ワンルーム・ワンルーム:柞刈湯葉、書き下ろしSF短編

過去の体験がトラウマとなり、人を自室に招くことが生理的に受け入れられなくなった「僕」。しかし、眼鏡型ディスプレイのバッテリー稼働時間が延び、使えるアプリも増え、デザインもこなれてきたあるとき、「僕」は、とある実験に取り組み始めた──。偉才のSF作家・柞刈湯葉が、「空間コンピューティング」というテーマに対し、珍しく恋愛をモチーフにすることで来たるべきライフスタイルを描き出す!
ワンルーム・ワンルーム:柞刈湯葉、書き下ろしSF短編

※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より。詳細はこちら

どうして結婚したのか、と昔の知り合い全員に聞かれる。誇張ではなく全員に聞かれる。「よっ久しぶり。ビールでいいか?」の次くらいに聞かれる。本当に聞かれる。

確かに僕は人生のある時期に独身主義を名乗っていたし、その経緯もおおむね知人友人に知れ渡っており、友達の友達にさえ「そういうやつ」として知られていた。そいつが結婚したとあれば重大な掌返しであり、人類社会に対する裏切り行為である、とさえ言われた。言いすぎだと思うが実際に言われた。

なんにせよ考えを変えたことは事実なので、それなりの理由とそれなりの説明があってしかるべき、という理屈は通らなくもない。とはいえ面倒ではあるので、ひとことでまとめるようにしている。つまるところ、

「この人となら、同じ空間を共有できると思ったから」

ということになる。それで納得する人もいるが、さらなる説明を求める人もいる。そうなるとかなり長くなる。

順番通りに話そう。今を去ること15年前、僕がただの映画好きの大学生だった頃からだ。親の金で借りているワンルームで、親に買ってもらったラップトップで、13インチの画面で映画ばかり見て過ごしていた。大学は経営学部に所属していたが、経営について何かを学んだ記憶はない。大学の経営には貢献したと思う。

どうして映画ばかり見ているのか、と友達からよく聞かれた。僕にはその意味がわからなかった。映画以外に見るべきものが、この世にそれほど多くあるとは思えなかった。だってそうじゃないか。映画は見て楽しむために作られたものだ。現実はそうではない。それなら映画を見ているほうがいいだろう。

いっそ僕の人生もまるごと「見る用」のコンテンツだったらいいのに、といつも思っていた。人間はかつて「住む用」の場所でない自然の森とか洞穴に住んで、冷暖房も水洗トイレもなかった。それが文明が進歩して「住む用」の家ができ、快適に暮らせるようになった。だから人生もそろそろ「見る用」になってくれてもいいじゃないか、なんてことをよく考えた。『トゥルーマン・ショー』みたいに。いや、あれは「見せる用」なんだけど。

大学まわりの映画好きの集まりみたいな場所にちょいちょい顔を出し、それによる出会いもいくつかあった。はじめての彼女は米国のSF映画が好きな人だった。彼女に興味を持ったきっかけは確か、僕が「それNetflixで配信されてるんだっけ?」と聞いて、彼女が「ブルーレイ持ってるよ」と答えたことだ。『マトリックス』で目覚める前のネオくらい無垢だった僕は、今どきブルーレイを持ってる人は良い人に違いない、と思っていた。

2人とも学生で、親元から離れてワンルームで暮らしていた。半年ほど付き合って、彼女を家に呼び、2人で13インチのラップトップ画面を見続けた後、

「もっと大きな画面で見たいよね」

と僕は言い、そのための部屋を借りて引っ越した。カーテンレールに遮光性のロールスクリーンを吊るし、4K出力対応のプロジェクターを映し、相応の音響設備も揃え、ちょうどいい距離に2人がけのソファを買った。僕が左に座り、彼女が右に座った。

家賃は等分すれば前のワンルームと同じ額だった。好きな人と好きな映画を好きなだけ見て過ごせる。すべてが順調に思えた。当時の僕が何を見落としていたかといえば、人生は映画だけでなく生活もある、ということだった。

