SPATIAL × COMPUTING

マクルーハンへの回答:空間コンピューティングの時代に人々が手にする権利とは?

6月28日に、Apple Vision Proが日本で発売される。いよいよ、空間コンピューティング時代に本格的に突入するのかもしれない──。かつて、文明評論家のマーシャル・マクルーハンは「社会が新しいメディアを発展させたとき、社会は、新しいメッセージを表明する権利を得る」と語った。では、空間コンピューティングが発展したこの先、社会はいかなるメッセージを発信しうるのか。⼿にする「権利」のありようを、10名の識者たちが空想する。
マクルーハンへの回答:空間コンピューティングの時代に人々が手にする権利とは?
ILLUSTRATIONS BY PECO ASANO, PHOTOGRAPH BY DAIGO NAGAO

※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より。詳細はこちら

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メディアに触覚を、われわれにいいマッサージを!

津久井五月|ITSUKI TSUKUI
1992年生まれ。テクノロジーによる人間や社会の変容に関心をもって小説を執筆している。東京大学・同大学院で建築学を専攻。2017年『コルヌトピア』でデビュー。そのほかの作品は「粘膜の接触について」(『ポストコロナのSF』所収)など。


マクルーハンは「メディアはメッセージである」だけでなく「マッサージである」とも言っているのに、メディア技術において普通の意味でのマッサージ ──つまり触覚の豊かさは軽んじられ続けている。ぼくらが視聴覚的な“空間”にリアルな質感を覚えることができるのは、物理世界を自分の皮膚や筋肉で感じてきたという、触覚的な“リアリティの貯蓄”があるからだ。視聴覚に偏ったデジタル技術に包囲された状況は、いずれぼくらの現実感の貧困を招く。空間コンピューティングは世界を視聴覚だけの“空間”へと単純化して、リアリティの貯蓄を食いつぶすだけのものなのか?それとも“空間”をテコにしてメディアに触覚を取り戻すことで、貯蓄を増やすことができるものなのか?少なくとも当面の間は、空間コンピューティングはぼくらに充足をもたらすよりも、むしろ手触りの欠乏を強く意識させることになるだろう。だからこそ、ぼくらにはこんなメッセージを表明する権利がある。「このところずっと、まったくもって、いいマッサージを受けられていない!」と。


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思考の最適化と独立がもたらす自己実現、貢献、暇つぶし

玉城絵美|EMI TAMAKI
人間とコンピューターの間で身体感覚を伝達するBodySharing技術の研究と事業開発に従事。2011年に東京大学大学院で博士号取得、総長賞受賞。12年にH2L創業。20年より5Gと連携した遠隔での体験共有システムを多数提案。


わたしが研究している“BodySharing”とは、他者やロボットとさまざまな身体の感覚を共有し、体験をシェアする技術と概念です。視覚や聴覚だけでなく、位置覚、重量覚、抵抗覚などの固有感覚を含む全身の身体感覚を共有することで、他者やロボットとの体験共有の乖離が限りなく小さくなります。身体の3次元的な動きや力加減の感覚である固有感覚をデジタル化し共有することは、つまり、われわれが生きるフィジカル空間とコンピューター内のサイバー空間を身体的に融合させるメディアとも捉えられます。身体的な空間コンピューティングの先には、稀有な体験の大衆化、スキルインストール、身体制約からの解放など、多様なヒトの思考の融合と機能の拡張が訪れます。さらに、2020年代の「集団から個」というメッセージは、システムによる「ヒトの集団と個としての思考の最適化と独立」に移り変わります。その思考の先にある権利は、自己実現、貢献あるいは単純な好奇心による暇つぶしのようなヒトの活動の権利かもしれません。


03 / 10

バイオデジタル・ビーイングとしての多次元的な自己の感覚

ガリット・アリエル|GALIT ARIEL
テクノフューチャリスト。作家。クリエイター。デジタル、物理、文化的空間の類似性やギャップ、可能性について研究している。未来に向けたソリューションを創造するスペキュラティヴ・デザイン・エージェンシー「Future Memory Inc.」の創設者でもある。


