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「チリ・クーデター」の版間の差分

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[[File:Allende nacionalizacion cobre.JPG|200px|thumb|right|[[サルバドール・アジェンデ]]]]
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[[File:Gabinete allende 2 1024.jpg|200px|thumb|right|アジェンデ内閣]]
[[File:Gabinete allende 2 1024.jpg|200px|thumb|right|アジェンデ内閣]]
アジェンデは、ラテンアメリカで初めて民主的に選出されたマルクス主義者として知られていたが、社会不安、議会との対立、そして[[アメリカ合衆国]]による[[経済戦争]]に直面していた。
東西冷戦も[[米ソデタント|デタント]]の時期に入っていた[[1970年]]、[[サルバドール・アジェンデ]][[博士]]を指導者とする[[社会主義]]政党の統一戦線である[[人民連合 (チリ)|人民連合]]は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは[[大統領]]に就任した。これは自由選挙を通じて[[マルクス主義]]政権<ref name=":0">{{Cite book |title=[http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ananando/chilecoup.html 『アメリカのチリ・クーデター』] |date=2019 |year=2019 |publisher=Amazon Services International}}</ref>が樹立された史上初の事例として、世界中から注目を浴びた。


1973年9月11日、[[アウグスト・ピノチェト]]将軍率いる軍部によるクーデターが勃発し、文民政府の終焉に繋がった。軍事政権は全ての政治活動を停止し、左翼運動を弾圧した。ピノチェトは急速に権力を固め、1974年末には正式にチリ大統領となった。
しかし内実では、大きな社会不安、野党が支配する[[国民議会 (チリ)|チリ国民議会]]との政治的緊張、アメリカ大統領[[リチャード・ニクソン]]による経済戦争に直面していた。米国政府はチリにおいて各種の秘密工作を実施<ref name=":0" />して軍事クーデターの下地を作ってチリ軍部を反アジェンデの方向に向かわせた。一方少数与党の人民連合からは左翼蜂起未遂事件が発覚、1973年9月18日が蜂起の予定日であることを海軍水兵への取り調べからわかった。左翼蜂起未遂事件に関して、海軍は激怒し、その思想的リーダーである、[[カルロス・アルタミラーノ]]上院議員資格停止を最高裁に申し立て、その判決は9月11日であった。1973年9月11日に[[アウグスト・ピノチェト]]陸軍大将兼総司令官らが率いる軍部が軍事クーデターを決行。アジェンデは拳銃自殺を遂げ、軍事独裁体制のもとで新自由主義的な経済政策をチリに押し付ける条件が整った。結果的に、ピノチェトを議長とした軍事政府評議会による軍事[[独裁政治]]が以後16年間にわたって続くこととなる。


クーデター直前、アジェンデは最後の演説を行い、大統領官邸に留まる決意を表明した。彼の死の詳細は今も議論の的となっている。
なお一般に「[[9月11日|9・11]]」というと、[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]を指すことが多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指すことも多い。


チリは南米において民主主義と政治的安定の象徴とされていたが、クーデターにより1932年以来続いた民主政権が途切れることとなった。これによりピノチェト政権による政治的弾圧が開始され、左翼勢力は弱体化した。1989年の国民投票を経て、チリは平和裏に民主主義へと移行した。
== クーデターまでのいきさつ ==

この出来事は、その日付から「もう一つの[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11]]」とも呼ばれている。

== 政治的背景 ==
=== 1970年選挙 ===
=== 1970年選挙 ===
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[[1970年チリ大統領選挙]]<small>([[:en:1970_Chilean_presidential_election|英語版]])</small>において、アジェンデは36.6%の得票率で首位となったが、過半数に達せず。憲法規定により、議会が最終決定を行うこととなった。
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者・マルクス主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領の[[ホルヘ・アレッサンドリ]]、[[キリスト教民主党 (チリ)|キリスト教民主党]]は{{仮リンク|ラドミロ・トミッチ|en|Radomiro Tomic|es|Radomiro Tomic}}をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われた。


当時の憲法下では大統領の連続再選が禁止されていた。CIAは[[ホルヘ・アレッサンドリ|アレッサンドリ]]を当選させ、辞任後の再選挙で[[エドゥアルド・フレイ・モンタルバ|フレイ]]を擁立する計画を立てた。<ref>{{Cite web |title=CIA Activities in Chile — Central Intelligence Agency |url=https://web.archive.org/web/20070612225422/https://www.cia.gov/library/reports/general-reports-1/chile/index.html |website=web.archive.org |date=2007-06-12 |access-date=2024-09-01}}</ref>しかしアジェンデが憲法遵守を誓約したことで、議会により大統領に選出された。
ラテンアメリカにおける脱米国依存のナショナリズムの拡大を懸念した<ref name=":0" />[[ITT (企業)|ITT]]や[[ペプシコ]]その他米国実業界はこの動きに危機感を抱き、アジェンデの大統領就任を阻止するよう国務長官[[ヘンリー・キッシンジャー]]および大統領[[リチャード・ニクソン]]その他の米国政府高官たちに働きかけた<ref name=":0" />。そして決選投票の38日前に当たる9月15日、ニクソン大統領は[[中央情報局]](CIA)に対し、どのような手段を使ってでもアジェンデの就任を阻止するよう命じた<ref name=":0" />。当時のチリ軍部はアジェンデの大統領就任を静かに受け入れていた<ref name=":0" />ので、CIAは、議会での決選投票における票の買収と軍事クーデターという2本柱の作戦を立てた<ref name=":0" />。チリ駐在米国大使はチリの現職大統領に次のように言って脅しをかけた。「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入るのを許さない。あらゆる手段を使ってチリとチリ人を最低の貧困状態に陥れてやる」<ref name=":0" />。


米国は社会主義の成功例となることを恐れ、外交的、経済的、秘密裏に圧力をかけた。<ref>{{Cite web |title=New declassified files shed light on US role in ousting Allende – The Santiago Times |url=https://web.archive.org/web/20161009185456/http://santiagotimes.cl/2014/05/26/new-declassified-files-shed-light-us-role-ousting-allende/ |website=web.archive.org |date=2016-10-09 |access-date=2024-09-01}}</ref>1971年末には[[フィデル・カストロ|カストロ]]がチリを訪問し、米国の警戒心を高めることとなった。<ref>{{Cite web |title=Castro Speech Data Base - LANIC - Browse Speeches from 1971 |url=https://web.archive.org/web/20040530180004/http://lanic.utexas.edu/project/castro/1971/ |website=web.archive.org |date=2004-05-30 |access-date=2024-09-01}}</ref>
CIAはアジェンデを鬼として描くプロパガンダを展開した。記者たちに金銭を渡してCIA製の記事を新聞や雑誌に掲載させた。ラジオ番組では迫真の演技も行われた。番組の途中で銃声に続いて女性の悲鳴、「息子がマルクス主義者にやられた」との叫び、など。


=== アジェンデ政権 ===
CIAのサンティアゴ支局長はチリの狂信的右翼の退役軍人ロベルト・ビオーと接触した。そして彼が決起した場合にどうなるかを予測し、その場合にはチリで「大虐殺が長引いて内戦になるだろう」とCIA本部に伝えていた。この点についてチリ国家警察隊の高官から問われた彼は、「米国政府は気にしない。結果としての混沌がアジェンデ大統領を阻むのなら」と告げた<ref name=":0" />。
1972年、経済相ヴスコヴィッチの金融政策により、[[インフレーション|インフレ]]率は140%に達し、[[闇市|闇市場]]が蔓延した。同年10月、小規模事業主や労働組合、学生グループによる大規模ストライキが発生。24日間のストライキは国家経済に打撃を与え、軍部のプラッツ将軍が内相に就任する結果となった。


1973年3月の議会選挙では、アジェンデの人民連合が得票率を43.2%に伸ばしたが、キリスト教民主党との非公式な同盟は終焉を迎えた。キリスト教民主党は国民党と連携し、民主連合を形成。立法府と行政府の対立により政府機能は麻痺状態に陥った。
しかし、陸軍総司令官の{{仮リンク|レネ・シュナイダー|es|René Schneider|en|René Schneider}}将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、米国の陰謀にとって邪魔者となり得る人物であった。そんなシュナイダーは、決選投票直前の10月22日に陸軍司令部へ登庁の際、何者かによって襲撃されて重傷を負い、25日に死亡した<ref name=":0" />。すでに陸軍を退役させられていた{{仮リンク|ロベルト・ビオー|es|Roberto Viaux|en|Roberto Viaux}}将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの[[民主主義]]を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票で当時は中道左派政党であったキリスト教民主党も議会制度、裁判所制度を継続させる条件をつけ人民連合を支持(同党の議員74名全員がアジェンデに投票した<ref name=":0" />)、アジェンデ大統領が誕生した。