つまり、僕たちは映画の合間に飯を食べなければならず、すると飯を作らねばならず、皿も洗わねば、トイレにも行かねば、風呂に行かねば、ゴミを出さねば、ということだった。映画ではあまり描かれない人生の部分だ。

ほころびの始まりは皿の置き方だった。食事の後に僕が洗った皿を片付けると、彼女は「皿の置き場所が間違ってる」と言った。「間違ってる」という言葉が印象的だった。確かに僕と彼女では皿の置く場所が違うが、その場合は彼女の置き方が「正解」になるのだ。だとすれば僕が触れるべきではないな、と思い、以後皿になるべく触れないようにした。

翌日以来、僕たちがスクリーンの映像を見ている間、ずっと汚れた皿がシンクに溜まるようになった。画面の中で何が起きていても、ずっと頭の片隅に「皿」という存在が意識されるようになった。スタッフロールが流れ始めたあたりで、業を煮やした彼女が洗い始める、というのが普段の流れになった。

ほころびの始まりから後の展開は実に早かった。牛乳の用途とか、タオルのたたみ方とか、シャンプーの置き方とか、最後のほうはドアの閉め方で揉めた。暮らし始めて半年後、長引いたバイト先から家に帰ると、彼女の私物が一切合切消えていた。2人で金を出し合ったプロジェクターも消えていた。どちらのものとも決めずに集めたブルーレイとDVDも消えていた。カーテンレールに吊るしたロールスクリーンも消えていた。

法律で言ったらおそらく彼女が悪いけれど、善悪の話はどうでもよかった。がらんどうの部屋を見て僕の心に浮かんだのは怒りでも悲しみでもなく、

「おいおい監督、この後どうするつもりだ? ちゃんと話をたためるのか」

という薄ら笑いだった。飯を咀嚼する気さえ起きず、しばらくコンビニのゼリーを飲んで過ごした。それもかなりの頻度で戻した。このまま悲劇的な衰弱死を遂げたら、僕の伝記映画は誰が主演になるのだろう、といったことを考えた。

ところが人間の生理機能はタフで、1週間もすれば通常の食欲が戻り、事情を聞いた友達により僕を励ます会(という名の飲み会)が開かれた。話はやや誇張されて「同棲中の彼女に全財産を持ち逃げされ、トラウマで三大欲求が消滅した男」ということになっていた。

「人類は他人と暮らすのをやめたほうが良い。生涯独身率も1人世帯の割合も年々増加している。これは我々が真実に目覚めつつある兆しです」

と僕が言って乾杯の音頭とし、飲みまくった酒をひととおり居酒屋のトイレに戻した。

家賃が払えなくなった部屋を解約し、元のワンルームに戻ると、体はすぐに映画を求めた。問題は僕の体がすでに大画面に慣れてしまっていたことだ。ラップトップでサブスク映画を見る生活を再開したが、13インチの画面で何が起きても、遠い昔のはるか彼方の銀河系の話にしか思えなかった。

「プロジェクター買い直せばいいじゃん」

と友達は言い、血も涙もないやつだなと僕はそいつを詰った。別れた彼女に持ち逃げされたものを買い直して1人で見るなんて、それはもう文学性の高い罰ゲームだろうと。すると彼は、

「じゃお前、これ使ってみたら」

と、最近発売された眼鏡型ディスプレイの商品画像を見せた。網膜投影機能を備えており、現実世界に何らかのコンテンツを重ねて見せることができる、とのことだった。

「おいおい、こんなもん使ったら現実と映画の区別がつかなくなるだろ」

と僕は笑い、

「いいじゃねーか。お前に相応しいだろ」

と彼も笑った。確かにそんな人生がいいと言っていたような気がする。少なくとも自分にしか映像が見えないというところは気に入った。スクリーンを共有すべき相手がいない男に、これほど相応しい道具はないではないか。

