[目次]

▼ 頭部の凍結保存が一般的になりつつある

▼ クライオニクスの未来:エミール・ケンジオラ博士が語る脳保存の現状と展望

▼ 推奨されているのは、全身凍結保存。その理由は…

▼ もちろん、その費用は決して安くはない

▼ 解凍した脳を処置する方法として考えられる4つの説

 1.3Dプリント

 2.DNAを利用したクローンの開発

 3.ドナーボディへの移植

 4.人工の身体または仮想環境への移植


カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて、老化の生物学的メカニズムや長寿の要因に関する研究、特に超高齢者(非常に長寿の人々)の研究による功績から、“老化研究の世界的な権威”として知られる教授、スティーブン・コールズ氏

そんなコールズ氏は長年ロサンゼルスに居を構えていましたが、自身が膵臓(すいぞう)がんを患い、余命が残りわずかと察知したことで2014年にアリゾナ州スコッツデールに居を移します。そして、そこでホスピスでのケアを受けることを選びました。

彼がこの地を選んだ理由は、自身が死亡した際に脳を摘出して凍結保存処理を行うAlcor Life Extension Foundation(アルコー延命財団)の近くで待機するため。そしてコールズ氏は、2014年12月3日に心停止となった時点で法的な死亡宣告を受けます。

頭部の凍結保存が一般的になりつつある

当日、コールズ氏が死亡宣告を受けると、待機していた凍結保存チームがベッドサイドに駆けつけました。彼らは「Thumper(サンパー)」と呼ばれる心肺蘇生器(救急医療で使われる機械装置)を使用して呼吸と血液循環を復活させ、血流を維持するために抗凝固剤*⁴を注射しました。

これらはすべて、酸素欠乏状態が長く続いた際に起こり得る脳の損傷を防ぐための措置です。その後、遺体を超低温槽で冷却し、血液を臓器保存液に交換しました。

そうしてついに、コールズ氏の遺体は最終目的地のアルコー延命財団に到着します。アルコー延命財団は、クライオニクス*⁵(人体凍結保存=人間の遺体や脳を液体窒素で凍結し、将来それが技術的に可能になった時点で蘇生させる)の提供において、米国でも古い歴史を持っています。

アルコー延命財団では続いて外科医により、コールズ氏の頭部を第6頸椎(けいつい)から切り離されました。次にその切断された頭部に凍結保護剤(医療グレードの凍結防止剤)を注入したのち、法医学病理学者が頭蓋骨を開いて脳を摘出します。

コールズ氏の死亡宣告時間は午前10時頃でしたが、同日の夕方までには、彼の脳は摂氏マイナス140度に温度設定された「Dewar(デュワー)」と呼ばれる銀色の特殊な真空フラスコに収められることとなりました。

アルコー延命財団の患者保管室
Alcor Life Extension Foundation
アルコー延命財団の患者保管室には、全身保存患者4人と頭部のみ保存する患者5人ずつを収容するために特別に設計された 通称「ビッグフット デュワー」がいくつも並んでいます。このデュワーは電力を使用しない断熱設計となっており、少量の液体窒素が蒸発するのを補うために定期的に補充されます。

この時点でコールズ氏は、アルコー延命財団が迎えた131人目の患者*⁶となりました。脳のみの凍結保存(「ニューロプレザベーション」または「ニューロサスペンション」とも呼ばれる)を選択した患者として初めてのケースとなりました。

アルコー延命財団の発表では、コールズ氏は 「異例な脳のみを保存した患者」であり、「こうした処置の経験があまりなかったことから大きな問題が幾つか発生し、外科手術とかん流*⁷処置が進行する中で手順が見直しもあった」ということです。

クライオニクスの未来:エミール・ケンジオラ博士が語る脳保存の現状と展望

それから10年がたち、人体凍結保存を専門とするドイツのバイオテクノロジー企業「トゥモロー・バイオ」社の最高経営責任者(CEO)で医学博士のエミール・ケンジオラ氏*⁸によれば、「脳の摘出は大きな問題ではありません」とのこと。そして、クライオニクスに興味を持つ人々の間では、それがより一般的になっているそうです。

ケンジオラ氏は、「解剖学講座や研究機関では以前から脳の保存を行っているため、斬首という人間のタブーはあるものの、脳を保存するほうがより早くより安価」と言い、さらに「社会的な受容性は次第に高くなるでしょう」と指摘しています。