アジェンデは暗殺を恐れ、カストロに助言を求めた。カストロは技術者の引き留め、ドル建て銅取引、過激な革命行為の回避、軍との関係維持を進言したが、後者2点の実行は困難を極めた。
=== アジェンデ大統領の任期中 ===
[[File:RichardNixon.jpg|thumb|200px|right|[[リチャード・ニクソン]]]]
[[ファイル:Henry_Kissinger.png|thumb|200px|right|[[ヘンリー・キッシンジャー]]]]
米国政府はさっそくアジェンデ打倒の作戦に着手した。手始めに行ったのが対チリ[[金融封鎖]]であり、チリの経済を混乱させて社会不安を煽ることで、チリ軍部が反政府で蜂起する口実を作るのが目的だった。米国政府の直接の支配下にある[[合衆国輸出入銀行|米国輸出入銀行]]と[[アメリカ合衆国国際開発庁|米国国際開発庁]]は即座に対チリ融資を停止した。米国が牛耳る国際[[金融機関]]である[[世界銀行]]と[[米州開発銀行]]に対しても、対チリ融資を停止させた<ref name=":0" />。またニクソン大統領は[[ヨーロッパ]]諸国に対しても、対チリ融資を控えるよう圧力をかけた<ref name=":0" />。当時のチリは、前政権から引き継いだ債務が10億ドルにのぼり<ref name=":0" />、国内産業も伝統的に米国からの融資に依存していたため、この金融封鎖がチリ経済に与えた打撃は大きかった<ref name=":0" />。ヨーロッパや日本などとの貿易は問題なく行われたが、ヨーロッパ企業の国有化が続き、各国政府の大使から抗議を受けることになる。


=== 危機 ===
金融封鎖と並行して、米国政府はチリ軍部に対しては法外な支援を提供した。資金面での支援だけでなく、技術面での支援も惜しみなく提供し、軍事顧問団も派遣した<ref name=":0" />。1971年の段階では、チリ軍部内の反アジェンデ派はごく少数だった<ref name=":0" />。
1973年6月29日、ロベルト・スーペル大佐がラ・モネダ大統領官邸を戦車部隊で包囲したが、アジェンデ政権の打倒には失敗した。この未遂クーデター(タンケタソ)は、国粋主義的な準軍事組織「祖国と自由」が組織したものだった。<ref>{{Cite web |title=Second coup attempt: El Tanquetazo |url=https://web.archive.org/web/20041013002715/http://literature.rebelyouth.ca/educhile_1970s/tanquetazo.html |website=web.archive.org |date=2004-10-13 |access-date=2024-09-01}}</ref>


8月には憲法危機が発生。最高裁は政府の法執行能力の欠如を公然と非難した。22日、キリスト教民主党は国民党と共に下院で政府の違憲行為を告発し、軍に憲法秩序の執行を求めた。<ref>{{Cite web |title=Declaration of the Breakdown of Chile’s Democracy - Wikisource, the free online library |url=https://en.wikisource.org/wiki/Declaration_of_the_Breakdown_of_Chile%E2%80%99s_Democracy |website=en.wikisource.org |access-date=2024-09-01 |language=en}}</ref>
こうした外国からの妨害がありながらも、[[政権交代]]後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に(14.2%増<ref name=":0" />)支持を伸ばした。しかし議席数ではキリスト教民主党、国民党の右翼連合に勝てず、アジェンデが提出した議案はことごとく国会で否決、それに対してアジェンデは拒否権の乱発と、チリの政治は混迷していった。アジェンデ政権の成立当初は、中道左派のキリスト教民主党と右派の国民党は対立していたが、1971年のバルパライソ補欠選挙の時から両党は共同歩調を取ることになる。しかし、キリスト教民主党の中には、右翼の国民党と連立を組むことを嫌い、人民連合側に鞍替えする者も現れた。結果として、キリスト教民主党と国民党の結束は強まり、その後の補欠選挙では接戦になった。この時も人民連合は上院下院ともに過半数を得ることができず、政治混乱が継続した。さらにはCIAが[[右翼]]勢力に対する公然非公然の支援を強めるようになるなど、政情の不安定化はより深刻なものとなった。


政府は国家警察カラビネロスの忠誠を疑い、その起用を躊躇していた。8月9日、アジェンデはカルロス・プラッツを国防相に任命したが、プラッツは24日に国防相と陸軍総司令官の両職を辞任。同日、[[アウグスト・ピノチェト]]が陸軍総司令官に就任した。
とりわけ効力を発揮したのが、CIAの資金援助もあったデモ(物資不足、行列を作らないとスーパーで買物もできない。ガソリンも1回20リットルまでの厳しい配給制、牛肉の販売を金曜土曜のみとする制限強化による、婦人を中心とした「鍋たたき運動」)(1971年12月「からなべデモ」)と、CIAがトラック所有者組合に[[報酬]](支援が行われたのは公然の秘密だが、報酬の支払いに関しては議論が分かれている)を支払って敢行させた長期ストライキ(1972年10月と1973年7月)だった。前者は、物不足を不満とする中間層の婦人連が自発的に行った、チリのすべての婦人がアジェンデに反対しているような印象を与えることを狙ったものだった。チリの運輸当局がトラック事業を国有化することに対して、全国約4万の零細トラック事業者が生活圏侵害としてストライキを決行し、チリ経済に大きな打撃を与えた<ref name=":0" />。


8月下旬、10万人のチリ女性が食料と燃料の高騰と不足に抗議するデモを行ったが、催涙ガスで解散させられた。<ref>{{Cite web |url=http://jfk.hood.edu/Collection/Weisberg%20Subject%20Index%20Files/C%20Disk/CIA%20Chile/Item%20030.pdf |title=The Bloody End of Marxist Dream |access-date=2024.9.1}}</ref>
それに先立つ1971年7月、チリ国会は銅山国有化の憲法修正案を全会一致で採択した。この憲法修正は「公正なる補償」を原則としており、接収対象の銅会社(当時チリの銅山を支配していた米国のケネコット社およびアナコンダ社)に対する補償額(資産価値)から過去の超過利潤額を差し引くことを可能としていた。そのため、結果的に補償額よりも控除額の方が大きくなり、ケネコット社およびアナコンダ社に対する補償額は0ではなく、7億5,000万ドルの請求を行った、無償接収どころか、さらに7億5千万ドルの請求を行い、アメリカの態度を硬化させた。チリの会計検査院もこの措置を支持し、補償は不要との決定を下した<ref name=":0" />。


8月23日、下院は81対47で決議を可決。この決議は、アジェンデ政権が「絶対権力の獲得を目指し、全市民を国家の厳格な政治的・経済的管理下に置こうとしている」と非難し、「憲法違反を恒常的な行動様式としている」と主張した。さらに、「政府が保護する武装集団の創設と発展」を非難し、アジェンデによる軍と警察の再編努力を「党派的目的のための軍と警察の利用」と批判した。<ref>{{Cite web |title=La Cámara de Diputados de Chile lee la resolución de 1973 que acusó de inconstitucional al Gobierno de Allende |url=https://elpais.com/chile/2023-08-23/la-camara-de-diputados-de-chile-lee-la-resolucion-de-1973-que-acuso-de-inconstitucional-al-gobierno-de-allende.html |website=El País Chile |date=2023-08-23 |access-date=2024-09-01 |language=es-CL |first=María Victoria |last=Agouborde}}</ref>
しかし、米国のニクソン大統領はチリにおける接収の前例がラテンアメリカの他の国々に波及することを恐れ<ref name=":0" />、以前にも増して対チリ金融封鎖を強化した。一方でニクソン政権による対チリ金融封鎖政策は米国内でも議論の的となり、とりわけ金融封鎖に批判的だったエドワード・ケネディ上院議員は「[[社会正義]]と政治的自由を積極的に追求している国には、我が国からどんどん二国間援助を提供すべきです」と主張した<ref name=":0" />。