軽量化のため電池は小さく、稼働時間は3時間半しかないという。とはいえ『タイタニック』も『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』も最後まで見られる。僕にとって十分な時間だ。

家に届いたのは3日後だった。持ってみた印象は普通の眼鏡とほとんど同じだった。電源を入れて数分ほどキャリブレーションを設定し、最低限の操作ができるようになると、

「時計をどこに置きますか?(後で設定可能)」

と文字と音声で聞かれた。半透明の掛け時計が視界の真ん中に現れ、時計を置くべき場所が室内に5箇所ほどサジェストされた。僕がエアコンの脇を選んで視線を向けると、そこに時計がするすると移動し、ぴたっと固定されて不透明になった。

時計があるのはいいとして、掛け時計にする必要性がわからなかった。網膜に映像を映せるなら常に視界の右下あたりにちょこんと時刻を書いておけばいいのに、どうしてわざわざ空間認識というコストのかかる時計にするのだろう。そういう技術的デモンストレーションだろうか?

という僕の予想が間違いであることは3日後にわかった。食事中、掃除の途中、皿を洗っている最中にふと「いま何時だろ」とエアコンの脇を見てしまう、ということが1日に何度もあった。時刻という情報と、エアコンの脇という空間的位置が、僕の中で完全に結びついてしまったのだ。

とはいえ別に1日中この眼鏡をしているわけではないので、頭の中で時計の位置が固定されるのはかえって迷惑に思えた。それだったら普通に掛け時計を買ったほうがいい。

問題は時計ではなく映画だ。これについてはおおむね期待通りに動作した。部屋の壁の一面をスクリーンとして固定した。端から見れば僕は、なにもない壁を2時間ずっと見つめている謎の眼鏡男になったわけだ。いいじゃないか。これが真実に目覚めた人間だ。

しかし食欲も映画も無事に取り戻すと、自分が乾杯の音頭で言ったことはすっかり忘れて人恋しさが募ってきた。

2人目と付き合ったのは就職した翌年だった。韓国映画をよく見る人だった。最初のデートで『パラサイト 半地下の家族』の話をした。臭いの伝わらない映画で臭いの社会的地位を表現するセンスについて、彼女は映画の上映時間よりも長く語った。僕はそれよりも2つの家庭を映すカメラワークのほうの意味について話した。意見が対立することが楽しいのだから、この人となら上手くいくに違いないと思った。

別れたのは2年後だ。理由はごく単純で、彼女が家に来ることを僕がかたくなに拒否し続けたためだった。見られてまずいものは何もない、ただ人を家に呼ぶことが生理的に受け入れられない、という話をした。

「他人と同じ空間で生きていくことが、僕にはできそうにない」

と言い、「他人」と呼ばれたことが彼女の何かを致命的に傷つけたらしく、しばらく音信不通になった後で「将来を考えることができない」と言われて別れた。それについては完全に同意見だった。

もちろん僕だって、好きな人と同じ空間で同じ時間を過ごせたら、とは思う。でも2人が同じ部屋に暮らすことで皿の置き場に「正解」と「不正解」ができてしまうのが受け入れられなかった。

その少し後に、眼鏡の新型が出た。僕はすぐさま買い替えた。デザインが少し変わり、いかにもガジェットという無骨な外見だったのが、着けて歩いても違和感のない程度にファッション性の高いものになっていた。そして重要なことに、連続稼働時間が8時間に延びていた。

家にいるほとんどの時間を眼鏡で過ごせるので、部屋で仮想犬を飼うことにした。『ジョン・ウィック』に出てくるようなビーグル犬で、デイジーと名付けた。ちゃんと躾けをしないと部屋で粗相をすることもあり、臭いは残らないが実物の雑巾で拭かないと消えないという妙な本格仕様だった。

