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「特権内閣打倒」
1924(大正13)年1月7日、清浦奎吾が全閣僚を貴族院の最大会派である「研究会」をはじめとする貴族院諸派から起用するという「貴族院内閣」を組織したことは、既成政党にショックを与えました。またも、政党が政権を逃し、加藤友三郎、山本権兵衛、そして清浦奎吾と、3代にわたって「非政党内閣」が続くことになったからです。とくに衆議院に絶対多数を持っていた政友会は無論、このところ政権から外されてきた憲政会内部でも不満が高まります。
西園寺公望ら元老が清浦を奏薦した裏には、原内閣以来の人々の政党不信がありました。が、これに代わる貴族院内閣の登場もまた、世論の不評を買いました。(岡義武著『転換期の大正』)
同月10日、政友会、憲政会、革新倶楽部の若手議員の有志が「特権階級内閣打倒」の運動を始めます。政友会の実力者の間では、衆議院と貴族院の円満な関係を理想とする
高橋は同月15日、「時代錯誤」に陥った新内閣は擁護できないとして、子爵の爵位と貴族院議員を辞し、平民となって衆議院選挙に出馬する意向を表明しました。横田らは、総裁を辞めようとしていた高橋を説得し、ここで断固たる決意を示してもらって「特権内閣打倒」を訴えれば、総選挙で勝利できると計算したようです。
これに対し、床次をはじめ中橋徳五郎、元田肇、山本達雄らの
護憲3派、衆院選に圧勝
1月18日、政友会・高橋是清、憲政会・加藤高明、革新倶楽部・犬養毅の3党首が会談しました。枢密顧問官を辞した三浦梧楼が
この席で3党首は、「憲政の本義に
同月30日、大阪での憲政擁護関西大会に出席した3党首らが、帰京するため乗っていた列車が転覆未遂に遭う事件が起きました。翌31日、衆議院で革新倶楽部の浜田国松が、この事件の緊急質問中、暴漢3人が壇上を占拠、議場は大混乱に陥りました。休憩に入ると、清浦内閣は突然、衆議院を解散しました。
清浦内閣はその理由を次のように説明しました。護憲3派は、清浦内閣を政党に基礎を置いていない特権内閣と称して批判しているが、寺内、加藤、山本の諸内閣が、同じく政党に基礎を置かずとも、政策本位でこれらの内閣を積極的に支持した政党があったではないか。現内閣を「形式的憲政論」で特権内閣と批判し、階級闘争をあおっている3派は、政権争奪に没頭して国務の遂行を妨げており、ここに「国民の真意」を問う、というものでした。(岡『転換期の大正』)
選挙戦では、護憲3派の足並みはそろいませんでした。これまで普通選挙を訴えてきた憲政会、革新倶楽部に対して、「時期尚早」を唱えていた政友会は、公約で普通選挙を打ち出せませんでした。また、政友会が主張した貴族院改革も、普選法を通すには貴族院の協力が必要と考える憲政会はこれに消極的でした。要は国民の側からみると、実にわかりにくい選挙で、桂内閣崩壊につながった第1次護憲運動(1912年)の時のような民衆の盛り上がりにも欠けていました。
第15回衆議院選挙(定数464)は、5月10日に実施されました。その結果、憲政会152、政友会102、革新倶楽部30と、護憲3派が計284議席を獲得し、圧勝しました。与党の政友本党は111議席にとどまりました。この選挙で議席を増やしたのは憲政会だけでした。
加藤高明連立内閣
元老の西園寺公望は、後継首相に加藤高明(1860~1926年)を推薦しました。その際、西園寺には加藤以外の選択肢はみあたりませんでした。加藤は、護憲3派を基礎とした連立内閣を24年6月11日に発足させます。首相が選挙結果を踏まえて選ばれたのは、戦前の日本ではこれが唯一の例です(小山、前掲論文)。顔ぶれは次の通りでした。
▽首相・加藤高明(憲政会) ▽外相・幣原喜重郎 ▽内相・若槻礼次郎(憲政会) ▽蔵相・浜口雄幸(憲政会) ▽陸相・宇垣一成 ▽海相・財部彪 ▽司法相・横田千之助(政友会) ▽文相・岡田良平(貴族院・無所属) ▽農商相・高橋是清(政友会) ▽逓信相・犬養毅(革新倶楽部) ▽鉄道相・仙石貢(憲政会)
新首相の加藤は、豊富な政治経歴の持ち主でした。名古屋に生まれ、東京大学を卒業して郵便汽船三菱に入社、イギリスに留学後、岩崎弥太郎の長女と結婚しました。87年、外務省に転じ、大隈重信外相の秘書官に就きましたが、大隈の遭難事件により同省を去りました。
