ゲーム業界のアイデンティティ政治闘争

ゲームとポリティカル・コレクトネスは、かつてなく緊密な関係にある。しかし、コンテンツ製作者たちが自分たちの考える“正しさ”を追い求めるあまり、逆に不寛容や分断を生むケースも見られているのが現状だ。コンテンツがもたらす分断と終わりのない論争に終止符を打つために、いま考えるべきこと。
ゲーム業界のアイデンティティ政治闘争
ILLUSTRATION BY RIO ARAI

2020年12月10日に開催された「The Game Awards」は世界の40を超えるネットワークサーヴィスで配信され、8,200万人という視聴者数を記録した。同賞はヴィデオゲームおよびeスポーツに関連する計30部門からなり、諮問委員会が選定したゲーム関連メディアの投票によって各部門の受賞作が決定する。ヴィデオゲームを表彰する賞は数多く存在するが、そのなかでも影響力が高い賞のひとつであり、「ゲーム業界のアカデミー賞」とも称される。

視聴者数を押し上げた要因のひとつがストリーマーによる実況配信だ。主催者が制作する映像を各ネットワークで配信するのみならず、その動画をストリーマーたちが実況をのせてミラー配信することを推奨し、9,000を超える配信者が参加した。xQc、Ludwig、ジョー・ヴァルガスといった有名ストリーマーたちが実況配信をおこなった。

新しい時代の式典だ。キアヌ・リーヴスやトム・ホランド、ガル・ガドットといったハリウッドの有名人たちが登場し、その様子を動画配信サーヴィス発の有名人たちが配信する。こうした動画の一部を切り抜いた動画がさらに拡散し、インターネット空間の話題を席巻した。

最後の部門である「ゲーム・オブ・ザ・イヤー」を発表したのは映画監督のクリストファー・ノーランである。候補タイトルの映像が次々と流れ、その映像にあわせてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団がタイトルで使用される楽曲をメドレー形式で演奏する。最高の演出が終わり、ノーランにカメラがうつる。

「ゲーム・オブ・ザ・イヤーは……『The Last of Us Part II』」

発表と共にストリーマーたちは諦め、嘲笑、怒りといった負の感情を爆発させた。ストリーマーたちのチャンネルのコメント欄も炎上した。

「わたし、見えないポップコーンを食べるふりしながらコメントを読んどくね」

ストリーマーのSuzi Hunterは笑いながら、八百長、Fワード、Lawl(笑の意味)といったコメントを眺めた。笑うしかない、というやつだ。

ゲームメディアは「The Last of Us Part II」をリリースから一貫して絶賛してきた。「ゲーム・オブ・ザ・イヤー」の受賞も順当だった。しかし、ストリーマーや動画の視聴者たちはまったく逆の評価を下し、攻撃してきたタイトルでもあったのだ。こうした反応はなぜ生まれるのだろうか?

コンテンツが招く分断

The Last of Us Part IIは典型的なメディアとユーザーの“分断”を示すコンテンツのひとつだ。分断とはつまり、「Rotten Tomatoes」や「Metacritic」といった批評サイトにおいて、メディア(で執筆している批評家)による点数とユーザーによる点数が乖離していることである。21年10月時点で、The Last of Us Part IIのMetacriticのページを見ると、Metascore(メディアによる点数の平均)は93点(100点満点中)、User Score(ユーザーによる点数の平均)は5.7(10点満点中)だ。メディアは大絶賛したが、ユーザーが辛口に批評したというタイトルである。

これに対して1作目である「The Last of Us」はユーザーに愛されたタイトルだった。ソニー・インタラクティブエンタテインメントの子会社であるノーティードッグが開発したシングルプレイのアクションアドヴェンチャーゲームで、ゲーム機の性能を最大限に活用したアクションの演出は比類のない出来だ。主人公ジョエルと共に旅をするエリーが次第に心を通わせ、疑似的な親子関係を築いていくストーリーに多くのユーザーは心を打たれた。

そして2作目であるThe Last of Us Part IIは……どこのボタンをかけ違ったのだろう。強いて言うならばストーリーだ。愛されたフランチャイズの主人公は、急に男性から女性にすげ替えられた。“女性が活躍する社会”という考え方を物語で表現するために、すでに人気のあるフランチャイズの男性主人公を女性に変えて人気に便乗する手法だとユーザーに見なされた。ユーザーに嫌われる理由は、それだけで十分だったのだ。

