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アメリカが初めてLSDをキメたとき

ヒッピーが出現するはるか前から、LSDをはじめとする幻覚剤が社会のメインストリームに入り込む機会はあった。その文化史から現在の“合法化”への機運を読み解く歴史家ベンジャミン・ブリーンの新著『Tripping on Utopia』レビュー。
「ティモシー・リアリーやベビーブーム世代が、幻覚剤の時代の訪れを先触れしたのではない」とベンジャミン・ブリーンは最新刊に書いている。「むしろ彼らは、その時代の終わりを告げたのだ」
「ティモシー・リアリーやベビーブーム世代が、幻覚剤の時代の訪れを先触れしたのではない」とベンジャミン・ブリーンは最新刊に書いている。「むしろ彼らは、その時代の終わりを告げたのだ」Illustration by M Fatchurofi

1957年9月のある夜、テレビをつけてCBSにチャンネルを合わせた米国中の視聴者は、若い女性がLSDをキメる場面を目撃した。その女性の隣に座っていたのは、スーツ姿のシドニー・コーエン。彼女にLSDを与えた人物だ。女性は口紅を引き、爪もきれいに整えていたが、その瞳は爛々と輝いていた。「おしゃべりにもテクニカラーで色がつけられたらいいのに」と彼女は言う。しばらくしてから、今度はこう言い出した。「分子が見えるわ……わたしもその一部なの。あなたにも見える?」「見ようとはしているんだけどね」とコーエンは答えた。

その番組をたまたま目にしたどこかの家族は、夕食のミートローフか何かを食べながらテレビを前にして、この可憐な女性が幻覚にとらわれ、飛びまわる分子の群れに導かれて自分の内なるスペースへとトリップするのを見ていたのだろうか? 番組が終わったら、いつものように『パパは何でも知っている』や『ペリー・コモ・ショー』にチャンネルを変えたのだろうか? 歴史家ベンジャミン・ブリーンは、その最高に面白い新著『Tripping on Utopia: Margaret Mead, the Cold War, and the Troubled Birth of Psychedelic Science』のなかで、先ほどのテレビ放映された女性のトリップのような、文化的に大きな意味をもつ瞬間を生き生きと描き出している。彼の筆のおかげで、お茶の間に流れたトリップの瞬間は魅力的で、さほど不謹慎でもないように思えてくるほどだ。

ブリーンの語るところによれば、さまざまな薬物(なかには毒性をもつものもあった)が世の中に出揃い、意識を拡張する物質を使った文化的実験が初めて大々的に行なわれたのは、自由奔放な60年代ではなく、保守的な50年代のことだった。60年代に花開いた幻覚剤のカルチャーは結局、ヒッピームーブメントが全盛になる前の、豊かではあるがなかば忘れ去られた序章だ。ティモシー・リアリーがシャーマニズム的な装いや姿勢を語り、ドラッグ撲滅運動がすべてをダメにしてしまうのは、その後の話だ。

このドラッグ登場の初期には、あのCIAによる悪名高い向精神薬研究だけでなく、「化学を通してよりよい暮らしを」[編註:20世紀半ばに使われたデュポン社のスローガン]といった、もっと気軽で明るい未来を約束する大衆向けキャンペーンも行なわれ、ドラッグを肯定的にみるその傾向は、戦後の科学に対する楽観主義や大衆の科学知識崇拝の波に乗って、さらに強まった。「ティモシー・リアリーやベビーブーム世代が、幻覚剤の時代の訪れを先触れしたのではない」とブリーンは書いている。「むしろ彼らは、その時代の終わりを告げたのだ」

幻覚剤への希望と「ポーラン効果」

つまり、わたしたちが生きている現代以前にも、LSDをはじめとする幻覚剤がメインストリームに入り込む機会をうかがっていた時代はあったわけだ。2020年代、幻覚剤はウェルネス文化やスタートアップが牛耳る資本主義や臨床研究といった、いかにも現代的な範疇のなかに居心地よさげに収まっている。X世代のなかには、中年の危機をアヤワスカ[編註:ペルー産の植物からつくられる幻覚剤]で乗り越えようとしたり、レクサプロ[編註:抗鬱剤]をLSDのマイクロドーズ(極微量摂取)の代わりに使ったりする人たちがいる。学生のころ、期末試験が終わったあとビニール袋いっぱいに干からびたキノコを詰め、友だち数人と連れだってキャンパス裏の森に入っていったような世代だ。

