ミシンと新型クリスタルLEDディスプレイ──ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションが見据える未来のスキル

誰もが独学でファッションを学べる時代、大学の存在理由は何か? ロンドン芸術大学(UAL)傘下のロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの答えは、めまぐるしく変わる最新技術と学生やファッション業界の間のギャップを埋めるという使命だった。
ミシンと新型クリスタルLEDディスプレイ──ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションが見据える未来のスキル
PHOTOGRAPH: HARRY MITCHELL

雑誌『WIRED』日本版 VOL.53のテーマは「空間コンピューティング」。演劇から建築やファッションの教育、VFXまで、その道の名門と名高いプレイヤーが物理とデジタルの融合に乗り出す英国を取材した。ともすると伝統が足かせになるこの技術分野に彼/彼女らはどう飛び込み、可能性を探究しているのか?

名門劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)とアカデミー賞視覚効果部門の常連、DNEGに続き訪れたのは、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションだ。

ドアを開けると、そこには煌々と光る巨大なスクリーンがあった。部屋の壁一面を覆う縦4m、横19.5mのそれは、超高精細、低反射な新型クリスタルLEDディスプレイ。映画などの撮影でバーチャルプロダクションに使うものだ。でも、ここは映画スタジオではない。ファッションを学ぶ専門学校の一室である。

ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション(LCF)は、芸術系の大学としては欧州最大規模を誇る名門、ロンドン芸術大学(UAL)傘下のカレッジのひとつ。1906年創設で、2023年秋にイーストロンドンに新たなキャンパスを設けた。構内にはミシンやトルソー、作業台と一緒に、バーチャルプロダクションやフォトグラメトリー用の3Dスキャンスタジオ、最新のヘッドセットなど、ファッションの学校では見慣れない機材や設備が置かれている。エントランスを抜けて2階に上がると目に入るのは、モーションキャプチャーやVR、デジタルプロダクションのワークショップに参加する学生たちの姿だ。

「服づくりや写真、ビジネスなど、ファッションのさまざまな専門領域を志す学生たちの周りに、自然と最新のテクノロジーがある構造になっています。強制するのではなく、試したいときにすぐに探究できる環境を整えているんです」と語るのは、同学の研究開発部門ファッション・イノべーション・エージェンシー(FIA)を率いるマシュー・ドリンクウォーターだ。「テクノロジーが学生の作品をかたちづくるのではなく、あくまで学生の作品づくりの一部にテクノロジーが入っているという点がとても重要です」

LCFの一室に導入された、ソニーの新型クリスタルLEDディスプレイ。背景映像と実物の被写体を同時に撮影するバーチャルプロダクションと呼ばれる映像制作の手法に使われる。「映画の撮影に使えるクオリティのディスプレイです」と、テクニカルリソース担当アソシエイトディレクターのマーカス・サンダースは話す。

PHOTOGRAPH: HARRY MITCHELL

感情第一の産業だからこそ

FIAは、卒業したての新進デザイナーのビジネスを多様化する方法を探る目的で13年に設立された。「多くの若手デザイナーは自分のブランドを立ち上げ、ファッションウィークやランウェイで作品を発表し、百貨店に卸売りする算段でビジネスを始めます。しかし、このモデルで長期的にビジネスを継続できるデザイナーは一握りです」。テクノロジーでファッション業界のビジネスを多角化できないか──。そんな問いが、FIAの始まりだった。

始めのうちは当時注目されていたウェアラブルテクノロジーを主に研究していたが、15年ごろからは3Dの領域に移行し始めた。「ビジュアル第一の業界では、服のつくり方から見せ方、消費者とのコミュニケーションまで、2Dから3Dへの移行があらゆる面で影響を与えるからです」と、ドリンクウォーターは振り返る。「この業界は常に感情的な反応の上に成り立ってきました。毎日の生活に困らないのにモノを買い足す唯一の理由は、『欲しい』という感情でしかありません。そうした感情やつながりを、やがてデジタルで大規模に生み出せるようになるでしょう」

現在、FIAが探究する領域は主に3つ。テクノロジーが1) デザイナーのコレクションの制作プロセスをどう変えるか。2)ランウェイやショーケースなど、コレクションの見せ方をどう変えるか。3)Eコマースなど、デザイナーと小売業界、そして消費者との関係をどう変えるかだ。

生成AIとVFXを使ったランウェイの制作から、3DのECサイトの研究、デジタルヒューマンスタイリストの開発、手軽なモーションキャプチャーの研究など、プロジェクトで扱う技術領域は広い。18年のロンドン・ファッション・ウィークに際しては、ジョージ・ルーカス率いるインダストリアル・ライト&マジック(ILM)と共同でデジタルと物理世界を融合したファッションショーも開催した。テック企業だけでなく、デジタル技術に保守的なファッションブランドとも積極的に提携している。

わたしたちは技術屋ではない

大学として活動するのは、テクノロジーに対して中立の立場を取れるからだ。「最新技術について話す人は多いのに、自らその技術を使ったことがある人がいかに少ないかに驚かされます」と、ドリンクウォーターは話す。実際、テクノロジーは自分で使ってみないとわからないことも多い。