しかし、脳以外の部分はどうなるのでしょう。将来、凍結保存から蘇生したときに、足や腕が必要になるのではないでしょうか? その疑問について、ケンジオラ氏は『ポピュラー・メカニクス』誌に対して次のように語っています。

「脳は唯一無二のものであり、再現することはできません。が、身体の残りの部分は、すべて再現可能というのが基本的な論理です」とのこと。つまり、死が克服され、人間の脳を蘇生させる技術が確立される頃には、本物やバーチャルな身体も簡単につくれるようになるはず…という考えに基づいているというわけです。

このような考えは、現在は突飛なものに思えるかもしれません。ですが、「過去には、心臓移植(人から人への)がまるでSFの話のように考えられていた時代もあったのですから…」とケンジオラ氏は指摘します。

しかしながら、脳のみの凍結保存が人気が高まるにつれ、「凍結された脳は、将来どうなるのか?」という疑問は残るはずです…。

推奨されているのは全身凍結保存。その理由は…

ケンジオラ氏は、医学博士からクライオニクスの「伝道者」になったという人物です。彼は以前、がんの研究をしていました。そこで、研究の進歩のペースがあまりにも遅いことに失望したそうで、「25歳の患者に、不治のがんで死に至ることを宣告することがどうしても受け入れにくかった」と説明します。そして、「誰もが、自分の意思で生きられるだけ生きるべきだと思うのです…」と強く訴えます。

ここで留意すべき重要な点は、「一度死に至った人間の脳(あるいは全身)に関して、これまで蘇生した例はない」ということです。現在のところ、このクライオニクスの背後にある希望は、「いずれ非常に賢い人々によって、まだ発明されていない技術を使って死を克服する方法を見つけ出す」ということになります。そこにはいまだ、“仮定”の壁がいくつもあることも事実であることを受け入れるべきかもしれません。

治療不可能な病気にかかっている人、あるいは平均的な寿命を超えて生存期間を延ばしたい人はとにかく、自分自身を凍結保存するという希望の延命措置を行いことになります。そしていつの日か、賢く(そして、願わくば善良な)人々が蘇生してくれるのを待つばかり…ということになります。

また、もう一つ指摘しておくべきことは、その保存方法を一般的な「凍結」または「冷凍」と同様に思わないこと。これも重要です。技術的には、クライオニクスで保存された患者は凍っているわけではなく、“ガラス化されている”と言ったほうが適切かもしれません。

人体の約70パーセントが水分であることは、皆さんもご存じかと思います。なので、もし遺体を冷凍庫に入れたら、細胞内に氷の結晶が形成されるので身体はひどく損傷することになります。そうして遺体を解凍した際には、ひび割れた細胞壁のせいで身体はぐちゃぐちゃになってしまうのです。

アルコー延命財団の処置室
Alcor Life Extension Foundation
アリゾナ州スコッツデールにある、アルコー延命財団の処置室。ここで外科医は、患者の血管系に対する最初の処置を行います。その後、冷却中に氷の結晶が形成されるのを防ぐため、血液と凍結保護液とを入れ替えます。

そのためクライオニクスで保存するに際しては、厳密には凍らせるのではなく、“ガラス化”させ、血液を凍結保護剤と呼ばれる医療用の不凍液に交換します。さらにその後、身体がガラスのようになるまで徐々に冷却していくことになります。

もちろん、その費用は決して安くはない

言うまでもなく、こうした処置にかかる費用…遺体を搬送し、とてつもなく長い期間保存しておくためにかかる金額は決して安くはありません。トゥモロー・バイオ社の場合、全身凍結の料金は20万ユーロ(約3400万円)です。そのため、ケンジオラ氏は基本的に全身凍結保存をすすめてはいるものの、脳のみの凍結保存は7万5000ユーロ(約1300万円)と(比較すれば)割安なため、「この世での存在期間を延ばしたいと願う人々にとっては魅力的な選択肢」と謳(うた)われています。

ケンジオラ氏は、より多くの料金レベルで凍結保存が可能になることの必要性を強く望んでいます。そうして手頃な料金でのサービスが増えれば、恩恵を受けるのは永遠の生を願う人間だけではありません。クライオニクスの分野全体が、コストの低減から恩恵を受けることになるでしょう。