空間コンピューティングは、リアリティを変えるメディアになる。直接的な影響を受ける社会文化的空間として、わたしたちの核となる「リアリティ・インターフェイス空間」──身体がある。空間コンピューティングは、身体の動作や機能、知覚、そしてそれを介したリアルタイムの相互作用に依存しており、それゆえ身体は、デジタルと物理的なリアリティを横断する中核的なインターフェイスに位置付けられている。この技術は身体とテクノロジーに新たな関係性をもたらし、一部の感覚でコンテンツを受信していた人間は、全身を使った豊かな没入体験ができるように進化していくと思う。身体拡張の可能性は開かれ、生物学的な境界を超えた身体文化やアイデンティティの探求も進むはず。身体とテクノロジーはますます密接になり、やがて多次元的な自己の感覚をもたらすだろう。それは、わたしが「バイオデジタル・ビーイング」と呼んでいる、生物とデジタルのハイブリッドな存在としての新しい体験だ。


04 / 10

正解の先にある新たな価値を人類は模索していく

梶谷健人|KENT KAJITANI
POSTS代表。先端技術とプロダクト戦略に強く、複数社の顧問に従事。2022年8月までMESON代表としてXR/メタバース領域で事業を展開。著書に『生成AI時代を勝ち抜く事業・組織のつくり方』、『いちばんやさしいグロースハックの教本』(共著)がある。


「空間コンピューティング」が浸透すると、「RealityからRealitiesへ」「“正解”常時アクセス時代」といった性質を社会は新たに獲得するのではないだろうか。空間コンピューティングの意義のなかでも「空間をメディア化できること」と、「空間をインプットにできること」のふたつは特に大きい。ARクラウドやデジタルツインを用いて物理空間に情報がひも付けられ、ユーザーの趣味嗜好や状況に合わせて情報を最適化して表示するようになる“現実”は、もはや単一の「Reality」ではなく「Realities」という複数形として存在するようになる。さらに昨今進化が目覚ましい大規模言語モデルなどのAIを搭載したデバイスを通して、“見聞きする環境”がそのままインプットになり、AIが自動的に“正解”を耳打ちしてくれるようになる。そうして、正解の先にある何かに価値の比重が移った社会を、人々はそれぞれに最適化された現実を通して見つめていくことだろう。


05 / 10

わたしたちは何者か……定義は拡大し、強化される

スティーヴン・フェイナー|STEVEN FEINER
コロンビア大学教授。同校でコンピューターグラフィックス・UI研究室のディレクターを務める。25年以上にわたってVR・ARの研究に従事し、シースルーHMDとGPSを使用した初の屋外用ARシステムを開発。VR・ARを多様な分野で応用する実験のパイオニア。


空間コンピューティングとは、前世紀から研究者たちの間で使われている用語で、宇宙、地球、部屋の中、あるいはミクロな世界を含む、あらゆるレべルの物理空間に関するコンピューティングを指す。そして最近は、拡張現実と仮想現実の同義語として広まっている。このような意味での空間コンピューティングが成熟するにつれて、最終的にはわたしたち身体の内外、そして環境に完全に溶け込むようになるだろう。技術の性能と接続性は向上し、サイズ、必要とする電力、価格も低減する。そうして、わたしたちはコンピュテーションを通じて、あるいはそれを使って、物事を知覚/経験するようになるのだ。また、あなたがどこにいようとも、世界と交流する際に拡張されたコミュニケーションの恩恵を受けるに違いない。マルチモーダルAIの発展も加われば、インタラクションはあらゆる範囲に広がる。体験できること、成し遂げられることを拡大し、強化することは、わたしたちが何者であるかを拡大し、強化することになるのだ。


06 / 10

分断を生む快適な“蛸壺”を脱してなめらかな社会へ

鳴海拓志|TAKUJI NARUMI
東京大学大学院情報理工学系研究科准教授。博士(工学)。バーチャルリアリティを使い、人がリアリティを認識する仕組みの解明と、その仕組みを生かした効率的な感覚情報提示技術や人の能力から人生の意味までをも拡張する人間拡張技術の研究に取り組む。