この決議は事実上、政府が従わない場合は軍に政権打倒を促すものだった。ピノチェトは後にこの決議をクーデター正当化の根拠として利用した。<ref>{{Cite journal|last=Goldberg|first=Peter A.|date=1975|title=The Politics of the Allende Overthrow in Chile|url=https://www.jstor.org/stable/2148700|journal=Political Science Quarterly|volume=90|issue=1|pages=93–116|doi=10.2307/2148700|issn=0032-3195}}</ref>
ニクソン政権による対チリ報復措置は金融封鎖だけにとどまらず、国営化されたチリの銅産業を妨害するまでになった。まずは米国内のチリ政府の口座を凍結させた<ref name=":0" />。これによりチリは米国に銅を販売することができなくなった。さらに米国政府はケネコット社と共謀し、ヨーロッパに輸出されるはずのチリの銅を差し押さえるようヨーロッパ諸国の司法当局に要請した<ref name=":0" />。それだけでなく米国政府は、銅の生産に用いられる機械類の部品をチリに供給しないよう圧力をかけることによって銅の生産そのものを妨害する作戦に出た<ref name=":0" />。さらには米国内に保有していた銅備蓄を放出することによって、銅の国際価値を低下させるという工作も行った。こうして、輸出収入の80%を銅に依存していたチリは大きな打撃を被ったが、日本やヨーロッパとの貿易は依然として問題なく行われていた。


アジェンデは8月24日に反論。野党が軍に民間権力への不服従を促してクーデターを扇動していると非難し、議会の宣言は「国の威信を損ない、国内に混乱を生み出すためのもの」だと批判した。<ref>{{Cite book |title=United States and Chile During the Allende Years, 1970-1973: Hearings Before the Subcommittee on Inter-American Affairs of the Committee on Foreign Affairs, House of Representatives .... |url=https://books.google.co.jp/books?id=-20JAAAAIAAJ&pg=PA393&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |publisher=U.S. Government Printing Office |date=1975 |language=en |first=United States Congress House Committee on Foreign Affairs Subcommittee on Inter-American |last=Affairs}}</ref>
こうした事態に直面したアジェンデは、銅の接収の問題を国際仲裁によって解決することを提案したが、ニクソン政権は1914年の二国間条約を持ち出すことによってアジェンデの提案を拒否した。その条約には「一方もしくは両方の国の自主、名誉あるいは重要な利益を害するおそれのある問題(中略)は、どのような仲裁も受けない」と記されているから、というのがその理由だった<ref name=":0" />。


アジェンデは、自身が憲法に則って軍人を入閣させ、共和制の制度を反乱やテロから守ろうとしたと主張。一方で、議会の行動は憲法違反であり、行政権を簒奪しようとしているとした。<ref>{{Cite web |title=Manifiesto al país de Salvador Allende, respondiendo al acuerdo de la camara de diputados - Wikisource |url=https://es.wikisource.org/wiki/Manifiesto_al_pa%C3%ADs_de_Salvador_Allende,_respondiendo_al_acuerdo_de_la_camara_de_diputados |website=es.wikisource.org |access-date=2024-09-01 |language=es}}</ref>
政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にはそぐわないものであり、それが結果的に[[インフレーション|インフレ]]と物不足を引き起こした、とする説も過去には聞かれた。とはいえ、アジェンデ政権が成立した当時のチリでは人口の30%が栄養失調にさらされ、医療も十分ではなかった。また、銅山の国有化はチリ国会では否決された。しかし政権側、アジェンデはとりわけ急進左派連合の調整に手間取り、無償接収の上に7億5,000万ドルの要求も行った。アジェンデ与党が穏健な共産党、急進な社会党、急進な人民統一行動党と複雑であったこと。また、これらの政党が上院下院とも少数与党であった。一方、野党のキリスト教民主党と国民党は、過半数を占めていたものの3分の2の議席をもっておらず、大統領の弾劾決議はできなかった。アジェンデは自らの与党の調整に手間取り、本人が大統領の政治基盤を高めるための国民投票を行うことを与党内で提案したが、急進左派である人民統一行動党の反対によって行うことができず、アジェンデの政権運営はいっそう不安定なものとなった。さらに、国営化の範囲も[[社会保障]]の内容も1970年選挙の人民連合の綱領に明確に謳われており、チリ国民の信を得ていた。アジェンデ政権時代、政権与党は上下両院とも過半数は得ることは全くなかった。常に少数与党で政権運営が不安定であった。フレイ政権時代、急進的すぎるとして罷免されたチョンチョルを農林大臣に復帰させ、極端な国営農場化を行い、小麦生産を3分の1まで減らした。またトラック所有者組合は、自主的な運営である4万を超える零細業者の集合体であったが、それを画一的な輸送公団にしようとして、トラック所有者組合の猛烈な反発を受けた。米国による金融封鎖および銅産業に対する妨害に起因する外貨不足にあったとする説が現在では圧倒的に優勢である。この時、アジェンデは金融封鎖に対抗し、西ヨーロッパ諸国や日本などへ自動車組み立て工場の誘致などを行っている。さらにソ連を訪問し資金援助を乞うたが、ソ連の資金援助は微々たるものであった。からなべデモやトラック所有者ストも含め、米国の[[リチャード・ニクソン]]政権が資金供給は行ったが、中間層の反発が主たる原因である。このように与党内調整に手間取った結果、アジェンデ政権末期には600%というチリ歴史上最大のインフレを経験することになった。


7月中旬、下院決議の約1ヶ月前、陸軍上層部では人民連合「実験」の終結が望ましいという一般的合意があった。プラッツ陸軍総司令官を中心とする憲法派将軍たちは、アジェンデと軍部による共同政権を提案。一方、強硬派将軍たちは、共同政権は不要としていた。ピノチェトもこの強硬派に加わっていた。<ref>{{Cite web |title=The R�binson Rojas Archive: The murder of Allende and the end of the Chilean way to socialism.- The R�binson Rojas Archive.- RRojas Databank.- Puro Chile. The memory of the people. |url=https://www.rrojasdatabank.info/murder50.htm |website=www.rrojasdatabank.info |access-date=2024-09-01}}</ref>
しかしそれにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持は過半数は得られないものの低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票(7%増)で議席を増加させた(10議席増)。政権の座について2年以上を経過してから現職勢力が獲得した票の伸び率としては「前代未聞」(ただし、当選時の支持率はあくまで36%と歴史的に見て低い数字である)といわれた<ref name=":0" />。ただし、あくまで上下両院では、与党連合は過半数を得ておらず、少数与党のままであった。少数与党、特に社会党、人民統一行動党はプロレタリアート独裁を目指し、東欧から多くの武器を調達し、政権末期には、カラビネーロ(国家警察)が武器摘発に躍起になっていた。この選挙をきっかけに、CIA職員は1973年4月、次のように論じた。「我々の理解しているところでは、今後6か月から1年の間に軍事クーデターを引き起こすことを狙った政策では、政治的緊張を高めることと、経済的な苦難をより深刻なものにすることに努めるべきです。特に、国民の絶望という感覚が軍を動かすためにも、下層階級の間での経済的苦難が必要です。政治的野党、特にキリスト教民主党が計画している大衆運動に対する資金援助は、この絶望という感覚を打ち消してしまい、経済を救う結果につながる可能性があります」<ref name=":0" />。


== クーデター ==
とはいえ、対チリ秘密工作を統括していた国家安全保障問題担当大統領補佐官[[ヘンリー・キッシンジャー]]は[[野党]]に対する資金援助も続けた。とりわけ、チリの最大野党であったキリスト教民主党の右派(フレイ派)には莫大な資金を投入していた(党の指導部に資金を渡したのではなく、右派の個々のメンバーに直接渡した<ref name=":0" />)。その結果、1970年の大統領選挙当時は左派が支配権を掌握していた同党は右派が支配するようになり(数の上では左派の方が多数派だった<ref name=":0" />)、アジェンデとの協力を拒否して軍事クーデターを支持するようになった。同党右派は、クーデター後に軍は自分たちに権力を譲るものと信じていたからだ<ref name=":0" />。そしてキリスト教民主党は1973年8月22日、アジェンデ政権を違憲とする決議案を下院で可決させた。これによりチリ軍部はクーデターの正当性を得ることになった。

