EDITOR'S LETTER

潜在空間とトマトスープ──『WIRED』空間コンピューティング特集号の発売に際して、編集長から読者の皆さんへ

いつの時代も新しいメディアが時間と空間を拡張してきた。だとすれば、生成AI時代の潜在空間についてはどうだろう? 空間コンピューティングの可能性(フレーム)に迫る最新号に寄せて、『WIRED』日本版編集長・松島倫明からのエディターズレター。
潜在空間とトマトスープ──『WIRED』空間コンピューティング特集号の発売に際して、編集長から読者の皆さんへ
PHOTOGARAPH BY DAIGO NAGAO, COVER ILLUSTRATION BY SIMON BAILLY @ SEPIA

「時間と空間はもう人間を支配することはない」と高らかに謳われたこのテクノロジーほど、近代の発明において「その影響が急速に広まったものはない」という。その普及ぶりは、「実際に爆発的と言っても過言ではなく、成長が早すぎてその大きさをとらえることさえできなかった」のだと。熱狂とともに人々に受け入れられたその技術とは、ChatGPTやインターネットよりはるか昔、およそ150年前に実用化された「--・・」、つまり電信のことだ。

「19世紀にはテレビもコンピュータも宇宙船もなかった」けれども、「インターネットだけはあった」と『ヴィクトリア朝時代のインターネット』には書かれている。テレグラフという名のこの「すべてのネットワークの母」は、ビジネスや金融やメディアの在り方を根底から変え、戦争の趨勢を左右し、人々のコミュニケーションや、愛のかたちさえ変えていった(電信が結ぶ情愛は当時「WIRED LOVE」と呼ばれた。本当の話だ)。電信や電話といった技術は当時の人々にとってはまるで魔法のようで、夫にトマトスープを送ろうとして送話口に注いだ人までいたほどだった。

時間と空間の支配から逃れようとする人類の挑戦の続きは、皆さんもおおむねご存じの通りだ。鉄道やクルマ、飛行機や宇宙船によって、物理的な身体はますます速く遠くへ移動するようになった。電話やインターネットといったコミュニケーション手段はそれすらもはるかに凌駕し、地球の隅々まで一瞬で人々をつなげた。いまでは、全世界で毎日約150億のSMSメッセージと3,600億通のメールが送られ、Instagramでは毎分65,000の画像が、Twitter(もといX)では毎分35万のポストが投稿され、TikTokでは毎分600万以上の動画が再生されている。

物理世界とデジタル世界の関係がさらに大きく変わるきっかけとなったのが、コロナ禍によるパンデミックだった。地球上のあらゆる移動がパタリと止まるなか、「ミラーワールド」の建国が一気に本格化したのだ。それは、いまだデジタル化されていないあらゆるもの──つまりテキストや画像や動画以外のすべて──のデジタルツインをつくるという世紀の大事業を意味した。ヴィクトリア朝時代の探検家たちが世界地図の空白を次々と埋めていったように、いまや「Map the New World」の掛け声のもと、身の回りのあらゆる環境がデジタル化され、物理空間とピタリと重なり合い、そこへ人類が踏み出していく地ならしがなされていった。

『WIRED』が「ミラーワールド」を特集した2019年6月の時点で、ビットとアトムが重なり合ったこの新世界が前景化するのに10年はかかると想定していた(ほほ笑ましいほど牧歌的だ)。翌年に起きたパンデミックによってそれは一気に加速することになる。メタバースにあやかってフェイスブックが社名をメタ・プラットフォームズに変更したのは21年末のことだ。パンデミックのあとにはルネサンスが続く、という言説が当時流行ったことをまだ覚えているだろうか?ぼくたちの多くはあのとき、文明の“再生”とは何なのかも、それがすでに起こりつつあることも、まだ知らなかった。そう、もちろんそれは、生成AIのことだったのだ。

ZoomやSlackを駆使して電脳空間(サイバースペース)とかけがえのない自然に囲まれた暮らしとを往還する未来を描いていたぼくたちは、気がつくと、耳慣れない新しい空間へと足を踏み入れている。それは、潜在空間(レイテントスペース)といわれるものだ。生成AI時代の基盤となるこの“空間”は、もともとディープラーニングの分野において、画像や音声、言語データの隠れた構造を抽出し、その特徴を捉えて圧縮、表現する高次元空間のことをいう。人類が日々生み出すオンラインデータは、いまや120ゼタバイト(12のあとに0が22個つく)という惑星規模の“マッシブデータフロー”となり、その全容を捉えることはもはや誰にも不可能だ。だからこそ、まるで4次元ポケットに手を突っ込むように、潜在空間に圧縮された“世界のあらゆる可能性”から、人類はプロンプトを巧みに使って、お望みの何かを日々取り出している。

そんな生成AI時代の物理世界とデジタル世界、そして無限に拡がる可能世界が折り重なった時空を進むためにぼくたちがいま手にしているツールが、空間コンピューティングだと考えてみるのはどうだろう。空間と時間、ビットとアトム、圧縮と展開、それらがついに融合し、身体性が“再生”された世界でいったい何ができるのかを、一つひとつ果敢に試みていくのがぼくたちの世代の役割なのだ。ヴィクトリア朝時代の人々のように文字や音声だけに縛られる必要はもうないし、想像力にあらかじめ枠をはめるべきじゃない。今度こそ、愛する誰かにトマトスープだって送れるはずだ。嘘じゃない。試してみる価値はあるはずだ。

『WIRED』日本版 編集長 松島倫明


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※ 雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「Spatial×Computing」より転載。

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雑誌『WIRED』日本版 VOL.53
「Spatial × Computing」

実空間とデジタル情報をシームレスに統合することで、情報をインタラクティブに制御できる「体験空間」を生み出す技術。または、あらゆるクリエイティビティに2次元(2D)から3次元(3D)へのパラダイムシフトを要請するトリガー。あるいは、ヒトと空間の間に“コンピューター”が介在することによって拡がる、すべての可能性──。それが『WIRED』日本版が考える「空間コンピューティング」の“フレーム”。情報や体験が「スクリーン(2D)」から「空間(3D)」へと拡がることで(つまり「新しいメディアの発生」によって)、個人や社会は、今後、いかなる変容と向き合うことになるのか。その可能性を、総力を挙げて探る!詳細はこちら