想像を絶する悲劇に見舞われたあと、人はいかにして人生を再構築していくのだろうか? 故郷の村が過激派組織のISIS(自称「イスラム国」)に襲撃されてから10年、ノーベル賞受賞者でもある人権活動家のナディア・ムラドが、イラクの女性のために新設したセンター、アマル・クルーニーとの活動、悲劇を経てもなお、希望を抱いて生き続けるための未来予想図について語った。
イラク北部、シンジャールにあるコジョ村に住んでいたころ、ナディア・ムラドはビューティーの世界に魅せられた10代の少女だった。13歳のときには、きょうだいや母親と暮らす農場の羊小屋に「ビューティーサロン」を設け、友人や近所の人らを招いてはヘアスタイリングやメイクを施していたほどだ。「何度も学校から帰されていました。リップを塗っていたからです」と、彼女は笑みを浮かべながら振り返る。
だが2014年、彼女がこよなく愛する世界はあとかたもなく破壊される──過激派組織のISISがシンジャールに侵攻したためだ。2024年8月で、この侵攻が始まって10年となる。何千人もの男性や年配の女性が殺され、若い女性や子どもたちが拉致監禁されてから、10年という歳月が過ぎた。ムラドにとっては、母、そしてきょうだいや義理のきょうだいのうち6人が殺されてから10年が経ったことになる。すべて、彼らがヤジディ教を信仰していたがゆえの惨劇だった。
当時21歳だったムラドは、拉致され、拷問を受け、レイプされ、性的奴隷として売り飛ばされた。そののち、加害者の男性の一人が、彼女に化粧をするよう強いた。「まさにあのとき、『絶対に化粧などするものか』と思いました。きょうだいや母の血を自分の顔に塗るように強制されているように感じたからです」
ムラドはその後、近所に住む、ある一家の助けで、監禁されていた場所から逃げ出す。難民キャンプを経て、ドイツに避難した彼女は、自身の体験について証言を始める。惨状を告発する相手は、ジャーナリストから、国連、さらには世界の指導者へと広がっていた。彼女はヤジディ教徒のジェノサイド(大量虐殺)被害を象徴する存在となり、2018年には戦時下で兵器として用いられる性暴力を終わらせるための努力に対して、コンゴ民主共和国で活動する婦人科医、デニ・ムクウェゲ医師とともにノーベル平和賞を受賞した。
さらに2022年には、イギリス政府と共同で、「ムラド・コード」を制定した。これは性暴力サバイバーに話を聞く際の倫理的基準を定めたものだ。今日、ワシントンDCにある自宅で話を聞いた際にも、彼女はこのコードについて、「とても誇りに思っていることです」と感慨を語った。彼女はこの街にあるアメリカン大学をまもなく卒業予定で、社会学の学位を取得する見込みだ。「ほかの(性暴力)サバイバーにはこの基準があって、自分が持つ権利のこともわかっている姿を見ると、10年前の自分はなんてかわいそうだったのだろう、という気持ちになります。何をすべきなのか、まったくわからずに途方に暮れていましたから」
故郷の復興のために尽力
そして今、彼女は生まれ故郷のシンジャールに戻り、ナディアズ・イニシアティブ・ウィメンズ・センターを完成させようとしている。このセンターはこの地域に住む女性を対象に、職業訓練や社会的地位向上に向けた取り組みを行い、識字教育や言語の学習機会を提供するとともに、健康や心理状態に関するサポートを担う場所だ。さらに地域の女性向けに、美容術のトレーニングプログラムも提供する予定だ。これは10代のころに美容師になる夢を持っていた彼女にとって念願のプロジェクトで、とある世界的な巨大ビューティー企業とのパートナーシップによって実現した。この企業の名前は伏せておくように言われているが、誰もが知る大メーカーだ。
シンジャールの復興は、ムラドにとってライフワークと位置づけられるものだ。「過酷な状況を生き延びると、責任を負っているという自覚が生まれます。『確かに、私は何とか生き延びた。今なら、ごく小さなことかもしれないけれど、何かできる』と思うんです。でも生き延びることがかなわなかった人も本当に多いのです」