日本のワンルームには大きすぎる犬だが、外で散歩することもできた。その頃には徐々に世間でも眼鏡が流行り始めており、同じ眼鏡で犬を散歩させている人をよく見かけた。仮想犬はサーバー上で共有されているので、眼鏡同士ならお互いの犬を見せあうことができた。自分の犬を見せたがるのは人類の普遍的感情だった。糞を片付ける道具も実物が必要で、放置すると他の眼鏡の持ち主に見える形で糞が残った。そういう面倒さまで含めたリアリティがこの仮想犬の売りだった。

仕事から帰るたびに足元にすり寄ってくるデイジーを見ると、僕の人生もちゃんと「見る用」として確立されてきたな、という実感があった。と同時に、眼鏡を通さない僕の部屋はひどく空虚だった。充電のたびに現れる空っぽの部屋は、あのプロジェクターとスクリーンを持ち逃げした彼女を思い出させた。

これは技術的な問題なのか、それとももっと本質的な問題なのか。もし充電せずに永続的に使える眼鏡ができれば、僕の人生が「見る用」として完成するのか。それともただ空虚から目を背けているだけなのか。本物と偽物の違いはつまるところ何か。一生気づかなければそれは本物なのか。そんなことを1人でぼんやり考えた。

30歳を過ぎたあたりから、電池の切れた眼鏡をかけたまま、部屋で1人で死んでいる自分の姿が、頭の片隅にうっすら映るようになった。そうなるとデイジーはどうなるか。仮想犬なので実在犬のように路頭に迷ったりはしないわけだが、それでも他の仮想犬やその飼い主からすれば存在していたはずの犬が僕の道連れで消えるわけで、それは何かあってはならない事態のように思えた。

最終的に出た結論は「僕にはパートナーが必要だ」ということだった。こうした基本的欲求は何度潰しても新たに湧いてくるのだ。続編商法がなくならないのはそのためだ。

その次に付き合ったのは、映画を一切見ない人だった。彼女はスタジオジブリを米国企業だと思っていた。ジェームズ・ボンドを実在人物だと思っていた。ミッキーマウスの新作映画が今でも作られていると思っていた。僕はこの人に天気以外の話題ができるのだろうか、というのが第一印象だった。

もちろん映像コンテンツを一切見ないわけではなく、YouTuberが飯を食べる動画とか、芸能人が雑談をするインスタライブとかを見ていた。限られた視界を埋めるほどの価値があるのか、僕にはよくわからなかった。

そのくせ彼女は国内の映画俳優には妙に詳しかった。映画に出演する芸能人とか、YouTubeとかに出て活動をする俳優がいるからだ。彼女はそういうリアルな人間のほうが見るべきものだと思っていた。僕は映画好きでありながら、俳優という人間はあまり好きではなかった。不祥事を起こして映画の名を傷つける不安要素、というイメージが強かったからだ。

家も職場も少し遠いので、会えるのはせいぜい月1回か2回だったが、わりと早い段階で、僕は彼女に「事情があって人を家に呼べない体質である」ということを説明した。人と別れたことが理由であることと、人と別れた理由であることも。

「そうなんだ。私もあんま人呼ぶの好きじゃないけど、どんな部屋に住んでるのかは見てみたい」

ひととおりの話を聞いた彼女はそう言った。なるほど、と僕は思った。カメラ越しに見るのであれば何の抵抗もなかった。部屋のどこかに見られたくないものがないか確認し、ビデオ通話のカメラを背面に切り替え、パノラマ撮影をするようにゆっくりと画面を振った。

「意外。映画のポスター貼ったりしないんだ」

という声が聞こえた。スマホの中にある僕の部屋は、ベッド脇に並べて貼ってあるはずの『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』『2001年宇宙の旅』のポスターがどこにもない。空中に飾っているミレニアム・ファルコン号もいない。もちろん犬のデイジーもいない。