大蔵省主税局長などを経て、1894年~99年、駐イギリス公使を務め、98年には、対ロシア強硬論と日英同盟論の意見書を本省に提出。加藤は常に、イギリスを日本外交の中心に据えるべきだという対英基軸論者でした。
加藤は第4次伊藤、第1次西園寺、第3次桂各内閣で外相をつとめ、13年に桂の立憲同志会に入り、桂の死後、同会総理に就きました。
14年に大隈内閣で4度目の外相に就任すると、第1次世界大戦下の翌15年、対華21か条要求を提出しました。16年、立憲同志会を憲政会に改組後も、総裁の座にあり、長く野党として「苦節10年」の辛酸をなめてきました。
加藤は、内閣発足前、憲政会議員総会であいさつし、我々が多年、訴えてきた主義主張に世間が共鳴して、第1党という好結果がもたらされた。我々は今後、支持を失わぬことはもちろん、いっそう広く支持を獲得しなければならない。そのためには、これからも「謙譲の徳を守り、しかも己の主義主張を
普通選挙法が成立
護憲三派内閣が最重要課題としていた普通選挙法が25年3月29日、成立しました。原則として満25歳以上の男子に衆議院議員の選挙権が与えられ、被選挙権については満30歳以上の男子とされました。
これまでの納税額による選挙権の制限は撤廃されました。しかし、女性の参政権は認められませんでした。また、「貧困により生活のため公私の救助を受け又は扶助を受くる者」は、「選挙権及び被選挙権を有せず」と規定されました。(衆議院議員選挙法第6条)
普通選挙権は、当時の社会運動の政治要求のトップに掲げられてきました。このため、枢密院や貴族院は、選挙権付与を制限する「欠格条項」の拡大に向け厳しく干渉しました。政府原案の欠格者は、「生活のため公費の救助を受くる者」でしたが、これは「貧困のため公私の
また、貴族院は、普選法案と抱き合わせの形で提出された、貴族院改革のための貴族院令改正案に対しても抵抗し、結局、改正案は骨抜きにされて有爵議員の減員などが決まっただけで終わりました。
普通選挙法の成立により、有権者総数は約1240万人と、これまでの4倍以上に増加しました。原内閣の時に導入された小選挙区制は中選挙区制に変更されました。
世界各国の参政権の実情をみると、男子普通選挙は、フランスが1848年の2月革命の直後に、ドイツでは71年の帝国成立時に導入されました。アメリカは州によって異なりますが、19世紀の半ばには実施されました。1832年以来、何度も選挙権が拡大されてきたイギリスの場合、普選の実現は1918年でした。
婦人参政権については、1893年のニュージーランドが最初でした。第1次大戦後、ドイツでは1919年のワイマール憲法で認められ、アメリカは20年、イギリスでも28年、それぞれ男女平等の普通選挙が実現しました。男子では先行したフランスは、日本と同様、第2次大戦後の45年のことになりました。(五味文彦ほか編『詳説日本史研究』)
柳田国男の普選論
『遠野物語』(1910年刊行)や『明治大正史世相篇』(31年刊行)などで知られる民俗学の柳田国男(1875~1962年)は19年、貴族院書記官長を最後に、官界を去りました。ジュネーブで国際連盟委任統治委員を務めたのち、24年からは朝日新聞編集局顧問論説担当に就くなどして幅広く時事問題を論じました。
柳田は、政治に関しても積極的に発言し、同年3月には「特権階級の者」「政治生活更新の期」と題する論考を発表しています。(川田稔『柳田国男』)
この中で、柳田は、「我々は代議政治の機能を完全にするため、何とか
「また、元老が寝床の上で、次の首相を指名する」システムは好ましくなく、「元来内閣を
その一方、女性や植民地の住民にまで、近い内、選挙権は及ぶまいとしたうえで、選挙人が自分たちの仲間の利害のみを標準として代議士を選ぶに
思想弾圧へ治安維持法
普選法案が成立する10日前の25年3月19日、治安維持法が成立しました。「国体を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織」するだけでなく、「情を知りてこれに加入したる者」についても、10年以下の懲役又は禁錮(第1条)という重罪を科しました。そのうえで、組織することや加入することの未遂罪まで処罰すると定めました。