[[1973年]][[6月29日]]には軍の一部が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した({{仮リンク|タンキタソ|es|Tanquetazo|en|Tanquetazo|label=戦車クーデター}})。これは、軍人の釈放問題であり、直接の軍事クーデターではない。1973年8月8日、海軍内で水兵階層に浸透した左派過激派による武装蜂起未遂事件が発生、100人以上の逮捕者が出た。海軍は社会党書記長アルタミラーノの議員資格停止要求をし、最高裁判所に申し立て、その判決は9月11日に出されることになった。この海軍内の左派武装蜂起に関連して、同日、バルパライソで左派武装派と海軍が衝突をする。社会党所属であるアジェンデに対して、彼が既に党内調整力すら失ったことから、海軍と、アジェンデ政権の対立が深刻化した。2度めのトラック所有者スト解決のため、アジェンデは8月9日に内閣改造を行い、空軍司令官セザール・ルイスを運輸大臣に任命した。空軍司令官兼運輸大臣となったセザールルイスはスト調停を図ったが、トラック所有者組合と国(少数与党人民連合との主張)の双方の隔たりが大きすぎると運輸大臣の職責のみを辞任した。その辞任に対して、アジェンデは辞任の意思もないセザール・ルイスの空軍司令官としての地位も解任した。これによって、空軍と政権の間には決定的な亀裂が発生した。アジェンデは、「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったが、トラック所有者組合ストを人民連合側有利に調停した{{仮リンク|カルロス・プラッツ|en|Carlos Prats|es|Carlos Prats}}陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれた。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった(8月24日就任)。ピノチェトはプラッツの推薦により陸軍総司令官に選任された。この段階では、アジェンデもプラッツもピノチェトを信頼していた<ref name=":0" />。

この時期にいたっても、チリ国民の間におけるアジェンデ人気は半数以下ではあるが衰えていなかった。9月4日の人民連合3周年記念集会には約100万人のチリ労働者階級(労働者向け物資配給価格調整委員会JAP、から配給が受けられる階層が中心だったといわれている)国民が集結し、アジェンデ支持のデモ行進を行った。それは、チリ史上最多の参加者を集めたデモだった<ref name=":0" />。翌9月5日には、アジェンデ辞任要求デモに約15万人参加した(JAPの配給を受けられなかった人たちが中心であったといわれている)。クーデターを起こせば抵抗活動が起きると考え、徹底した弾圧が必要との認識を再確認した。

クーデターの足音が迫る中、アジェンデは最後の手段に訴えようとした。国民投票を実施して自身の政権の信任を問うことを考えた(といわれているが、後述の様に結果として拒否している)。

9月7日国民投票による事態打開を求める海軍第一管区司令長官ホセ・トリビオ・メリノ大将によるアジェンデに対する6時間の説得にもかかわらず、社会党強硬派の反対もあり、国民投票の申し入れは物別れに終わった。少なくとも9月7日の時点での、6時間にわたる国民投票の申し出をアジェンデは拒否している。

彼は9月9日の昼、「近く国民投票の実施を発表する」とピノチェトに告げた(この時点でもアジェンデはピノチェトを信頼していた)。それを聞いたピノチェトは同日中に他のクーデター首謀者らと会談し、クーデター決行の予定日を当初の14日から11日に早めた。

そして10日、アジェンデは共産党との間で国民投票合意を取り付け、キリスト教民主党とも国民投票の話し合いのテーブルに付くことに合意した。ただし、社会党とは、国民投票に関して何もできなかった。出身与党の社会党の合意がない空手形であるが11日に国民投票実施を発表すると決定した<ref name=":0" />。

=== クーデター ===
[[File:Augusto Pinochet 1986.jpg|thumb|200px|right|[[アウグスト・ピノチェト]]]]
[[File:Augusto Pinochet 1986.jpg|thumb|200px|right|[[アウグスト・ピノチェト]]]]
1973年9月11日午前6時、1924年のクーデターと同じこの日に、海軍が[[バルパライソ]]を制圧し、中央海岸に艦船と海兵隊を配置、ラジオとテレビ局を閉鎖した。アジェンデ大統領は海軍の行動を知らされ、[[個人的友人グループ]](GAP)と共に大統領官邸に向かった。
1973年9月11日早朝、陸海空三軍のトップと当時[[カラビネーロス・デ・チレ|カラビネーロス(国家憲兵)]]のナンバー2であった[[:en:César_Mendoza|セサル・メンドーサ=ドゥラン]]将軍がクーデターを起こした。当時の軍部はチリ社会の階層を反映しており、下層は親アジェンデだったが上層部は反アジェンデであり、下層の者は家族の生活のためにも上層部に抵抗できなかった<ref name=":0" />。また、チリ軍部はケネディ政権の時代から米国政府から支援を受けていたため、アジェンデとしても武力で抗うことは最初から選択肢になかった<ref name=":0" />。実際、彼はクーデターの最中に6度も国民に向けてラジオ演説を行ったが、その中で「武器をとれ」とは呼びかけず、「労働者の諸君にモネダ宮殿に集まれ」と呼びかけた。クーデターが近づく中、カストロはアジェンデに対して兵器の提供を提案したが、その兵器の内、モネダ宮殿に貯蔵されていたものは利用されなかった。しかし、市中には急進的な社会党、人民統一行動党の拠点に東欧製(一部はベルギー、アルゼンチン製)武器が出回り、カラビネーロは摘発に大わらわであった。アジェンデは、労働者を人間の盾にする、もしくは武装蜂起を示唆した発言も行っている。結局、アジェンデ本人と大統領護衛団および国家警察隊の忠誠派だけが大統領官邸を守ることになった。国家警察隊のトップはアジェンデの側についていたが、クーデターの直前に組織内クーデターにより、序列6以下の者がカラビネーロの指揮を取ることになった。これは、容易にクーデターに参加した、空軍海軍と異なり、カラビネーロの革命参加に手間取っていることを示すものであった。クーデターはバルパライソで午前4時、他の地域で午前6時に決起された。バルパライソ決起を知ったアジェンデはトマスモロの私邸を出てモネダ宮殿に向かった。この時点では、空軍と海軍の反乱の情報以外、正確な情報はなかった。アジェンデに伝わった第一報は、海軍による反乱にて、バルパライソが占領されたことであった。


午前8時までに、陸軍はサンティアゴ市内のほとんどのラジオとテレビ局を閉鎖。空軍は残りの局を爆撃した。アジェンデは不完全な情報しか得られず、海軍の一部だけが反乱を起こしていると確信していた。<ref>{{Cite web |title=Minuto a minuto: así fue el golpe militar del 11 de septiembre de 1973 en Chile |url=https://elpais.com/chile/2023-09-11/minuto-a-minuto-asi-fue-el-golpe-militar-del-11-de-septiembre-de-1973-en-chile.html |website=El País Chile |date=2023-09-11 |access-date=2024-09-01 |language=es-CL |first=Antonia |last=Laborde}}</ref>
アジェンデはトマスモロの私邸から、警護部隊、武装した兵を載せたトラック2台、その他装甲車2台でモネダ宮殿に向かった。陸海空軍および国家警察は、アジェンデに対してラジオと拡声器で投降を呼びかけ、脱出用の飛行機を用意すると複数回にわたって告げた。8時30分頃、陸海空軍および国家警察は、ラジオと拡声器で直接モネダ宮殿に対し、アジェンデに降伏勧告を行うとともに新政権誕生の旨の放送も行った。しかし、アジェンデは辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否した。11時頃、陸海空軍および国家警察は、婦女子ならびに投降の意思がある者はモネダ宮殿から脱出するように命じ、十数名が陸軍および国家警察に投降した。その後、正午頃にモネダ宮殿に対して4機の[[ホーカー ハンター]]戦闘機によるロケット攻撃が行われ、その後陸軍が突入し、およそ2時間の白兵戦の後、アジェンデは炎上する[[モネダ宮殿]]内で、自ら自動小銃(カストロから贈られたAK-47改造型<ref name=":0" />)を握って自殺した。アジェンデが正確に自殺したことを特定したのは2011年であった。その死因は概ね顎から頭に向けて銃弾が2発発射されたものであった(自動小銃を膝に抱えて銃弾2発を発射した<ref name=":0" />)。