ああそうか。僕は眼鏡を外した。確かに現実の壁には何のポスターも貼られていない。眼鏡の機能で視界の中に「貼って」いただけだったのだ。その頃にはもう自宅のほとんどの時間を眼鏡で過ごしていたので、眼鏡の中にしかないポスターを、現実世界に貼ってあると思い込んでいたのだ。『レディ・プレイヤー1』で現実に戻ったと勘違いして、パーシヴァルに一杯食わされた社長みたいだ。

僕がいつも使っている眼鏡について説明し、家の趣味的なものは大抵その眼鏡の中に組み込まれている、ということを話した。すると彼女は、それを使ったら他人と同じ部屋に住めるんじゃないの?と提案した。その「他人」が誰を指すのかまでは彼女は言及しなかった。

ストアを調べると、確かにそういうアプリは提供されていた。お互いの家にカメラを置いて、眼鏡を通じて2つの家を接続する、というものだった。さっそくAmazonセールで1万円引きをしていた眼鏡を買い、彼女に送りつけた。キューブリックのポスターを別の壁に移動し、壁の向こうに彼女のワンルームを映した。部屋の真ん中に彼女が立っており、その周りに観葉植物がいっぱい並んでいた。ちゃんと奥行きのある部屋だった。カメラは1台だけで足りた。映らない部分はAIが補完してくれるからだ。

2つのワンルームの間にはガラスに似せた板が挟まっていた。わずかに自分の顔が反射して見えた。技術的にはもっとシームレスに映像を接続できるはずだけど、それだと衝突事故が起きそうなので意図的な仕様だろう。

「へー、確かにポスター貼ってあるね」

と彼女は僕の部屋のほうを見て言った。向こうの壁に映し出された僕のワンルームには、僕の仮想的なポスターも映っているはずだった。

これはなかなか理想的な距離感なんじゃないだろうか。人恋しさを解消できるだけの近さにありつつも、相手が生活に干渉できない確実な壁があるのだ。服を着替えたり、その他見られたくないことをするときは、磨りガラスやカーテンで仕切ることもできるようだった。もちろん単純にカメラを切ってしまうこともできるが、よほどの喧嘩でもしない限りその必要はないだろう、と直感していた。

「じゃ、しばらくこれで暮らしてみよっか」

と言った次の瞬間、キッチンで餌を食べていた仮想犬のデイジーが、ぬっと僕のほうに歩み寄ったかと思うと、僕と彼女を隔てるガラスの壁をするっと通り抜けて、向こう側に行ってしまったのだ。

「えっ、何これ!?」

彼女はざっと引いた。背後に置いてあったパキラの葉がざわっと揺れた。しまった、と僕はデイジーを連れ戻そうとして、ガラスの壁にべしんとぶつかった。仮想のガラスなので割れることはないが、現実世界の隣人からどん、と壁を叩き返された。

「犬、大丈夫?」

いったん落ち着いて僕が言うと、

「うん。どっちかというと猫派だけど」

と彼女がデイジーに手を突っ込むと、デイジーは露骨に嫌がり、バウッと吠えて僕の部屋に戻ってきた。

「そっかそっか。お前は、これを通れるんだな」

と言って僕はデイジーのいる空間を撫でた。その触れない毛並みを通じて僕と彼女の部屋の空気が交換されたような気がして、少しだけ気恥ずかしくなった。

家がつながってしばらくは、何か中身のある話をしよう、と心がけた時期もあった。食事のテーブルをガラスの壁に寄せる、という程度のことはしてみた。ただ一緒にテレビを見るようなことはなかった。見たい番組がこれっぽっちも一致しなかったからだ。同じ場所に仮想ディスプレイを置いて、それぞれ違う映像を見たりもしたが、意味のわからないタイミングで彼女が笑い出すのでやめた。

結局、それぞれ好き勝手に時間を過ごす「ひとりひとり暮らし」が定着した。僕はひとりで映画を見て、彼女は観葉植物の世話をしながら、ふと僕のことをじっと観察していることが多かった。ちょいちょい視界の端に彼女がいるのが気になって、