今、シンプルな黒のブラウスに、ノーアクセサリーという格好のムラドは、華奢で、親しみやすい雰囲気もある。だがそれでいて、世界でもトップクラスの政治家とも頻繁に面会している者にふさわしい風格も感じさせる。実際、フランスのエマニュエル・マクロン大統領とは親しくやり取りをしているほか、ローマ教皇とも2度、謁見する機会を得ている。こうした面会では、多くの場合英語で会話しているが、これは彼女が4つ目に身につけた言語だ。
さらに彼女は、人間的な愛らしさや誠実さも兼ね備えている。この点では女児が教育を受ける権利を訴え、彼女と同様にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイに通じるものを感じる。
最前線で声を発する若き女性活動家たち
ムラドやユスフザイ、そしてもちろん、グレタ・トゥーンベリやヴァネッサ・ナカテのような若き環境活動家も含めて、グローバルな課題解決を最前線で訴える者に、若い女性が多いのはなぜなのだろう?──私がこんな疑問をぶつけると、ムラドからは「若いうちは、リスクを冒すことを恐れないからでしょう」との答えが返ってきた。彼女自身も、世界中の若い女性アクティビストと連携している。「ソーシャルメディアや国連で私たちを見かけることもあると思います」と彼女は言い、意味深に微笑む。「でも、それだけではなく、現場で活動する人はとても多いんです。時が経てばきっと見えてくるものがあるはずです」
実際、2016年からムラドとともに活動している人権派弁護士のアマル・クルーニーは、彼女を「この時代にふさわしいリーダーで、美しい魂の持ち主」と絶賛する。「非常に優秀で、覚悟のある活動家です。彼女を自分の友人と呼べることを、私は幸運だと感じています」と言うのだ。
これまで8年にわたり、ムラドとクルーニーはISISの戦闘員たちに法の裁きを受けさせるための取り組みを、粘り強く進めてきた。昨年、クルーニーが率いる法律家チームはドイツの法廷で、ISISに参加した被告1名について、ヤジディ教徒に対するジェノサイドの罪で、通算3例目となる有罪判決を勝ち取った。「ナディア、そして彼女のいとこをはじめとするヤジディ教徒のみなさんの勇気ある行動のおかげで、ISISに加わった者を法の場で裁き、処罰を与える取り組みが実を結びつつあります」と、ロンドンにある自身の事務所で、取材に応じたクルーニーは語った。ムラドはまた、クルーニーが2023年12月にニューヨークの裁判所に提起した訴訟の原告代表でもある。これはISISに資金や物資を提供したとされる、フランスのある企業を相手取ったものだ。「これらの裁判は重要なマイルストーンです。しかし、これ以外にも多くの事案が進行中ですし、私たちは決してあきらめるつもりはありません」と、クルーニーはきっぱりと語った。
初対面のとき、ムラドは「とても引っ込み思案でした」と、クルーニーは回想する。「人と目を合わせず、英語は一言も話しませんでした。それでも、並外れた勇気と、人を助けたいという強い意志の持ち主だということは伝わってきました。その印象は今も変わりません」
一方、ムラドはクルーニーを「友達」と表現する。「助言が欲しいとき、やるべきことがあるときに、彼女を訪ねると、いつも勇気をくれます」。説明責任という考え方をムラドに教えたのもクルーニーだった。「残虐行為や性暴力を二度と起こさせないためには、説明責任はとても重要です」とムラドは語る。「なぜなら、あの手の人たち(加害者)は殺されることを恐れていないからです……。彼らが唯一恐れているのは、法廷でサバイバーと対面することです」
戦争中の女性や女児への虐待を終わらせ、シンジャールの地域社会を再建する目的で立ち上げたNPO「ナディアズ・イニシアティブ」の活動の一環として、ムラドはコンゴ民主共和国、スーダン、ウクライナで暮らす性暴力サバイバーにも会い、話を聞いた。「誰もが法廷で証言したがっています」とムラドは言う。「私たちにとって、それが唯一の法的な解決への道筋です。そうすれば前に進めるでしょう。彼らがもう二度と、ほかの女性に危害を加えることはできないとの確信を得たいのです」。しかし、自分をレイプした犯人が今後、このような法の裁きを受けることはないとしても、「私は証言の機会を得たと思っています」とムラドは言う。「世界の人たちの目の前で、自分の体験を話したわけですから」