なぜなら、長期保存施設を維持し、死を克服する方法を解明するには運転資金と研究資金の注入が必須となります。理屈のうえでは、より多くのタンクに多くの遺体(あるいは脳)が保存されれば、科学界によるこれらの取り組みへの投資が増えることにつながるからです。

現在、アルコー延命財団の会員は、全身凍結保存と頭部のみの保存を選択する人々がほぼ半々に分かれています。頭部のみのほうが簡単で低費用ですが、それでも、全身凍結保存を検討するにあたって説得力のある理由がいくつかあります。

“自分の意識や記憶にとって、必要不可欠な部分が保存されないことがないように、私は全身保存を選びました”

一つの理由は、「蘇生したときに、以前の自分と同じ感覚を得られるために必要なものが脳に全て閉じ込められているとは、誰も確認しようがない」ということになります。遠い先の未来、中枢神経系や脊椎、内分泌系、腸内細菌などがない状態で目覚めたとき、私たちは自分自身を認識できると皆さんは思いますか?

トゥモロー・バイオ社のメンバーであるベッカ・ジーグラー氏*⁹(23歳)が、全身保存を選んだのはこうした懸念からのようです。同氏は、次のように語っています。

「私自身の理解になりますが、『私を、“私たらしめるもの”は全て脳内にある』と認識しています。ですが、意識や記憶がどのように脳と身体全体で相互作用しているか? については、いまだ解明されていない点があります。したがって、意識や記憶に必要不可欠な部分が保存されていないことがないように、全身の保存を選びました」

ケンジオラ氏の会社では、“慎重に慎重を期すため”入会希望者の予算内に収まらない場合を除き、通常は全身保存をおすすめているそうです。何百年も先の未来に、保存状態から目覚めたとしても、自分のアイデンティティーの半分しかない状態だったら実に残念なことでしょう。「転ばぬ先の杖(つえ)として…」と、ケンジオラ氏は言います。

解凍した脳を処置する方法として考えられる四つの説

ケンジオラ氏によれば、未来の世代が解凍された人間の脳をどのように処置するか? という点については、現在四つの説があるということです。ただし同博士は、「どの説も推測の域を出るものではありませんが、可能性はある」と念を押しています。

1.3Dプリント

そこでまず、恐らく最も現実的とされるのが、既存の技術に基づく3Dプリントです。ケンジオラ氏は、「他の全ての臓器を3Dプリントで作成し、それに脳を接続することができるはずです。この技術は現状、まだそこまで至っていません。ですがそれほど遠い話ではないでしょう」と述べています。

実際、臓器の3Dバイオプリンティング(ヒトの細胞を使って3次元組織をつくること*¹⁰)は、臓器移植を必要とする何十万人もの人々の要望を背景に、急速に発展している分野です。ハーバード大学ヴィース研究所(Wyss Institute for Biologically Inspired Engineering)の教授ジェニファー・ルイス*¹¹氏は、「この技術は10年以内に実現する」と予測*¹²しています。

2.DNAを利用したクローンの開発

もう一つの可能性として、脳組織から採取したDNAを使ったクローン開発が考えられます。この場合はもちろん、古い脳を移植できるよう、脳のないクローンをつくる必要があります。1996年に世界初のクローン羊「ドリー」が誕生して以来、科学者たちは22種の動物や人間の胚のクローンを開発してきました*¹³。次は、「脳のない身体」ということになるのでしょうか…。

科学者の中には、「クローンは不要で、蘇生した脳をドナーの身体に移植できる」と考えている専門家も存在します。イタリア人神経外科医セルジオ・カナベーロ*¹⁴氏は、最近発表した論文*¹⁵でその方法を明らかにしました。ただし、その学術誌の編集長がカナべーロ氏であることは留意したいたほうがいいでしょう。

同氏の主張は 物議を醸していますが、論文では理論的に「脳神経と血管系をどのように脳に再接続できるか?」が詳述されています。ただ同氏は、遺体での予行演習や脳死状態の臓器ドナーでのテスト、新たな手術器具の開発など、まだクリアすべき事柄が多いことも認めています。カナベーロ氏はいわく、「十分な資金があれば、長年の夢がついに実現するかもしれません」とのこと。

3.ドナーボディへの移植

蘇生した脳が再び自己を取り戻す可能性のある三つ目の方法は、脳を人工的な身体に装着することです。「もっと簡単に言えば、ロボットの身体です」と、ケンジオラ氏は説明しています。イーロン・マスク氏はそれが可能だと考えており*¹⁶、プリンストン大学の神経科学教授マイケル・グラツィアーノ*¹⁷氏もそれに同様の考えです。

