけで基地の北東側にある黒原営団住宅(現・城野団地)に向かった[16]が、脱走兵の数が多すぎ[11]、ついには30 – 40人の脱走兵に囲まれた[10]。23時半には「警官隊が集中射撃を受け全滅」の報が小倉署に届き、署員が憲兵隊のジープで救出に向かったが、警官隊は脱走兵と白人の憲兵の銃撃戦の中、匍匐で脱出したため無事だった。結局、少人数の憲兵隊と小倉市警察では対応できず、米陸軍二個中隊が鎮圧のために出動した。装甲車に分乗した中隊は脱走兵と市街戦になったほか[16]、基地の西側でも弾道が飛び交う銃撃戦が起きた[8]

夜23時半になって、第24歩兵連隊のスミス代将が脱走兵を説得し回って鎮圧に入ったが、2、3人で徒党を組みカービン銃で武装した脱走兵は朝6時頃まで市中をうろつき、市民は夏なのに雨戸を閉じて一夜を過ごした[10]。翌朝、小倉署管内の派出所には、押収された手榴弾や銃弾、銃剣が山積みされた[9]

最後まで脱走した黒人兵は、12日夕方に首から銃を下げ、右手に靴、左手にウイスキーの空瓶を持ったまま小文字通りで逮捕された[2]。しかし、7月14日に小倉地区憲兵司令官は数名の黒人兵と白人兵が帰隊していないと発表し、見つけた場合は小倉憲兵隊か最寄りの警察署に報告するよう市民に要望した[9]

事件後

米軍のなかで黒人部隊は厳しい人種差別にさらされ、黒人だけの人種隔離された部隊の中で、激戦地に送られる恐怖と自暴自棄が高じ[9][17]、小倉祇園太鼓の祭囃子がきっかけで脱走につながったと言われている[2][9]。第24歩兵連隊は2日後に朝鮮半島へ出発し、朝鮮半島北部で全滅した[2]

強姦の被害に遭った世帯の中には、噂が広まり転居を余儀なくされた世帯や、目の前で妻が強姦された夫が酒浸りになって溺死し生活に困窮する世帯もあった[8]

7月13日、キャンプ小倉司令官のロバート大佐は、「当地の米軍に不吉な事件が発生した」ことに遺憾の意を示し、全ての違反は当局に起訴され処罰されるという談話を発表した[9]。1ヶ月後、黒人兵の感情に応えるため、キャンプ小倉の憲兵副長に初の黒人であるタケット中尉が任命された[2]

当時、小倉に住んでいた松本清張は、『半生の記』(河出書房新社、1992年)で当事件を記録しているほか、この事件を題材にした小説『黒地の絵』を発表している。

脚注

注釈

  1. ^ 福岡県警察は「黒人兵暴動」としている[1]
  2. ^ ディーン師団長は8月25日に捕虜となり、国連軍で捕虜となった最高位の人物となった。
  3. ^ 1951年(昭和26年)6月に小倉市は風紀取締条例を制定したが、これは九州でも佐世保市に続く2番目という早さだった。
  4. ^ 脱走兵の中には、少数だが白人の兵士もいた[8][9]
  5. ^ ただし、金を払ってワインを購入したり、団地の中にあった居酒屋で飲み食いするなど、合法的に飲酒をする兵士もいた[8]
  6. ^ 支給されたばかりのS&W M10[2]や、三萩野派出所に1丁だけある十四年式拳銃[16]が小倉市警察の数少ない銃器だった。

出典

  1. ^ a b c d 福岡県警察史編さん委員会・編『福岡県警察史』昭和前編 福岡県警察本部 1978年 P.848
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 毎日新聞西部本社『激動二十年-福岡県の戦後史』 1965年(後に再版。葦書房、1994年、ISBN 4-7512-0587-0)P.165 – 166
  3. ^ a b c d e f g 『福岡県警察史』昭和前編 P.849
  4. ^ a b c d e 『福岡県警察史』昭和前編 P.851
  5. ^ a b 『激動二十年-福岡県の戦後史』P.158 – 159
  6. ^ 『激動二十年-福岡県の戦後史』P.164 – 165
  7. ^ 『激動二十年-福岡県の戦後史』P.161 – 162
  8. ^ a b c d e f g 『福岡県警察史』昭和前編 P.850
  9. ^ a b c d e f g 『福岡県警察史』昭和前編 P.855
  10. ^ a b c d 『福岡県警察史』昭和前編 P.854
  11. ^ a b c d e 『福岡県警察史』昭和前編 P.853
  12. ^ 『福岡県警察史』昭和前編 P.856
  13. ^ 炎と緑と北九州の歩み. 西日本新聞社開発局出版部. (1973) 
  14. ^ “小倉の米兵集団脱走、浮かぶ被害 70年前、占領下の屈辱 一夜で窃盗・強姦未遂など42件” (jp). Mainichi Daily News. (2020年7月29日). https://mainichi.jp/articles/20200729/ddm/012/040/087000c 2021年2月10日閲覧。 
  15. ^ 『福岡県警察史』昭和前編 P.857
  16. ^ a b c d e f g 『福岡県警察史』昭和前編 P.852
  17. ^ 『論』 朝鮮戦争と「黒地の絵」 1950年が見えてくる”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2021年2月10日閲覧。

参考文献

外部リンク