環境やモノだけでなく自分や他人の見た目すら置き換えることを可能にする空間コンピューティングは、それぞれの人にパーソナライズされたリアリティを成立させる。実際にはそんな技術がなくてもわれわれの感じるリアリティはそれぞれ違い、多様性をもっているのだが、これまでの社会では多くの人にとって共通する解こそが正当なリアリティと見なされ、その規範から外れたリアリティを抱いて生きる人たちはマイノリティとして扱われてきた。空間コンピューティングの浸透は、「わたしはわたしの見たいように世界を見るし、あなたの見る世界がわたしの世界と違うことも喜んで許容する」という権利の規範化を促すだろう。ただし、それはマイノリティが疎外されない包摂的な世界であるようで、「ホット」な蛸壺であり、徹底した個の時代の到来だ。他者への無関心をあおるのではなく、パーソナライズされたリアリティを心地よく調停してなめらかな社会を開く機能をもった、空間コンピューティングの次に求められる「クール」なメディアについて考えるべきタイミングが来ている。


07 / 10

わたしのリアリティはわたしのものだ

藤井直敬|NAOTAKA FUJII
ハコスコ取締役CTO。医学博士。脳科学者。一般社団法人XRコンソーシアム代表理事。ブレインテックコンソーシアム代表理事。研究テーマは「現実科学」。著書に『つながる脳』(毎日出版文化賞受賞)、『ソーシャルブレインズ入門』『拡張する脳』など。


再び量が質に転換する歴史的な瞬間が起きている。これまで要素として存在したXRとAI、情報・認知科学などの個別技術と知見が、巨大な計算リソースによって統合・錬成され、物理空間に存在しなかったアプリケーション領域を拡張し、新しい物理・デジタルのハイブリッドな認知環境メディアが出現した。その空間コンピューティングが明らかにする権利とは、わたくしの現実はわたくしのものであるという権利である。これまでのメディアは、万人に共通のパブリックな現実を前提としていた。ひとつの現実を操作すれば全員の現実が影響を受ける世界。しかし本質的に現実とは個別の脳が生成し続ける動的なものであり、極めて私的かつ神話的で、誰かに侵害されうるものではない。空間コンピューティングが拡張するプライべート層が物理層に重畳されるハイブリッドな現実感は既存の社会の仕組みや権利・義務の更新を要求する。その現実を科学する現実科学というアプローチは人類社会に新しい可能性とゆたかさを生み出すだろう。


08 / 10

世界の至る所で時間的制約から解放される自由を

渡邊信彦|NOBUHIKO WATANABE
STYLY取締役COO。空間の「レイヤー」概念を構想し、XRクリエイター発掘/育成プロジェクト「NEWVIEW」や現実の都市空間を活用した「都市型XRエンターテインメント事業」を展開。2024年6月著書『スマホがなくなる日』発売。


マクルーハンはメディアそのものが世界に働きかけ、人間の感覚を拡張しそのバランスを変化させていくと説いた。空間コンピューティングが人間にもたらす最大の権利は、時間的制約を超越する自由である。固定された2次元にしか発現することができなかったこれまでと違い、空間コンピューティングによって今後どこにでもインプット・アウトプットができるようになる。さらに空間を情報レイヤーと捉えたとき、人間はタスクごとにレイヤーを分けて情報をコントロールするようになる。現在の仕事はPCの前で行なうのが一般的だが、空間コンピューティングでどこへでもインプットし、AIが行なった作業の結果はデスクで受け取るなんてことができたりする。人間はそれぞれのレイヤーにおいて、いくつものタスクをパラレルに進行させることが可能となるのだ。これは人間の効率を飛躍的にアップさせ、結果やりたいことへの時間を増やすことにつながる。やりたいことを諦めない世界。ぼくらの人生は、長く広くなるだろう。


09 / 10

進展するメディアが人間の思考のフレームを変えていく

山口裕之|HIROYUKI YAMAGUCHI
東京外国語大学教授、博士(学術)。専門は、ドイツ文学・思想(とりわけベンヤミン)、メディア理論、表象文化論、翻訳思想。主な著書に『現代メディア哲学 ─ 複製技術論からバーチャルリアリティへ』〈講談社〉、『映画を見る歴史の天使』〈岩波書店〉。