近年の研究により、幻覚剤は鬱の治療や終末期の不安の軽減、悲しみへの対処に効果を発揮する可能性を秘めているといくつも報告されている。2018年に出版されたマイケル・ポーランによるベストセラー『How to Change Your Mind(邦題:幻覚剤は役に立つのか)』はこの新しい科学とそれがもたらす予期せぬ影響について書かれた本だが、幻覚剤に対して人々が向ける希望をおおいに煽ったため、科学論文により「ポーラン効果」という言葉が生まれるまでになった(この言葉は、ある対象物が精神研究にもたらす期待が大きいあまり、実験結果の報告に影響を与えてしまうような状況を表す)。

19年、米国内で初めて、幻覚キノコに含まれる精神活性化合物であるサイロシビンの使用がデンバーで解禁され、20年にはオレゴンでその治療への使用が合法化された。以降、サンタクルーズやデトロイト、ワシントンDCなどいくつかの地域で、同様の法案が承認されている。今年、米食品医薬品局(FDA)は心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療薬として、一般にはエクスタシーの名で知られる(そしてレイヴの必需品としてお馴染みの)MDMAを承認することを検討中だという。大手製薬会社も、その動きに乗り遅れまいと様子をうかがっている。

現代の精神関連治療は、言ってみれば「次にくる大物」薬が綺羅星のごとく自らの存在をアピールしている状態だ。そういった薬の大部分はどちらかというと、自己判断で勝手に行なうトリップよりも、正式な医療処方として認可される方向を目指している。だが、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の教授で、世界的なドラッグビジネスの歴史に関する著書もあるブリーンは、現在のこの状況に既視感を覚えるのは間違いではない、と断言する。わたしたちは確かに、このトリップ──というか、これに似た状況──を前にも経験しているのだ。LSDの紆余曲折に満ちた文化的、法的、科学的来歴を詳しく調べたことのある人間なら誰でも、その物語がお世辞にも褒められたものではないことを知っている。

CIAのMKウルトラ計画──化学者シドニー・ゴットリーブが主導した、催眠術や向精神薬使用による極秘マインドコントロール実験──は、1970年代半ばに初めてその存在が明るみに出て以来、多くの記録作家を惹きつけてきた(最近の例をあげると、調査報道記者スティーブン・キンザーが2019年に出版した書籍『CIA裏面史:薬物と洗脳、拷問と暗殺』や、ドキュメンタリー作家エロール・モリスが制作した6部構成のネットフリックスのミニシリーズ『ワームウッド―苦悩―』がある。この不気味なドキュメンタリー・シリーズは、CIAに雇われて生物化学兵器を研究していた科学者フランク・オルソンを描いたもので、1953年、彼はゴットリーブによってひそかにLSDを投与された9日後にマンハッタンのホテルの部屋から飛び降り自殺をしている)。

人類学者マーガレット・ミードとその3番目の夫

ブリーンはこの「鏡の間」をさらに拡げてみせる。例えば、彼がこの本の主要登場人物に選んだのは、人類学者マーガレット・ミードと、その3番目の夫グレゴリー・ベイトソンだ。この本に取り上げられたことを彼女たち自身が聞いたら、「さぞかしびっくりするだろう」とブリーンは語る(事実、彼女たちがこれまで幻覚剤の歴史に絡めて語られたことはほとんどない)。ブリーンの説明によれば、この本は、いわばスピリチュアルなガイドの役割を果たしているのだという。彼女たちは波乱に富んだ幻覚剤の物語の内と外を行き来しつつ、「科学を人間の意識を拡張する道具と捉える自らの姿勢」を語ってくれる。

一例を挙げると、ミードはこんなことを書いている。「わたしたちは一種の覚醒状態に到達しなければならない。それが今後、人類の運命を左右することになるだろう」。さらに、こんな一文もある。「わたしたちは、意識的に新たな文明を生み出していく方法を学ぶ必要がある。その文明のなかでは、ますます多くの人類が、自分たちのなかに秘められた能力をどのように扱うべきか、よりよく理解できるようになるだろう」

バリやその他の地域を中心としたトランス状態の文化に関するミードの研究は、長年にわたる幻覚剤への関心の一環として行なわれてきた。1930年代にネブラスカのオマハ族のもとでフィールドワークを実施した彼女は、ペヨーテ[編註:メスカリンの原料となるサボテンの一種]の儀式的使用に関して、「オマハ族はペヨーテを使うことで、社会的結束を強めたり、悟りを開いたり、社会的ストレスを解消したりしている」と敬意をもって記している。