グラツィアーノ氏は「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙への寄稿*¹⁸で、「ロボットの身体に心を搭載するのに必要なのは、たった二つの技術です。それは人工の脳と、“(脳の)ニューロン同士がどのようにつながっているかを正確に測定し、そのパターンを人工脳にコピーできる”能力をもつスキャン装置」とつづっています。

4.人工の身体または仮想環境への移植

そしてケンジオラ氏は、「脳をコンピュータに接続できれば、脳の機能を再構築することができるはずです。そしてすべての感覚の入出力は全てバーチャル化されるでしょう」と説明しています。さらに、「ある程度抽象的なレベルでは、本物とバーチャルの違いはあまりないのかもしれません」と言いますが、これには一理あります。科学者の中には、「私たちはシミュレーションの世界で生きている」とすでに信じている人もいますので…。

「凍結保存された脳を未来の人類がどう処置するか? についてはともかく、それを解明するには長い時間がかかる」と、ケンジオラ氏は考えています。

「医学的にも技術的にも、私たちはまだそこまで至っておらず、何十年たってもまだ到達できないかもしれません。かなりの時間がかかることが予想され、実際のところ成功しないかもしれませんし…」とも言います。

そんな中でも、クライオニクスに希望を持ち続ける理由があるとすれば…。ケンジオラ氏はこう嘆いています。

「もう一つの選択肢が、それほど素晴らしいものではないからです…。その他の選択肢とは、死だからです」

[脚注]

*1:Dr. L.Stephen Coles(1941年1月19日-2014年12月3日) Gerontology Research Groupの共同創設者兼エグゼクティブディレクターであり、超長寿と老化に関する研究を行ってきた。Los Angeles Timesに掲載された訃報を参照

*2:アルコー延命財団のWebサイトに掲載されている「Dr Stephen Coles Becomes Alcor’s 131st Patient」を参照

*3:Thumper 心肺蘇生器(救急医療で使われる機械装置)がその名前を得た理由については、その動作音に由来する。この機械は心肺蘇生(CPR)を自動的に行い、胸部をリズミカルに圧迫することで心臓の血液循環を再開させる装置。この圧迫動作が繰り返される際の音が「ドンドン」と聞こえるため、「ゴツン」「ドシン」という音を意味する「Thump」からこの名前がつけられた

*4:血液凝固を阻害する薬物。 血液を固まらせないようにする医薬品のうち、凝固系に対して主に作用するもの。日本血液製剤協会サイト内の「抗凝固薬の種類と特徴」を参照

*5:Cryonics 一般社団法人未来技術推進協会サイト内の当該ページを参照

*6:Patient アルコー財団では、凍結保存されている個体(全身または脳)を「患者」と呼ぶ

*7:Perfusion 体内の循環系やリンパ系を通じて、液体が臓器や組織に流れることを指す。主に、組織の毛細血管床への血液供給のこと

*8:Emil Kendziorra Tomorrow Bio(トゥモロー・バイオ)社公式サイトに掲載されている当該ぺージを参照

*9:Rebecca Ziegler Tomorrow Bio(トゥモロー・バイオ)社公式サイトに掲載されている当該ぺージを参照

*10:アメリカ国立医学図書館のデータベース「PubMed」で公開されている、「An Introduction to 3D Bioprinting: Possibilities, Challenges and Future Aspects」を参照

*11:Jennifer Lewis ハーバード大学ヴィース研究所サイト内の当該ページを参照。

*12:CNNの公式サイトに掲載されている「When we’ll be able to 3D-print organs and who will be able to afford them」を参照

*13:自然科学や心理学、医学、工学に関するオープンアクセスジャーナル「Scientific Reports」に掲載されている「Insights from one thousand cloned dogs」を参照

*14:Sergio Canavero

*15:「PubMed」で公開されている「Whole brain transplantation in man: Technically feasible」を参照

*16:お金に関する情報サイト「CNBC Make It」に掲載されている「Elon Musk says humans could eventually download their brains into robots — and Grimes thinks Jeff Bezos would do it」を参照

*17:Michael S.A. Graziano

*18:「ウォール・ストリート・ジャーナル」の公式サイトに掲載されている「Will Your Uploaded Mind Still Be You?」を参照

Translation / Keiko Tanaka
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です