「ソーシャル・ジャスティス・ウォーリアー(SJW、社会的正義を声高に謳う人)」、「“ウォーク” (ウォークは、社会的正義に目覚めた人、考え方を指す)」、「アイデンティティ政治(社会的正義のための活動)」。これらはすべて社会的正義や多様性といった考え方を最優先で考える人々を揶揄する表現である。エリーと、作品に登場するアビーというもうひとりの女性キャラクターが織りなすストーリーは、“ウォーク”な思想の「押し売り」というわけだ。ユーザーが愛したフランチャイズは“SJW”なクリエイターたちによって破壊された、というのが低評価をつけている一定数のユーザーたちの意見である。

xQcやLudwigといった有名なストリーマーたちが自身のチャンネルで政治的問題に対して発言することはまれである。むしろ政治的な難しいテーマとは疎遠で、ゲーム好きな若者たちを象徴するような存在だ。そうした若者たちによる「“ウォーク”なタイトルだけが評価されるのにはうんざり」という表情が、The Game Awardsの最後を飾るゲーム・オブ・ザ・イヤーの発表時に流れたのである。

ポリティカル・コレクトネスとゲーム業界

ゲーム企業は多様性や持続可能な社会といった問題について積極的な姿勢を表明し、それを証明するようにSNSで発言し、例えば有色人種、多様なセクシュアリティをもったキャラクターを登場させるなどしてポリティカル・コレクトネスを意識したタイトルをつくり続けている。

2020年に全米で「Black Lives Matter(BLM)」運動が始まると、ゲーム企業はいちはやく賛同の意を示した。自社のTwitterアカウントに黒塗りの画像を投稿し、差別主義と闘うために連帯するという意思を強調した。差別主義を思わせる発言をしたプロゲーマーやストリーマーたちには、自社のコンテンツを許諾しない/使用させないという処置をとった。

ゲームの内容も多様性に配慮されたものが増えている。「バトルフィールドV」は第二次世界大戦を舞台に女性兵士を登場させた。「オーバーウォッチ」は複数のLGBTQ+のヒーローを登場させた。「フォートナイト」は8月28日のワシントン大行進の日に合わせてニュース誌『TIME』とコラボレーションし、公民権運動を紹介する博物館をゲーム内に設置した。

ゲーム業界は、自分たちの影響力を駆使して社会正義を競うように広めるという「アイデンティティ政治闘争」の最前線に立っている。自分たちがつくるコンテンツを熱心にプレイし、ファンアートや動画コンテンツを生み出す若いユーザーたちが世界中に存在する。ゆえに、影響力を駆使して新しい世代に新しい考え方を広めるのは、ゲーム企業が担う役割のひとつだ。

ゲーム企業がポリティカル・コレクトネスの旗を掲げ、大手メディアがそういった企業の姿勢やタイトルの思想性を絶賛する。この循環が業界全体をポリティカル・コレクトネスの色に染めていく。

しかし、ポリティカル・コレクトネス=政治的な“正しさ”を追い求めるあまり、自分たちの価値に合わないいかなることに対しても不寛容かつ攻撃的になるというのが、昨今のポリティカル・コレクトネスの空気がはらむ危うさでもある。

行き過ぎた正しさ

ゲーム開発会社のRespawn Entertainmentが制作した「Star Wars ジェダイ:フォールン・オーダー」の主人公をキャメロン・モナハンという白人男性が演じた。これに対し、ゲームメディアの「PC Gamer」は同作を批評する記事を投稿し「『スター・ウォーズ』シリーズにはこれだけ多くの種族がいるにもかかわらず、なぜ白人男性が主人公なのか」と問題を提起した。

モナハンが演じたキャラクターはゲームオリジナルのキャラクターであり、原作では別の種族だったキャラクターがホワイトウォッシュ(白人化)されたわけではない。それでも多様性を重んじる現代の価値観に照らし合わせると、白人男性は大型フランチャイズのゲームの主人公に相応しくないということなのだろうか。

Veritable Joy Studiosが開発した「Validate」は、有色人種かつLGBTQ+のキャラクターが登場する恋愛ゲームだ。制作チームは資金を得るために「Kickstarter」でキャンペーンを始め、獲得した資金毎にコンテンツを追加することを約束した。32,000ドル(約355万円)に到達した際には、このようなコンテンツを追加することを約束している。

「白人キャラクターを追加する(困り顔)」

これは差別主義的発言ではないのだろうか?