「見てて面白いの?」

と尋ねた。

「ん。おー今日も生きてるな、って思って見てる」

ということだった。彼女の感覚は僕にはちっともわからないが、そういう距離感が妙に心地がよかった。

壁の向こうの部屋はあくまで映像なので、掃除も洗濯も皿洗いも、それぞれの家でそれぞれ勝手に行った。ただ2人が干渉する家事が少しだけあった。ひとつはモーニングコールだ。彼女は相当に朝が弱く、いつも遅刻ギリギリまで寝ている。スマホのアラームをつけてもすぐに止めて寝てしまう。だから人に起こしてほしい、ということを頼まれた。

ということで翌朝試してみたが、ベッドで眠る彼女に向かって何度叫んでも反応がなかった。よく考えると当たり前だ。寝るときは眼鏡を外すから、音も映像も彼女に伝わっていないのだ。こちらから見えるならあちらも見える、と思い込んでいた。

慌てて彼女に電話をかけて、なんとか目を覚まし会社に行くまでを見守った。その翌日に、彼女の部屋のカーテンと照明を遠隔で操作できるアプリを入れた。彼女の部屋は新築賃貸のスマートホームなので、そういうツールが最初から備わっていた、ということを彼女自身がそのとき知った。そういえば不動産業者が言ってた気がするなあ、ということを彼女は眠そうに話していた。幸いなことに僕の家にそういう機能はなかった。僕のカーテンに彼女が触れることにはやはり抵抗があった。

もうひとつの共有家事はデイジーの散歩だ。壁を抜けて彼女のもとへ行けるデイジーは、そのまま彼女の家のまわりを散歩することができた。最初のうちは見知らぬ町への警戒心で目を光らせていたデイジーも、1週間もすればそこが「自分の家」の近所である、という認識を得たようだった。ほかの仮想犬ともすぐ知り合いになった。

そんな「暮らし」を始めてから1年ほど経った冬の日のことだった。僕が「ただいま」と玄関を開けると、彼女の部屋はまだ暗かった。そういえば出張で外泊するという連絡が来ていたな、とそのときに思い出した。

曜日的には彼女の散歩担当日だったが、今日は僕がやるしかない。と思ってデイジーを探すと、彼女の部屋の奥のほうで眠っていた。僕の部屋の明かりがガラスの壁を通じて彼女の部屋にも漏れていたが、それはあくまで擬似的な表現で、実際の彼女の部屋は真っ暗だ。足りない光量をAIで補正しているせいで、彼女の部屋はキュビズム絵画のような不格好な空間になっていた。

「おーい、デイジー。散歩に行くぞ」

と僕が呼んだ。デイジーはふっと目を覚まし、そのまま空部屋の中の1点を見つめた。彼女の部屋はAI生成のキュビズムだが、デイジーは別に描かれたCGなので、その部屋で唯一リアルな存在として浮き上がっていた。

そのデイジーが、部屋の隅、観葉植物の陰、彼女のタンスがあるあたりをじっと見ている。そしてそのまま徐ろに、バウッ、バウッと、見知らぬ人間に近寄られたときの声をあげた。

「……おい、デイジー、どうした?」

と僕は叫んだ。

「そこに誰かいるのか!?」

遠隔操作で電灯のスイッチを入れた。カーテンも全部開けた。キュビズムが急にリアルな映像に収束し、黒いジャージを着た見覚えのない老人がひとり、部屋の真ん中に立っていた。

留守のはずの彼女の家に、何者かが忍び込んでいた。

老人にデイジーは見えていない。無人のはずのワンルームに急に電灯がついたことで、慌てた老人はそのままベランダへと逃げた。地面に飛び降りる音がかすかに聞こえた。彼女の部屋は3階だった。

空き巣はその日のうちに逮捕された。僕が提供した映像を、警察が町の防犯カメラと照合してすぐに見つかった。スマートホームのオートロックの脆弱性を突いたもので、最近この手口が増えてるんですよ、という専門的な説明をいくつか受けた。彼女のほうには、その晩のうちに僕と警察から連絡が行った。