高橋是清内閣が22年に提出した過激社会運動取締法案(審議未了)など、共産主義者や無政府主義者を取り締まる法令の系譜をひくものでした。その後も、司法省や内務省で検討を進め、加藤内閣は、普選法の成立を前に、社会主義の拡大と、日ソ国交回復(25年1月)に伴う過激思想の流入を恐れて提出に踏み切ったとされます。
治安維持法は、これまでの治安立法と性質を異にしていました。それは、政治活動や社会運動などの具体的な行為を制限した治安警察法に対して、国体変革と私有財産の否認という思想ないし信念をもった者を取り締まりの対象にしたことです。「国体」という言葉が法律に使われたのはこれが初めてでした。(今井清一著『大正デモクラシー』)
労農団体や言論人は反発しましたが、政府は国会で自由主義や穏健な社会運動を抑圧するものではないと説明し、原案を一部修正しただけで成立させました。(櫻井『加藤高明』)
同法は28年、田中義一内閣の緊急勅令で「国体を変革することを目的として結社を組織したる者は死刑」と、刑罰に死刑が加えられます。
治安維持法が最初に適用されたのは25~26年の学連事件でした。24年に創立され、軍事教練反対運動を展開していた全日本学生社会科学連合会(大学・専門学校・高校の社会科学研究会の全国組織)の幹部が検挙され、有罪になりました。
その後、日本共産党員ら千数百人が全国一斉に検挙された28年の3・15事件や、太平洋戦争下の42年、雑誌編集者らが検挙され、獄死者を出した「横浜事件」など、大量検挙と過酷な取り調べと、再犯防止のため刑の執行後も拘禁する予防拘禁制によって、同法は言論・思想弾圧を繰り返す道具になります。
連立内閣崩壊
普選法が成立すると、護憲三派内閣に早くも遠心力が働きます。政友会重鎮の横田司法相が25年2月に急死し、高橋総裁は国会終了後の4月4日、政界引退を表明しました。横田の後任の司法相には政友会の長老・小川平吉、高橋の後継総裁には、同13日、元陸相で陸軍大将の田中義一(1864~1929年)が就任しました。
加藤首相は、再三、田中と会談して入閣を求めますが、田中は応じず、高橋の後任の閣僚には、4月1日に農商務省が分割されて設けられた商工省と農林省の各大臣に野田卯太郎と岡崎邦輔を充てました。さらに5月になると、政友会と革新倶楽部が合同し、犬養毅も政界引退を表明し、逓信相を辞任しました(後任は憲政会幹部の安達謙蔵)。政界はにわかに流動化します。
なお、犬養は間もなく政界に復帰、田中の後の政友会総裁、首相になりますが、32年の5・15事件で、海軍青年将校らに射殺されます。また、高橋は27年の金融恐慌にあたり、田中内閣の蔵相として3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して事態を収拾。満州事変後、犬養、斎藤実、岡田啓介の3内閣で蔵相を務めましたが、36年、皇道派将校によるクーデター(2・26事件)で非業の死を遂げます。
さて、加藤内閣は、税制整理問題をめぐり、政友会と憲政会の閣僚が衝突し、25年7月31日、閣内不統一を理由に総辞職します。3派の協調体制は1年余で破綻しました。
政友会は、政権が回ってくると見て、さっそく政友本党との提携協議に入りましたが、8月1日夜には、大命は加藤に再降下し、憲政会の単独内閣(第2次加藤内閣)が2日、成立しました。元老の西園寺は、加藤の政策はまだ世論の支持を失っておらず、政友会の策動は好ましくないとみていました(櫻井『加藤高明』)。閣僚は司法相に
政友本党は、一時、政友会に接近し、26年に25人が脱党して政友会に走りました。その一方、27年に田中政友会内閣ができると、憲政会との合同に動いて立憲民政党を結成。ここに民政党と政友会の2大政党制が生まれ、衆議院の多数派勢力が政権を担う慣習ができあがります。
ところが、加藤は26年1月、議会での施政方針演説に対する答弁中に倒れ、同28日に急死しました。内相の
大正天皇の崩御
21年11月、裕仁皇太子が摂政に就任すると、大正天皇は、日光や沼津あるいは葉山に長期滞在し、もっぱら療養に努めていました。しかし、25年5月、「銀婚式」を迎えた後の、第8回病状発表(6月18日)では、「御歩行は従前に比し幾分御難儀の御模様に伺い奉る」「御記憶力、御注意力等の如きは、概してご快方に向はせられず、