多様性を尊重すべきという空気が過剰になり、白人、男性、ヘテロセクシュアルといった背景をもった人々に対する過激な発言が横行する。“正しさ”を実現するために、古い価値観でつくられたコンテンツを排除・改変し、“多様性”をテーマにしたコンテンツを大量に制作する。

そんな“窮屈な正しさ”に対して違和感をもったユーザーが声を上げている。SNSやYouTubeといった個人が運営できるメディアを使って“ウォーク”なタイトルが発表され“SJW”たちがそれを絶賛するたびに、それをくさす言論を展開するのだ。

アイデンティティ政治のメッセージを伝えることを最優先にしたようにもとれるゲームは、面白いのか。愛されたフランチャイズのキャラクターの性別を変え、人種を変え、「多様であることは素晴らしい」という凝り固まったメッセージに収斂されるストーリーは人々の心を動かすのか。論客たちの主張がどれだけ支持されているかは、動画の再生数やSNSの“いいね”の数を見ればわかる。

オルトライトや陰謀論といった極端な思想ではなく、“マイルドな右寄り”の言論、つまりSJWや“ウォーク”といった一般的にリベラルとされる考え方に反対する意見にユーザーたちは支持を表明している。その結果として、“ウォーク”なタイトルのユーザーレヴューは低くなり(大人数で否定的なコメントを書き込む「レヴューボム」の是非について議論はあるにせよ)、ストリーマーたちが不満げな顔でThe Game Awardsを実況するという状況につながっているのだ。

アイデンティティ政治を目的にしない

ゲーム企業とメディアが旗を振るアイデンティティ政治闘争がもたらしたのは“分断”だった。この現象にはふたつの側面がある。さほど目新しくもないゲームがメッセージの思想だけでポジティヴに評価されるケース、その逆に革新的で素晴らしいデザインのゲームがメッセージの思想(または思想の欠如)によってネガティヴに評価されるケースだ。

どちらも悲劇である。ストーリーのメッセージやキャラクターの背景はゲームの面白さの要素のひとつではあるが、「それだけ」が重要というわけではない。アクション、パズル、RPG、レースといった幅広いジャンルが存在することがゲームの奥深さであるはずなのに、評価する側がひとつの軸にとらわれ過ぎている。

「あつまれ どうぶつの森」は2020年を象徴するようなゲームだった。コロナ禍に世界中の人がステイホームを余儀なくされ、人と人との物理的な交流が失われるなかで、どうぶつたちが暮らすヴァーチャルな島に人々は魅せられた。

あつまれ どうぶつの森は声高にアイデンティティ政治をうたうタイトルではないが、現代的な考え方に基づいてつくられた機能が多くある。プレイヤーの肌の色を変えられる、性別に関係なく好きな服装を設定できる、車いすに乗れる、といったものだ。これらの機能が“当たり前に”実装されている。

また、「Apex Legends」には多様な人種、ジェンダー、身体的特徴をもったキャラクターが登場し、それぞれをキャラクターと同じ特徴(人種・肌の色)をもった声優たちが演じている。プレイヤーは多様な背景をもっているから特定のキャラクターを使用しているわけではなく、単純に使い勝手がよく、自分のプレイスタイルに合っているからという理由でキャラクターを使用しているのだ。しかし、長くプレイするうちにキャラクターを好きになり、キャラクターがもつ背景に思いをはせることもあるだろう。

メッセージの思想は優れたゲームデザインの必要条件でも十分条件でもない。それはゲームに興味をもってもらう、プレイし続けてもらうために組み込まれる要素のひとつにすぎない。ゲームが面白い、キャラクターが魅力的だとプレイヤーに判断されてこそ、宿る思想が受け入れられ、新しい時代の考え方は広まっていく。

プレイヤーたちの物事の見方を変えたいとクリエイターが望むのであれば、コンテンツの力を信じ、思想やメッセージを素材に仕立て直し、プレイヤーたちが夢中になるゲームをつくりあげることだ。コンテンツがもたらす“分断”と終わりのないネット空間の論争に終止符を打つことができるのは、面白いゲームだけなのである。

TEXT BY KAZUMA TADAKI ILLUSTRATIONS BY RIO ARAI