アジェンデとアジェンデ支持者である国防相レテリエは軍指導部と連絡が取れなかった。海軍司令官モンテロ提督は通信を遮断され、クーデターを阻止できないよう妨害された。海軍の指揮権はクーデター計画者の[[メリーノ]]<small>([[:en:José_Toribio_Merino|英語版]])</small>に移った。陸軍のピノチェト将軍と空軍のリー将軍はアジェンデの電話に応答しなかった。
なお、ホーカー ハンターから発射されたロケット弾は概ね大統領官邸モネダ宮の居室に命中しているが、居室以外に着弾したものも見られた。この時、別の2機のホーカーハンター機がトマス・モロのアジェンデの私邸を攻撃しているが、うち1発が空軍病院を誤爆するというアクシデントもあった。
[[ファイル:Chile quema libros 1973.JPG|thumb|200px|right|クーデター後の[[焚書]]]]


国防相レテリエは国防省に到着後、クーデターの最初の捕虜として逮捕された。


全軍がクーデターに関与していた証拠があったにもかかわらず、アジェンデは一部の部隊が政府に忠実であることを期待していた。午前8時30分、軍がチリの支配権を宣言し、アジェンデの解任を発表するまで、大統領はクーデターの規模を把握していなかった。
15時30分頃、ラジオ放送で、アジェンデ政権の無条件降伏およびアジェンデの死亡が伝えられた。その時軍部はクーデターの証として、チリ国旗掲揚の要請を行った。多くの中産階級、上流階級の建物から、チリ国旗が掲揚された。その後22時に、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・レイ(Gustavo Leigh)、[[カラビネーロス・デ・チレ|国家警察隊]]のセサル・メンドーサ・ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会の発足、ならびに政治不介入の原則に反した行動の根拠をチリ国民対し、テレビ・ラジオで説明が行われた。当初、この4名は同等の立場に立つメンバーで、評議会の委員長は持ち回りとされていた。が、最年長ということで初代の委員長にはピノチェトが就任した<ref name=":0" />。そのピノチェトは、陸軍のトップかつ軍事評議会の委員長という二重の役割を利用することで次第に権力を自分に集中していった。同時に、クーデター直後からチリ全土を恐怖に陥れた[[秘密警察]]DINA(チリ国家情報局)を自らの直属の組織として創設することで、自分に敵対する者たちを脅すことができた<ref name=":0" />。こうして徐々に独裁体制を固めていくピノチェトを見た空軍のレイ将軍は「海軍の反乱、その後の空軍の反乱、そして陸軍の反乱と、クーデターに加わるのが遅かったにもかかわらず全権を掌握しているかのように振る舞っている」としてピノチェトを批判したが、クーデター発生から5年後の1978年に軍事評議会から追放された<ref name=":0" />。


午前9時までに、首都サンティアゴの中心部を除いてチリ全土が軍の支配下に入った。アジェンデは降伏を拒否し、社会党とキューバの顧問団が[[カウンタークーデター]]を提案したが、大統領はこれを拒否した。
=== 左翼狩り ===
9月11日午前6時、チリ陸海空軍および国家警察は、チリ国内の左翼活動拠点を一斉摘発した。工科大学に左翼集団が有り、チリ軍は武器の放棄と抵抗の停止を求めたが、工科大学側から発砲、銃撃戦となり、チリ軍、左翼集団双方に死傷者が出た。このような戦闘行為はサンチャゴにおいては概ね9月13日には鎮圧されたが、地方部では戦闘が数ヶ月におよぶところもあった。サンチャゴ市内をはじめ、チリ全土に非常線が張られ、チリ軍が張った非常線では武装した人民連合の摘発、人民連合が張った非常線では、右翼の射殺などが行われた。サンチャゴ市内の戦闘と伴にチリ軍部は「左翼狩り」を行い、武器を持った人民連合の関係者や労働組合員、市民や活動家が逮捕・拘束・殺害され、その中には人気のあった[[フォルクローレ]]歌手[[ビクトル・ハラ]]もいた。彼が殺されたサンティアゴの室内競技場{{仮リンク|エスタディオ・ビクトル・ハラ|en|Víctor Jara Stadium|label=エスタディオ・チレ}}には、他にも多くの左派市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。また、左翼系の書籍や雑誌はことごとく没収され、公衆の面前で焚書された。ビクトル・ハラの音楽のマスターテープも破棄された。穏健派であった共産党員の殺害も見られた、一方、急進左派の社会党員は、アルゼンチン経由、もしくはメキシコ経由で亡命し、政治活動を継続したものも大勢いる。


軍は交渉を試みたが、アジェンデは憲法上の義務を理由に辞任を拒否した。午前10時30分、アジェンデは告別演説を行い、クーデターの発生と脅迫下での辞任拒否を国民に伝えた。
前年にノーベル文学賞を受賞した詩人[[パブロ・ネルーダ]]([[チリ共産党]]員であった)はガンで病床にあったが、クーデターの直後に兵士が自宅に押し入り、家を荒らされた上に蔵書も破棄される狼藉に遭った。9月24日に危篤状態となって病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて無理やり取り調べを受け、そのまま病院到着直後に亡くなった。


[[リー]]将軍<small>([[:en:Gustavo_Leigh|英語版]])</small>は大統領官邸の爆撃を命じたが、戦闘機の到着に時間がかかるため、ピノチェトは装甲部隊と歩兵部隊の前進を命じた。しかし、GAPの狙撃手の攻撃を受けて撤退を余儀なくされた。ヘリコプターの支援を得て再び前進し、空軍機も到着して近接航空支援を行った。午後2時30分近くまで守備隊は抵抗を続けたが、最終的に降伏した。当初、大統領は戦闘中に死亡したと報じられたが、後に警察筋は自殺したと報告した。<ref>{{Cite web |title=Rome News-Tribune - Google ニュース アーカイブ検索 |url=https://news.google.com/newspapers?id=FewtAAAAIBAJ&pg=7165,1410181&dq |website=news.google.com |access-date=2024-09-01}}</ref>
またクーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官[[カルロス・プラッツ]]は[[アルゼンチン]]に亡命していたが、翌年1974年9月にピノチェトの創設した秘密警察「{{仮リンク|国家情報局 (チリ)|label=DINA|en|Dirección de Inteligencia Nacional}}」の仕掛けたとされる[[車爆弾]]によって妻とともに[[暗殺]]された。ただし、この当時のアルゼンチンは汚い戦争の最中であり、多くの左派系人物が暗殺、行方不明となっている。プラッツは人民連合よりのスト調停を行い、右派からは反発を受けていた。またアジェンデ政権末期には軍部と連携して打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後に非合法化され、1975年10月には、党の前大統領[[エドゥアルド・フレイ・モンタルバ]]の下で副大統領を務めていた{{仮リンク|ベルナルド・レイトン|en|Bernardo Leighton|es|Bernardo Leighton}}が、亡命先の[[イタリア]]で妻と共に襲撃され重傷を負った。


自殺前、アジェンデは最後の演説で、チリの未来への希望と、国民が意志を強く持ち、暗黒の時代を乗り越えることを願った。彼は「私の祖国の労働者たちよ、私はチリとその運命を信じている。他の人々がこの暗く苦い瞬間を乗り越えるだろう。裏切りが勝利しようとしているこの瞬間を。覚えておいてほしい。近いうちに、自由な人々がより良い社会を築くために通る大通りが再び開かれるだろう。チリ万歳!国民万歳!労働者万歳!」と述べた。<ref>{{Cite web |title=Document #28: “Final Speech,” Salvador Allende (1973) {{!}} Modern Latin America |url=https://library.brown.edu/create/modernlatinamerica/chapters/chapter-10-chile/primary-documents-w-accompanying-discussion-questions/document-25-final-speech-by-salvador-allende-1973/ |website=library.brown.edu |access-date=2024-09-01}}</ref>
これら一連の非公然のテロ活動は、DINA単独によるものではなく、[[ブラジル]]やアルゼンチン、[[ボリビア]]、[[パラグアイ]]その他ラテンアメリカ各国の軍事政権と秘密裏に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していった、所謂[[コンドル作戦]]の一環だったことが今日では知られている。