10月末から半月近く、38度前後の熱が続き、摂政は、佐賀県での陸軍大演習の行啓を取りやめ、11月12日、天皇を見舞いました。宮内省は同13日、鉄道省に鉄道用の
12月8日夜、天皇は呼吸困難に陥り、この日以降、葉山御用邸には、皇族や生母柳原
26(大正15)年12月25日午前1時25分、天皇は崩御しました。満47歳でした。逝去後、御用邸の御座所で、新天皇の
大喪は27年2月7日から新宿御苑で行われ、皇族、政府・軍の関係者や貴衆両院議員、各種団体代表ら約7000人が参列。8日朝、東京府南多摩郡横山村(現八王子市)の多摩陵に
戦争に向かう世界と日本
大正から昭和へ移行する1926年は、大正モダニズムの残り香もあって人々は大衆文化を楽しんでいました。ただ、その明るかった足下に、内外の暗雲が忍び寄る気配もありました。
同年6月、駐日イタリア大使館の若い書記官が講演会を開いて、日本の若者たちに、「今日、世界のすべての国々にとって取る道は、もはやふたつしか残されていません。モスクワの道すなわち民衆を扇動する独裁主義共産党の道か、さもなくば、ローマの道すなわち国民に優しいイタリア・ファシストの道です」と呼びかけました。
駐日フランス大使のポール・クローデル(1868~1955年)は、25年1月に「独裁」を宣言したムソリーニ(1883~1945年)のファシズムが、まずは思想の上で日本にまで勢力を広げようとしていると受け止めました(クローデル著『孤独な帝国 日本の一九二〇年代』)。
クローデルは3年前には、日英同盟の廃棄とアメリカの排日移民問題の再燃などにより、日本は「世界情勢の中心軸からはずれてしまい、いわばロビンソンクルーソーと化している」と、日本の国際的孤立の危険性に警鐘を鳴らしていました。
一方、26年10月、憲法学者の美濃部達吉は、治安維持法について「世にも稀な悪法」と断罪し、「権力をもって反対思想を撲滅せんとするのは、極端な専制主義の思想である。それは、現代においては、
日本では、第2次加藤内閣のあと、第1次若槻礼次郎(憲政会)、田中義一(政友会)、浜口
日本はこれを契機に、政治も外交も軍事も、歯車が狂い出します。5・15事件で、犬養が暗殺されたのを機に政党は無力化し始め、33年、日本政府は国際連盟を脱退するなど、国際社会との対決姿勢を強めます。そして37年には日中戦争を開始しました。39年、ヒトラー(1889~1945年)のナチス・ドイツがスターリンのソ連と不可侵条約を締結してポーランドへの侵攻を開始し、英・仏が独に宣戦、第2次世界大戦が始まると、日本は40年、独・伊と三国同盟を締結しました。
41年4月、日本はソ連と中立条約を結び、6月には独ソ戦が始まります。12月8日、日本は米・英に宣戦を布告。その3日後には、独・伊が米に宣戦を布告し、世界的規模の大戦争が再び、繰り返されることになります。
■連載はこれで終了します。長い間、ご愛読ありがとうございました。
【主な参考・引用文献】
▽櫻井良樹『加藤高明-主義主張を枉ぐるな』(ミネルヴァ日本評伝選、ミネルヴァ書房)▽今井清一『日本の歴史23 大正デモクラシー』(中公文庫)▽筒井若水ほか編『法律学教材 日本憲法史』(東京大学出版会)▽竹内理三ほか編『日本近現代史小辞典』(角川書店)▽古川隆久『大正天皇』(人物叢書、吉川弘文館)▽原武史『大正天皇』(朝日文庫)▽筒井清忠編『大正史講義』(ちくま新書)▽筒井清忠編『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』(同)▽高橋進『ムッソリーニー帝国を夢みた政治家』(世界史リブレット人 山川出版社)▽佐々木雄一『近代日本外交史―幕末の開国から太平洋戦争まで』(中公新書)▽ポール・クローデル『孤独な帝国 日本の一九二〇年代』(奈良道子訳、草思社)▽鶴見太郎『ミネルヴァ日本評伝選 柳田国男-感じたるまゝ』(ミネルヴァ書房)▽川田稔『柳田国男-その生涯と思想』(吉川弘文館)▽柳田国男『定本柳田国男集 第二十九巻』(筑摩書房)
(本文中、出典がない画像は国立国会図書館蔵)