インタビューの間にも、ムラドが耐え忍ばなければいけなかった、あまりに重い体験の影が、まるで厚い雲のように、私たちの頭上に垂れ込める瞬間があった。だがこの雲が去ってしまえば、そこにいるのは、ランニングを愛し、大学卒業を控えた、どこにでもいそうな若い女性だ。「セラピーには一度しか行ったことがありません」と彼女は言う。「ランニングが自分にとってのセラピーだと感じています。拉致されていたとき、考えられたのは走って逃げることだけでした──後ろを決して振り返らず、ひたすら逃げよう、と」
想像を絶する状況を生き延び、耐え忍ぶことができたのは、母親から受け継いだ強さがあったからだと、ムラドは語る。母親のシャミは、ムラドの父親にあたる夫が別の女性と再婚したのち、11人の子どもを独力で育て上げた。「母には何もありませんでした」とムラドは語る。「学校に行ったこともなく、手もとには何匹かの羊と、農園しかありませんでしたし、その農園にしても私の父と共有していました」。そんな母から学んだことを、彼女はこう振り返る。「寛容さ、受け入れることの大切さを教わりました……私が踏み出す一歩一歩の礎には、母から教わったことがあります」。イベントやスピーチ、インタビューの前には必ず、彼女は母に思いを馳せるという。「11人の子どもをたった一人で育てるために、どれだけのものを母が犠牲にしたか。あらゆる人の理解を超えていると思います」
インタビュー中、私はムラドが子どもを持つことを考えているのでは? と推察していた。2018年8月に、彼女は同じくヤジディ教徒で人権活動家のアビド・シャムディーンと結婚した。ニューヨークにある友人の家で出会った彼と恋に落ちたことで、「自分の中に、血の通った人間が確かにいる」ことに気付いたと、彼女は打ち明ける。「取材中、私が泣き叫ぶ姿を目にすることもあると思います。私はきれいな服を着ることもなく、ノーメイクで、レイプや暴力の被害に遭った体験を話しています。それでも内面には、人を愛することができる自分がいます。これは、ほかのサバイバーにも知ってほしいことなんです」。結婚してからちょうど6年を迎える今、彼女は子どもが欲しいと考えているという。「ぜひ持ちたいですね。タイミングの良いところで」
今はドイツを本拠としているが、故郷のシンジャールはこれからも、彼女にとって我が家のような場所であり続けるだろう。「ちょっとした暮らしの一コマ、ほんのささいなこと」が懐かしく思い出されると、彼女は言う。具体的には「家族と屋上で過ごしたり、ひまわりの種を食べたりしたこと、そして農園での作業」などだという。ISISの襲撃を受ける前の生活に戻れるのなら、これまでに得てきた名誉や高い評価など、すべてを投げ出してもいいと彼女は言う。「ためらいなくそうします。これは私が夢見ていたものではありませんから」
「人生にまた光が戻ってきた」
ファッションやメイクなど、こよなく愛する日常の楽しみについて尋ねると、彼女の表情はとたんに明るくなる。ISISの手を逃れたのち、ムラドは髪をばっさり切り、メイクもやめた。そうした行為が、誤ったメッセージを伝えるように感じたからだ。彼女はその後、チェーン店で売られている中でも一番安い服を着るようになった。マクロン大統領に面会したときも、着ていたのはファストファッションブランド、プライマークのワンピースだった。ノーベル賞を受賞した際には、友人の仲立ちで、デザイナーのナイーム・カーンから授賞式で着るドレスの提供を受けた。「届いたドレスは、私がそれまで見たことがないようなものでした。本当に美しかったんです」。彼女はこのドレスを着て、受賞スピーチの練習をしたという。だが授賞式の前に、鏡に映る自分の姿を見た彼女は、このドレスを脱ぐ決断をする。「あのドレスは、私が語る話には美しすぎたのです」と、彼女は端的に、その理由を説明した。