「あの部屋で寝るのが怖いから、そっちに行っていい?」

出張帰りの新幹線に乗る彼女から連絡がきた。僕は1時間ほど悩んだ末に「いいよ」と返した。

彼女は出張の大荷物を持って、玄関から僕の部屋に入ってきた。眼鏡がないとこんなに片付いてるんだね、と部屋を一瞥して言った。

僕はあらかじめ「この家で触れてはいけないもの」をマークして、彼女の眼鏡に共有しておいた。触るとアラームが出るものだ。おかげでずいぶん歩きにくい部屋になったが、彼女はなんとかそれを守った。同じ空間を共有しながら、数日を僕の部屋の中で過ごした。

結局彼女はそのまま自宅を解約した。僕たちは2DKの部屋を新たに借りて、それぞれのワンルームの中身を新しい個室に持ち込んだ。デイジーはまた新たな近所を散歩コースとして認識した。僕の部屋のものは彼女が触れないアラームだらけになってしまったが、別にいいよ、そのかわり私の植物の世話は手伝ってね、と言われた。この人となら同じ空間を共有して生きていけるのではないか、とそのときは思ったし、入籍した後もそう思っている。

皿を片付けるときだけは、まだ少し緊張する。

柞刈湯葉|YUBA ISUKARI
小説家・マンガ原作者。2016年、『横浜駅SF』で第1回カクヨムWeb小説コンテストSF部門大賞受賞。主な著作に『重力アルケミック』『未来職安』『人間たちの話』『まず牛を球とします。』、『オートマン』(マンガ原作)、『SF作家の地球旅行記』(旅行エッセイ集)など。『WIRED』日本版 VOL.32に短編小説「ボーナス・トラック・クロモソーム」、同じくVOL.37に「RNA サバイバー」、VOL.40に「土なき月の基地の土」を寄稿。

※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より転載。


雑誌『WIRED』日本版 VOL.53
「Spatial × Computing」

実空間とデジタル情報をシームレスに統合することで、情報をインタラクティブに制御できる「体験空間」を生み出す技術。または、あらゆるクリエイティビティに2次元(2D)から3次元(3D)へのパラダイムシフトを要請するトリガー。あるいは、ヒトと空間の間に“コンピューター”が介在することによって拡がる、すべての可能性──。それが『WIRED』日本版が考える「空間コンピューティング」の“フレーム”。情報や体験が「スクリーン(2D)」から「空間(3D)」へと拡がることで(つまり「新しいメディアの発生」によって)、個人や社会は、今後、いかなる変容と向き合うことになるのか。その可能性を、総力を挙げて探る!詳細はこちら


Related Articles
article image
空間そのものがメディアとなる、スクリーンなき未来に“表現”はどのように更新されるのだろう。フィジカルとデジタルを往還する先鋭的な表現を追求してきた3名のアーティスト ─ JACKSON kaki、藤倉麻子、荘子it(Dos Monos)のまなざしから探る。
article image
6月28日に、Apple Vision Proが日本で発売される。いよいよ、空間コンピューティング時代に本格的に突入するのかもしれない──。かつて、文明評論家のマーシャル・マクルーハンは「社会が新しいメディアを発展させたとき、社会は、新しいメッセージを表明する権利を得る」と語った。では、空間コンピューティングが発展したこの先、社会はいかなるメッセージを発信しうるのか。⼿にする「権利」のありようを、10名の識者たちが空想する。
article image
「空間コンピューティング」という聞き慣れない「技術/概念」をさまざまな角度から掘り下げることで、この「技術/概念」が有しているであろう未来の可能性を"閉じない”ようにしたい──。そんな編集部からの依頼に対し、「通りすがりの天才」こと川田十夢がフィーチャーしたのは、一見、空間コンピューティングとは結びつかない4人の識者だった。果たしてその狙いは何か。川田の見立てを、とくとご覧あれ!