The medium is the message. メディアが伝えるのはコンテンツではなく、むしろ人間の思考や文化の在り方を規定するメディアの技術性そのものである。その意味で「新しいメディア」そのものが「新しいメッセージ」なのである。だが、メディア技術の展開によってそれだけ人間が素晴らしい何か(新しいメッセージ)を手にするといった見方がおそらく一般的にはありがちだ。人間は不変の定数のように、メディアの外に立ち、進歩してゆく技術を便利なものとして使ってゆく主体なのではなく、進展するメディアにより思考の枠組みが変わってゆく変数である。メディアは、「現実」の世界のなかの事物の像を、究極的にオリジナルと同じように再現前化することを目指して進む。3次元的メディア経験の場は、そのような進展の途上にある。メディア技術が高度になるほど、「現実」の世界は後退し、人間は仮想的な像の世界のうちに入り込む。よかれ悪しかれ、「新しいメッセージ」は、「現実」から離れ、メディアの世界と一体になる思考を生み出してゆく。


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テクノロジーが人間世界に合わせてくれる権利

キャシー・ハックル|CATHY HACKL
技術系未来学者。メタバース業界のゴッドマザー的存在で、さまざまな講演に登壇している。空間コンピューティングとAIによるソリューション企業Spatial Dynamicsの共同CEOであり、LinkedInのTop Tech Voiceでもある。


空間コンピューティングは、新しいインターフェイスの到来を告げる技術です。人間とコンピューターが相互作用するための新たなインターフェイスは、人間同士のコミュニケーションも、これまでとは異なる方法で進化させるでしょう。物理的な世界がキャンバスとなり、あらゆる面が空間的なインターフェイスとなります。これにより、有機的な3Dの性質をもつ、より没入感のあるコンテンツ形式が生まれるでしょう。今回はテクノロジーが、人間やわたしたちの世界に適応していくと思います。新しい空間コンピューティング・インターフェイスは、仮想的な空中権だけでなく、わたしたちの視界や聴覚が届く範囲にあるものは誰のものかという議論をも巻き起こすのではないでしょうか。より魅力的かつ没入感のある方法で自分自身を表現するようになるわたしたちは、自分がかかわると決めたメディアの積極的な参加者となり、そして、物理的な世界に近いかたちで他者とかかわる、新しいプレゼンス感覚を獲得するはずです。


(Edited by Tomonari Cotani, Erina Anscomb)

※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より転載。


雑誌『WIRED』日本版 VOL.53
「Spatial × Computing」

実空間とデジタル情報をシームレスに統合することで、情報をインタラクティブに制御できる「体験空間」を生み出す技術。または、あらゆるクリエイティビティに2次元(2D)から3次元(3D)へのパラダイムシフトを要請するトリガー。あるいは、ヒトと空間の間に“コンピューター”が介在することによって拡がる、すべての可能性──。それが『WIRED』日本版が考える「空間コンピューティング」の“フレーム”。情報や体験が「スクリーン(2D)」から「空間(3D)」へと拡がることで(つまり「新しいメディアの発生」によって)、個人や社会は、今後、いかなる変容と向き合うことになるのか。その可能性を、総力を挙げて探る!詳細はこちら


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かつて描かれた未来がいまをかたちづくるように、わたしたちの思考が、やがて訪れる未来世代にとっての現在に接続していく。次のミッドセンチュリーに向けてよりよい未来を紡ぐために、30名のビジョナリーたちが、ヒントとなる書籍や映画、ゲームなどの作品を選んでくれた。
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雑誌『WIRED』日本版VOL.53では総力を挙げて「空間」×「コンピューティング」の可能性を掘り下げているが、肝心の「空間」自体は、どう定義すればいいのだろう。生半可な掘り下げでは、生焼けになることは目に見えている。ここはぜひ、当代屈指の理論物理学者の叡智に与りたい。というわけで、米国・カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)物理学部棟の4階にある、野村泰紀のオフィスを訪れた。野村先生、「空間」とは一体、何なのでしょうか?