一方で、クルーニーの紹介で、著名なメイクアップアーティスト、シャーロット・ティルブリーと会ったことで、彼女はメイクする喜びを取り戻した。「あれは……」と、彼女は大きく目を見開いて、このときのことを思い返す。「私が夢見ること、すべてが詰まっていました」。コスメを手にして自由にメイクを楽しむことで、彼女は「人生にまた光が戻ってきた」ように感じた。これはまさに、ISISに故郷の村を奪われる前の自分を再発見する体験だったという。
ムラドにとって、自身の活動の中で最も辛いのは、誘拐されたヤジディ教徒の女性や子どもたちを救えないという無力感にさいなまれるときだ。彼女自身のめいやおい、義理の妹はいまだに解放されておらず、彼らを含めたヤジディ教徒の行方不明者はおよそ3000人を数える。幼くしてさらわれたおいからは電話がかかってくることがあり、希望を失わないようにと、できる限り励ましていたが、2017年以降、連絡は途絶えている。このおいの母親は今、ドイツに住んでいる。「会うと本当に打ちのめされます。息子を救い出せていないからです。目を見るだけで、苦しみが伝わってきます。それでも、彼女はとても立派な人で、これが私一人で解決できるような問題でないことは、わかってくれています」
追悼モニュメント完成式典のスピーチで見せた姿
昨年10月、ムラドはシンジャールにあるソーラーグ村に再び足を踏み入れた。ここに来た目的は、追悼モニュメントの開設に伴う式典に出席するためだった。ここにあるのはジェノサイドにより命を落とした、すべてのヤジディ教徒を追悼するモニュメントだ。そして、この場所自体がISISによって殺害された80人以上の成人女性の遺体が、個人を特定できない形で遺棄された場所(「集団埋葬地」と呼ばれる)だ。ムラドの母親、シャミもここに埋められた犠牲者の一人だ。ムラドが母親の姿を最後に見たのは、このソーラーグ村だった。その後、母娘はISISの戦闘員によって引き離され、シャミは引きまわされて死亡した。
式典で壇上に上がったムラドは、いつになく小さく見えた。感情が抑えられなくなってもおかしくない状況だが、彼女は落ち着いた力強い口調で、自身の生まれ故郷が味わわされた、身の毛のよだつような恐怖を語った。「私たちは思いました」と、ムラドは式典の来賓に語りかけた。暖かいそよかぜに髪がなびき、その声がほんの少しだけくぐもる。「きっと助けが来ると。しかし、この場所にたどり着いたとき、あらゆる希望はついえ、世界は良心を失いました」
追悼モニュメントの落成に立ち会ったことについて、「感情が込み上げましたが、よかったという思いもありました」と彼女は打ち明ける。「私たちのために女性たちが払った犠牲に報いるために、私にもできることがある、と感じたからです。あの母親たちすべてに」
これまでのスピーチのときと違い、ムラドはメイクをしてこの日に臨んだ。長い黒髪をカールさせ、蝶結びの髪飾りをつけた。それでも、壇上に立つその姿は、常に変わらないナディア、ISISが決して打ち砕くことのできないナディアそのものだった。
Profile
ナディア・ムラド
人権活動家。2016年に人身取引に関する国連親善大使に就任し、ヴァーツラフ・ハヴェル人権賞、サハロフ賞などを受賞。2018年にはムラドの活動を描いたドキュメンタリー映画『ナディアの誓い - OnHer Shoulders』が公開され、同年にノーベル平和賞を受賞した。自伝『THE LASTGIRL - イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』も刊行されている。
Photos: Courtesy of Nadia’s Initiative Text: Sirin Kale Translation: Tomoko Nagasawa Editor: Sakura Karugane