=== 海外の反応 ===
=== CIAによる干渉 ===
1973年のチリのクーデターにおける米国の関与は、長年にわたり議論の的となってきた。当初米国は関与を否定したが、後の調査や機密解除文書により、米国の介入の程度が明らかになった。
クーデターを主導したニクソン政権は、クーデターが成功すると、自分たちの役割を小さく見せることを目論んだ。9月16日、ニクソンとキッシンジャーは電話で次のような会話を交わした。キッシンジャーが「祝杯でもあげてもらいたいところですが。アイゼンハワーの時代なら我々はヒーローですよ」と不平をもらすと、ニクソンは録音されていることを意識して「だがな、俺たちがやったんじゃないぜ。君も知ってのとおりだ。今回の件では、俺たちは日陰者だ」と返した<ref name=":0" />。結局米国政府は、ピノチェトのチリを即座に承認することは避け、9月24日に静かに承認した。世界で11番目だった。ちなみに、この承認を遅らせるという作戦を提案したのはピノチェトの側である<ref name=":0" />。自分の政権が米国にとって厄介な問題になるとピノチェトが認識していた証拠との説が有力である。


2000年の米国情報機関の報告書によれば、CIAはクーデターを直接扇動はしなかったものの、軍部のクーデター計画を認識し、一部の謀議者との情報収集関係を維持していた。<ref>{{Cite web |title=Home {{!}} National Security Archive |url=https://nsarchive.gwu.edu/ |website=nsarchive.gwu.edu |access-date=2024-09-01}}</ref>また、1970年のクーデター扇動の試みや、クーデターを思い止まらせなかったことから、暗黙の承認を与えたと見られる。
それよりも早く、クーデターの翌々日(13日)に、米国はピノチェト政権を歓迎する旨の公電が[[ホワイトハウス]]からサンティアゴへ打たれた<ref name=":0" />。その公電では「軍事政権を支援したい、協力したい」としている<ref name=":0" />。


歴史家[[ピーター・ウィン]]<small>([[:en:Peter_Winn|英語版]])</small>は、米国のクーデターへの幅広い関与の証拠を見出し、CIAがチリを不安定化させ、クーデターの条件を作り出したと主張している。<ref>{{Cite book |title=A Century of Revolution: Insurgent and Counterinsurgent Violence during Latin America’s Long Cold War |url=https://books.google.co.jp/books?id=YJ7ZBGy0wsIC&pg=PA270-271&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false |publisher=Duke University Press |date=2010-10-21 |isbn=978-0-8223-9285-9 |language=en |first=Gilbert M. |last=Joseph |first2=Greg |last2=Grandin}}</ref>[[ビル・クリントン|クリントン]]政権下で機密解除された文書は、1970年のアジェンデ政権選出に対する米国の敵対的姿勢を裏付けている。<ref>{{Cite web |url=https://nsarchive2.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB8/ch20-01.htm |website=nsarchive2.gwu.edu |access-date=2024-09-01}}</ref>
米国政府は経済面でもピノチェト軍事政権を支援した。米国農務省は10月と11月にそれぞれ2400万ドルを供与した。米国国際開発庁は3年間で1億3200万ドルを提供した。米国が牛耳る国際金融機関も対チリ信用供与を再開した<ref name=":0" />。


報告によれば、CIAは複数のアジェンデ排除計画に関与した。これには議会への[[賄賂|贈賄]]、世論操作、[[ストライキ]]への資金提供などが含まれる。また、クーデターを促すための危機的状況の創出も試みられた。それに加え、[[ITT (企業)|ITT]]社やエル・メルクリオ紙を通じた資金提供や宣伝活動も行われたとされている。<ref>{{Cite news |title=Edward Korry, 81, Is Dead; Falsely Tied to Chile Coup |url=https://www.nytimes.com/2003/01/30/world/edward-korry-81-is-dead-falsely-tied-to-chile-coup.html?pagewanted=1 |work=The New York Times |date=2003-01-30 |access-date=2024-09-01 |issn=0362-4331 |language=en-US |first=David |last=Stout}}</ref>
ピノチェトの側も、抑圧のための装備品も含めて大量の兵器類を米国に注文し、米国もそれを歓迎した。その結果、チリは米国軍需品の輸入国として世界で第5位の地位についた<ref name=":0" />。


一方で、CIA工作員[[ジャック・デヴァイン]]<small>([[:en:Jack_Devine|英語版]])</small>は、後に公開された情報源に基づき、米国政府の役割は従来報じられていたよりも限定的であった可能性を示唆している。<ref>{{Cite news |title=Showdown in Santiago |url=https://www.foreignaffairs.com/articles/south-america/2014-08-18/showdown-santiago |work=Foreign Affairs |date=2014-08-18 |access-date=2024-09-01 |issn=0015-7120 |volume=93 |issue=5 |language=en-US}}</ref>
プロパガンダの面でも米国政府はピノチェトを支援した。その多くは、ピノチェト政権の国際的イメージアップを狙ったもので、チリのキリスト教民主党の著名な議員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回ってクーデターを正当なものとして説明するというツアーの資金を提供した<ref name=":0" />。

ピノチェトの権力の源泉でありチリ全土を恐怖に陥れた秘密警察DINAも、CIAと密接な関係にあった。DINA創設時には、組織化と訓練の面でCIAが協力した<ref name=":0" />。DINA内部にCIA工作員を配置することをCIA副長官が提案したこともある<ref name=":0" />。さらにDINA長官のマヌエル・コントレラスはCIAから報酬を受け取っていた。それは、CIAが進める工作でDINAの協力が必要だったから、とのことだ<ref name=":0" />。

1976年9月、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあった[[オルランド・レテリエル]]が滞在先の[[ワシントンD.C.]]でDINAによる車爆弾で暗殺された。レテリエルは、その一か月ほど前に、ピノチェト軍事政権による人権侵害と同政権による新自由主義的経済政策は表裏一体の関係にあるとする批判記事を『[[ネイション (雑誌)|ネイション]]』誌で発表したばかりだった<ref name=":0" />。この事件は、よりによって米国の首都でのテロ行為であったため、当時の[[アメリカ合衆国大統領|大統領]][[ジミー・カーター]]が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。

1977年3月8日、アメリカは国連人権委員会でアジェンデ政権転覆に介入していたことを認め遺憾の意を表明。「どれほど遺憾の意を表明したところでチリ国民が二年間経験した苦しみと恐怖の緩和には役に立たないだろう」として、ピノチェト政権の暴走ぶりを非難した<ref>アジェンデ政権転覆 米の介入を認める 国際人権委で遺憾表明『朝日新聞』1977年(昭和52年)4月24日朝刊、13版、23面</ref>。とはいえ、この発言はあくまでも国務省の一職員による個人的な見解にすぎなかった。国務省とホワイトハウスは即座にこれを撤回。発言者は召還された<ref name=":0" />。

その後関係はある程度回復したが元の状態にまでは戻らず、アメリカ政府内にはピノチェトに対する不信感が残った。そして、米国の合法的居住者だった19歳のチリ人カメラマンが生きたまま火をつけられるという事件<ref name=":0" />が米国でも報道されると、米国政府もピノチェトから距離を置くようになり、スポンサーを失ったピノチェトは[[1990年]]に大統領を辞任する。レテリエル暗殺がその遠因ともなっていたとする説もある。


=== 海外における反応 ===
日本では当時の政権与党である[[自由民主党 (日本)|自民党]]の他、[[民社党]]などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は[[塚本三郎]]を団長とする調査団を派遣し、1973年[[12月18日]]、ピノチェトは[[大内啓伍]]の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐに[[キューバ]]との国交を断絶。[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ベトナム]]、[[ドイツ民主共和国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]、[[ハンガリー]]、[[ブルガリア]]、[[ユーゴスラビア]]などの社会主義国側も対抗して次々と断交に踏み切った。当時[[西側諸国]]に接近していた[[ルーマニア人民共和国]]と[[中華人民共和国]]だけ国交を継続した<ref>Valenzuela, Julio Samuel; Valenzuela, Arturo (1986). Military Rule in Chile: Dictatorship and Oppositions. Johns Hopkins University Press. p. 316.</ref>。
日本では当時の政権与党である[[自由民主党 (日本)|自民党]]の他、[[民社党]]などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は[[塚本三郎]]を団長とする調査団を派遣し、1973年[[12月18日]]、ピノチェトは[[大内啓伍]]の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐに[[キューバ]]との国交を断絶。[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ベトナム]]、[[ドイツ民主共和国]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]、[[ハンガリー]]、[[ブルガリア]]、[[ユーゴスラビア]]などの社会主義国側も対抗して次々と断交に踏み切った。当時[[西側諸国]]に接近していた[[ルーマニア人民共和国]]と[[中華人民共和国]]だけ国交を継続した<ref>Valenzuela, Julio Samuel; Valenzuela, Arturo (1986). Military Rule in Chile: Dictatorship and Oppositions. Johns Hopkins University Press. p. 316.</ref>。