「以前、ファッションブランドのエグゼクティブたちにヘッドマウントディスプレイ(HMD)を試してもらったことがあります。その際には、その重さや閉塞感に拒否反応を示す人も多くいました。学生もまた、閉鎖的なVRよりも周りが見えるMRの体験を好む傾向にあることがわかっています」。FIAは現在、そうしたHMDへの抵抗感をどう減らすかを研究するプロジェクトを実施している。「体験やレンダリングされる映像の質を大幅に向上すれば、そうした拒否反応は減るのか。それとも、そもそも問題は別にあるのか。それを模索しています」

加えて、何が「よいコンテンツ」になるのかも考えなければならないとドリンクウォーターは語る。「バーチャルにファッションを体験できるというアイデアには心躍らされます。けれども、それが本当に消費者の望む体験なのかはまだわかっていません。現実世界をそのままバーチャルで再現するだけでいいのか。どれも、試してみなければわからない問題です」

最新技術には常に誇大宣伝やハイプがつきまとう。それ故に、実際に技術を使い、何がうまくいったか、何がうまくいかなかったか、そしてその価値や意義を語ることがFIAの役割だとドリンクウォーターは考えている。「技術を売るのではありません。専門的知見を共有するのです」

マシュー・ドリンクウォーター|MATTHEW DRINKWATER
ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの研究開発部門、ファッション・イノべーション・エージェンシー(FIA)のヘッド。イマーシブ技術から生成AIまで、企業やファッションブランドとの共同プロジェクトに多く携わる。


PHOTOGRAPH: HARRY MITCHELL

カリキュラムでは間に合わない

ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションの新キャンパスには、FIAとのコラボレーションのために多くの企業やブランドが足を運ぶことになる。そのなかで、テック企業は作品の制作に取り組む未来のデザイナーの姿を、そしてファッションブランドは最新機器とそれを学ぶ学生たちの姿を目にするだろう。そのリアルな姿が、ふたつの産業の距離を縮める一助になるかもしれない。

そしてもちろん、そうしたプロジェクトを通じて得た知見を学生たちに提供することも、FIAのミッションだ。

「学生がカレッジに通うのはたった4年ほど。だからこそ、最新技術をすぐに手に取り、学べる環境が必要です」そう語るのは、LCFのデジタル・ラーニング・ラボ(DLL)で3Dおよびサイエンス担当テクニカルマネジャーを務めるピーター・ヒルだ。FIAがR&D部門であるのに対し、DLLはその知見を学生に伝える機関。参加自由のワークショップや1対1のチューター制度を通じ、学生に最新機器の使い方やプロジェクトへのアドバイスを提供している。

「固定のカリキュラムはありません。技術が急速に進化するなか、毎年カリキュラムを相談してつくっていては変化に対応しきれないからです」

ピーター・ヒル|PETER HILL
ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションのデジタル・ラーニング・ラボ(DLL)で3Dおよびサイエンス担当テクニカルマネジャーを務める傍ら、自らも同カレッジのワークショップやサマースクールで教鞭を執る。


PHOTOGRAPH: HARRY MITCHELL

学生が未来のギャップを埋める

そもそもファッションの大学が最新技術に投資したきっかけは、独学でファッションを学べる時代におけるカレッジの存在意義を見つめ直したことだ。その答えは、学生に実際に最新の技術に触れながら、将来のためのスキルセットを身につけてもらうことだった。

「いまここで研究されている技術が実用化されるのは数年先。学生たちが卒業するのもそのころです。いまはまだ存在しない職業に就くことも考えられますし、学生自身が技術を実装する役割を担う可能性も大いにあります」と、ドリンクウォーターは語る。「学生たちも、始めは服飾の技術や伝統的なファッション業界を思い描いて入学するかもしれません。でも、キャンパスに足を運ぶと、最新の技術を扱う同期や先輩を目にすることになる。そうするうちに『これは自分に関係あるのかもしれない』と思い始めるのです」

それは学生本人だけでなく、業界全体への貢献を思ってのことでもある。卒業生たちを通じて、最新技術に保守的なファッション業界とテクノロジーを近づけようとしているのだ。「テクノロジーに精通した卒業生たちが業界に入ることで、伝統産業に見られるギャップがどんどん小さくなるでしょう。それがさらに、ファッションとテクノロジーを前に進めるのです」

※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より加筆転載。


雑誌『WIRED』日本版 VOL.53
「Spatial × Computing」

実空間とデジタル情報をシームレスに統合することで、情報をインタラクティブに制御できる「体験空間」を生み出す技術。または、あらゆるクリエイティビティに2次元(2D)から3次元(3D)へのパラダイムシフトを要請するトリガー。あるいは、ヒトと空間の間に“コンピューター”が介在することによって拡がる、すべての可能性──。それが『WIRED』日本版が考える「空間コンピューティング」の“フレーム”。情報や体験が「スクリーン(2D)」から「空間(3D)」へと拡がることで(つまり「新しいメディアの発生」によって)、個人や社会は、今後、いかなる変容と向き合うことになるのか。その可能性を、総力を挙げて探る!詳細はこちら


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