=== 混乱と崩壊 ===
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時に[[シカゴ学派 (経済学)|シカゴ学派]]の[[新自由主義]]経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。

ピノチェトの独裁政権は[[1989年]]に民政移管し、[[コンセルタシオン・デモクラシア]]からキリスト教民主党出身の[[パトリシオ・エイルウィン]]が19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局彼自身が裁かれることはなく2006年に死去した。


== チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品 ==
== チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品 ==

2024年9月1日 (日) 14:25時点における版

1973年チリ・クーデター
冷戦



上から順に:
1973年9月11日のチリ軍によるラ・モネダ爆撃
クーデター中のジャーナリストと兵士。
国立競技場に拘禁されている被拘禁者や拷問被害者
1973年9月11日
場所チリの旗 チリ
結果

クーデター成功。

衝突した勢力

チリの旗 チリ政府

革命的左翼運動
その他労働者階級の過激派

チリ軍


支援:
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
チリの旗 サルバドール・アジェンデ  
チリの旗 マックス・マランビオ英語版
ミゲル・エンリケス英語版
チリの旗 アウグスト・ピノチェト
チリの旗 ホセ・メリノ英語版
チリの旗 グスタボ・リー・グスマン英語版
チリの旗 セザール・メンドーサ英語版
爆破されるモネダ宮殿

チリ・クーデタースペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデターである。

社会主義者のサルバドール・アジェンデ大統領を打倒するため、チリ軍によって行われた軍事行動である。 陸軍部隊と空軍機が政府所在地であるモネダ宮殿を攻撃。アジェンデは軍が宮殿に突入した際に自ら拳銃で命を絶った。[1]

概要

サルバドール・アジェンデ
アジェンデ内閣

アジェンデは、ラテンアメリカで初めて民主的に選出されたマルクス主義者として知られていたが、社会不安、議会との対立、そしてアメリカ合衆国による経済戦争に直面していた。

1973年9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍率いる軍部によるクーデターが勃発し、文民政府の終焉に繋がった。軍事政権は全ての政治活動を停止し、左翼運動を弾圧した。ピノチェトは急速に権力を固め、1974年末には正式にチリ大統領となった。

クーデター直前、アジェンデは最後の演説を行い、大統領官邸に留まる決意を表明した。彼の死の詳細は今も議論の的となっている。

チリは南米において民主主義と政治的安定の象徴とされていたが、クーデターにより1932年以来続いた民主政権が途切れることとなった。これによりピノチェト政権による政治的弾圧が開始され、左翼勢力は弱体化した。1989年の国民投票を経て、チリは平和裏に民主主義へと移行した。

この出来事は、その日付から「もう一つの9.11」とも呼ばれている。

政治的背景

1970年選挙

候補者 得票数 %
アジェンデ 1,070,334 36.30%
アレッサンドリ 1,031,051 34.98%
トミッチ 0,821,000 27.84%
総計 2,922,385

1970年チリ大統領選挙英語版において、アジェンデは36.6%の得票率で首位となったが、過半数に達せず。憲法規定により、議会が最終決定を行うこととなった。

当時の憲法下では大統領の連続再選が禁止されていた。CIAはアレッサンドリを当選させ、辞任後の再選挙でフレイを擁立する計画を立てた。[2]しかしアジェンデが憲法遵守を誓約したことで、議会により大統領に選出された。

米国は社会主義の成功例となることを恐れ、外交的、経済的、秘密裏に圧力をかけた。[3]1971年末にはカストロがチリを訪問し、米国の警戒心を高めることとなった。[4]

アジェンデ政権

1972年、経済相ヴスコヴィッチの金融政策により、インフレ率は140%に達し、闇市場が蔓延した。同年10月、小規模事業主や労働組合、学生グループによる大規模ストライキが発生。24日間のストライキは国家経済に打撃を与え、軍部のプラッツ将軍が内相に就任する結果となった。

1973年3月の議会選挙では、アジェンデの人民連合が得票率を43.2%に伸ばしたが、キリスト教民主党との非公式な同盟は終焉を迎えた。キリスト教民主党は国民党と連携し、民主連合を形成。立法府と行政府の対立により政府機能は麻痺状態に陥った。

アジェンデは暗殺を恐れ、カストロに助言を求めた。カストロは技術者の引き留め、ドル建て銅取引、過激な革命行為の回避、軍との関係維持を進言したが、後者2点の実行は困難を極めた。

危機

1973年6月29日、ロベルト・スーペル大佐がラ・モネダ大統領官邸を戦車部隊で包囲したが、アジェンデ政権の打倒には失敗した。この未遂クーデター(タンケタソ)は、国粋主義的な準軍事組織「祖国と自由」が組織したものだった。[5]

8月には憲法危機が発生。最高裁は政府の法執行能力の欠如を公然と非難した。22日、キリスト教民主党は国民党と共に下院で政府の違憲行為を告発し、軍に憲法秩序の執行を求めた。[6]

政府は国家警察カラビネロスの忠誠を疑い、その起用を躊躇していた。8月9日、アジェンデはカルロス・プラッツを国防相に任命したが、プラッツは24日に国防相と陸軍総司令官の両職を辞任。同日、アウグスト・ピノチェトが陸軍総司令官に就任した。

8月下旬、10万人のチリ女性が食料と燃料の高騰と不足に抗議するデモを行ったが、催涙ガスで解散させられた。[7]

8月23日、下院は81対47で決議を可決。この決議は、アジェンデ政権が「絶対権力の獲得を目指し、全市民を国家の厳格な政治的・経済的管理下に置こうとしている」と非難し、「憲法違反を恒常的な行動様式としている」と主張した。さらに、「政府が保護する武装集団の創設と発展」を非難し、アジェンデによる軍と警察の再編努力を「党派的目的のための軍と警察の利用」と批判した。[8]

この決議は事実上、政府が従わない場合は軍に政権打倒を促すものだった。ピノチェトは後にこの決議をクーデター正当化の根拠として利用した。[9]

アジェンデは8月24日に反論。野党が軍に民間権力への不服従を促してクーデターを扇動していると非難し、議会の宣言は「国の威信を損ない、国内に混乱を生み出すためのもの」だと批判した。[10]

アジェンデは、自身が憲法に則って軍人を入閣させ、共和制の制度を反乱やテロから守ろうとしたと主張。一方で、議会の行動は憲法違反であり、行政権を簒奪しようとしているとした。[11]

7月中旬、下院決議の約1ヶ月前、陸軍上層部では人民連合「実験」の終結が望ましいという一般的合意があった。プラッツ陸軍総司令官を中心とする憲法派将軍たちは、アジェンデと軍部による共同政権を提案。一方、強硬派将軍たちは、共同政権は不要としていた。ピノチェトもこの強硬派に加わっていた。[12]

クーデター

アウグスト・ピノチェト

1973年9月11日午前6時、1924年のクーデターと同じこの日に、海軍がバルパライソを制圧し、中央海岸に艦船と海兵隊を配置、ラジオとテレビ局を閉鎖した。アジェンデ大統領は海軍の行動を知らされ、個人的友人グループ(GAP)と共に大統領官邸に向かった。

午前8時までに、陸軍はサンティアゴ市内のほとんどのラジオとテレビ局を閉鎖。空軍は残りの局を爆撃した。アジェンデは不完全な情報しか得られず、海軍の一部だけが反乱を起こしていると確信していた。[13]

アジェンデとアジェンデ支持者である国防相レテリエは軍指導部と連絡が取れなかった。海軍司令官モンテロ提督は通信を遮断され、クーデターを阻止できないよう妨害された。海軍の指揮権はクーデター計画者のメリーノ英語版に移った。陸軍のピノチェト将軍と空軍のリー将軍はアジェンデの電話に応答しなかった。

国防相レテリエは国防省に到着後、クーデターの最初の捕虜として逮捕された。

全軍がクーデターに関与していた証拠があったにもかかわらず、アジェンデは一部の部隊が政府に忠実であることを期待していた。午前8時30分、軍がチリの支配権を宣言し、アジェンデの解任を発表するまで、大統領はクーデターの規模を把握していなかった。

午前9時までに、首都サンティアゴの中心部を除いてチリ全土が軍の支配下に入った。アジェンデは降伏を拒否し、社会党とキューバの顧問団がカウンタークーデターを提案したが、大統領はこれを拒否した。

軍は交渉を試みたが、アジェンデは憲法上の義務を理由に辞任を拒否した。午前10時30分、アジェンデは告別演説を行い、クーデターの発生と脅迫下での辞任拒否を国民に伝えた。

リー将軍英語版は大統領官邸の爆撃を命じたが、戦闘機の到着に時間がかかるため、ピノチェトは装甲部隊と歩兵部隊の前進を命じた。しかし、GAPの狙撃手の攻撃を受けて撤退を余儀なくされた。ヘリコプターの支援を得て再び前進し、空軍機も到着して近接航空支援を行った。午後2時30分近くまで守備隊は抵抗を続けたが、最終的に降伏した。当初、大統領は戦闘中に死亡したと報じられたが、後に警察筋は自殺したと報告した。[14]

自殺前、アジェンデは最後の演説で、チリの未来への希望と、国民が意志を強く持ち、暗黒の時代を乗り越えることを願った。彼は「私の祖国の労働者たちよ、私はチリとその運命を信じている。他の人々がこの暗く苦い瞬間を乗り越えるだろう。裏切りが勝利しようとしているこの瞬間を。覚えておいてほしい。近いうちに、自由な人々がより良い社会を築くために通る大通りが再び開かれるだろう。チリ万歳!国民万歳!労働者万歳!」と述べた。[15]

CIAによる干渉

1973年のチリのクーデターにおける米国の関与は、長年にわたり議論の的となってきた。当初米国は関与を否定したが、後の調査や機密解除文書により、米国の介入の程度が明らかになった。

2000年の米国情報機関の報告書によれば、CIAはクーデターを直接扇動はしなかったものの、軍部のクーデター計画を認識し、一部の謀議者との情報収集関係を維持していた。[16]また、1970年のクーデター扇動の試みや、クーデターを思い止まらせなかったことから、暗黙の承認を与えたと見られる。

歴史家ピーター・ウィン英語版は、米国のクーデターへの幅広い関与の証拠を見出し、CIAがチリを不安定化させ、クーデターの条件を作り出したと主張している。[17]クリントン政権下で機密解除された文書は、1970年のアジェンデ政権選出に対する米国の敵対的姿勢を裏付けている。[18]

報告によれば、CIAは複数のアジェンデ排除計画に関与した。これには議会への贈賄、世論操作、ストライキへの資金提供などが含まれる。また、クーデターを促すための危機的状況の創出も試みられた。それに加え、ITT社やエル・メルクリオ紙を通じた資金提供や宣伝活動も行われたとされている。[19]

一方で、CIA工作員ジャック・デヴァイン英語版は、後に公開された情報源に基づき、米国政府の役割は従来報じられていたよりも限定的であった可能性を示唆している。[20]

海外における反応

日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐにキューバとの国交を断絶。ソ連北朝鮮ベトナムドイツ民主共和国ポーランドチェコスロバキアハンガリーブルガリアユーゴスラビアなどの社会主義国側も対抗して次々と断交に踏み切った。当時西側諸国に接近していたルーマニア人民共和国中華人民共和国だけ国交を継続した[21]

チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品

小説

ラテンアメリカ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日本の旗 日本

映画

ドキュメンタリー映画・番組

音楽

など

その他

  • MASTERキートン』 - 第24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。
  • プリンプリン物語』 - 劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる。
  • ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 - 冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。
  • ゴルゴ13 33+G』 - チリのコピアポ鉱山落盤事故に巻き込まれたデューク東郷が大統領暗殺の犯行は自身によるものだと回想するシーンがある。

脚註

  1. ^ チリ・アジェンデ元大統領、死因は自殺 論争に決着”. 日本経済新聞 (2011年7月20日). 2024年8月7日閲覧。
  2. ^ CIA Activities in Chile — Central Intelligence Agency”. web.archive.org (2007年6月12日). 2024年9月1日閲覧。
  3. ^ New declassified files shed light on US role in ousting Allende – The Santiago Times”. web.archive.org (2016年10月9日). 2024年9月1日閲覧。
  4. ^ Castro Speech Data Base - LANIC - Browse Speeches from 1971”. web.archive.org (2004年5月30日). 2024年9月1日閲覧。
  5. ^ Second coup attempt: El Tanquetazo”. web.archive.org (2004年10月13日). 2024年9月1日閲覧。
  6. ^ Declaration of the Breakdown of Chile’s Democracy - Wikisource, the free online library” (英語). en.wikisource.org. 2024年9月1日閲覧。
  7. ^ The Bloody End of Marxist Dream”. 2024年9月1日閲覧。
  8. ^ Agouborde, María Victoria (2023年8月23日). “La Cámara de Diputados de Chile lee la resolución de 1973 que acusó de inconstitucional al Gobierno de Allende” (スペイン語). El País Chile. 2024年9月1日閲覧。
  9. ^ Goldberg, Peter A. (1975). “The Politics of the Allende Overthrow in Chile”. Political Science Quarterly 90 (1): 93–116. doi:10.2307/2148700. ISSN 0032-3195. https://www.jstor.org/stable/2148700. 
  10. ^ Affairs, United States Congress House Committee on Foreign Affairs Subcommittee on Inter-American (1975) (英語). United States and Chile During the Allende Years, 1970-1973: Hearings Before the Subcommittee on Inter-American Affairs of the Committee on Foreign Affairs, House of Representatives ..... U.S. Government Printing Office. https://books.google.co.jp/books?id=-20JAAAAIAAJ&pg=PA393&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  11. ^ Manifiesto al país de Salvador Allende, respondiendo al acuerdo de la camara de diputados - Wikisource” (スペイン語). es.wikisource.org. 2024年9月1日閲覧。
  12. ^ “[https://www.rrojasdatabank.info/murder50.htm The R�binson Rojas Archive: The murder of Allende and the end of the Chilean way to socialism.- The R�binson Rojas Archive.- RRojas Databank.- Puro Chile. The memory of the people.]”. www.rrojasdatabank.info. 2024年9月1日閲覧。
  13. ^ Laborde, Antonia (2023年9月11日). “Minuto a minuto: así fue el golpe militar del 11 de septiembre de 1973 en Chile” (スペイン語). El País Chile. 2024年9月1日閲覧。
  14. ^ Rome News-Tribune - Google ニュース アーカイブ検索”. news.google.com. 2024年9月1日閲覧。
  15. ^ Document #28: “Final Speech,” Salvador Allende (1973) | Modern Latin America”. library.brown.edu. 2024年9月1日閲覧。
  16. ^ Home | National Security Archive”. nsarchive.gwu.edu. 2024年9月1日閲覧。
  17. ^ Joseph, Gilbert M.; Grandin, Greg (2010-10-21) (英語). A Century of Revolution: Insurgent and Counterinsurgent Violence during Latin America’s Long Cold War. Duke University Press. ISBN 978-0-8223-9285-9. https://books.google.co.jp/books?id=YJ7ZBGy0wsIC&pg=PA270-271&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  18. ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 title は必須です。{{{title}}}”. nsarchive2.gwu.edu. 2024年9月1日閲覧。
  19. ^ Stout, David (2003年1月30日). “Edward Korry, 81, Is Dead; Falsely Tied to Chile Coup” (英語). The New York Times. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/2003/01/30/world/edward-korry-81-is-dead-falsely-tied-to-chile-coup.html?pagewanted=1 2024年9月1日閲覧。 
  20. ^ “Showdown in Santiago” (英語). Foreign Affairs 93 (5). (2014年8月18日). ISSN 0015-7120. https://www.foreignaffairs.com/articles/south-america/2014-08-18/showdown-santiago 2024年9月1日閲覧。 
  21. ^ Valenzuela, Julio Samuel; Valenzuela, Arturo (1986). Military Rule in Chile: Dictatorship and Oppositions. Johns Hopkins University Press. p. 316.
  22. ^ 日本放送協会『CIA 世界を変えた秘密工作 - 映像の世紀バタフライエフェクトhttps://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/83LX92ZPR1/2024年8月2日閲覧 

参考文献

関連項目

外部リンク