50年代までには、ミードは知識人としてすでにかなりよく知られた存在になっていた。彼女はLSDに興味を惹かれ、MKウルトラ計画の実験に参加して若いボランティアにLSDを投与し、その効果を確認していた。同僚への手紙に、彼女はこう書いている。「LSDのような薬物は、責任ある実験的精神のもとに使用される限りは、統合的かつ洞察力にあふれる効果をもたらす可能性をもつ」。ミードはほかの同僚たちに、自分自身でLSDをやってみようと思う、と打ち明けている。結局彼女はそれを実行しなかったが、その理由は、LSDは自白剤として使われるという評判を耳にしたからではないか、とブリーンは推測する。

55年、ミードはベイトソンとの結婚関係を解消した5年後、新しい恋人となった人類学者ローダ・メトローとの同棲生活を開始した。ふたりはその後、25年にわたってともに暮らすことになる。当時ミードはCIAやその他の政府関係者と近しい関係にあり、機密情報へのアクセス権をもち、すぐれた科学者として広く認められていた。そんな彼女が、LSDのせいでうっかり自分が両性愛者であることを漏らしてしまったら、自分のキャリアをすべて棒に振ることになりかねない。彼女はそれを恐れたのではないか、というのがブリーンの推測だ。

ベイトソンは一般システム理論とサイバネティックスを専門とする人類学者だが、第二次世界大戦中にはCIAの前身であるOSS(戦略情報局)に加わっていた。主に携わっていたのはビルマにおけるプロパガンダ作戦で、彼はこのOSSでの任務中に、向精神薬の軍事使用に興味を示す諜報部門の人間と関わりをもつようになる。ベイトソンはミードとともに、戦後もこういった謎に包まれた人物と連絡を取り合い、さらに神経科学やサイバネティックス、向精神薬、未来学などを専門とする幅広い分野の研究者たちとも交流を続けた。

彼らはジョサイア・メイシー・ジュニア財団が後援する重要な会議で、定期的に顔を合わせていた。59年、ベイトソンはパロアルト近郊の実験室で、詩人アレン・ギンズバーグに初めての幻覚剤によるトリップを経験させる。ギンズバーグはその経験を、ニュージャージー州パターソンに住む教師である父親に書いた手紙でこう伝えている。「それは本当に驚くべき体験だった。音楽を聴きながら横になったぼくは、一種のトランス状態に入っていった……そして、コールリッジが描く『クーブラ・カーン』のような幻覚の世界で、ぼくの意識が見せる幻想が目の前に繰り広げられるのを見た。それは永遠かつ超越的、またこの宇宙の根源と同一のものであるように思われた。すべてのもののなかに存在するその同一性を、明確に理路整然としたかたちで見ることができたのだ。また、ヒンズーの神々が楽しげに踊りまわる美しい映像も見えた」

ギンズバーグは、自身と同じく詩人であった父に、トリップを経験するよう薦めたほどだ。だが、それほどうまくいかなかったケースもある。ベイトソンが海洋学研究者(および感覚遮断タンクの発明者でもある)のジョン・リリーとともに行なった実験では、イルカにLSDを与えたが、結果は悲惨なものになった。結局7頭のうち4頭が死んでしまい、リリーの記述によれば、その4頭はなぜか「食べることも息をすることも拒否」して「自殺してしまった」という。

ベイトソンもミードも、ブリーンが言うところの「幻覚剤による冷戦」の暗黒面と深く関わり合っていた。ふたりともMKウルトラ計画のトップにいた人物と、個人的にも仕事のうえでもごく近しい関係にあった。とはいえ、この本のなかのふたりは、非常に共感のもてる人間として描かれている。ふたりとも自分たちとは異なる文化に偏見なく魅力を感じる柔軟な姿勢をもち、ジェンダーとセクシュアリティに対しては固定観念にとらわれない自由な考えを抱き、何よりも事実を重んじた。

例えば、ティモシー・リアリーは、同性愛はLSDによって「治療」可能な病気であると主張していた。リアリーによれば、なんと、LSDのおかげでアレン・ギンズバーグの同性愛が治った、というのだ。それに対し、一世代上のミードが61年に全米ネットで放映されたテレビ番組『The Rejected』に出演したときのエピソードが、ブリーンの著書のなかで語られている。その番組で、ニューギニアの工芸品に囲まれたミードは、「同性愛やトランスジェンダー的な自己認識は『不自然』なものだという考えを一蹴」し、逆にそれは「人類の可能性がもつ豊かな多様性の一部」なのだと主張したというのだ。

一方ベイトソンのほうは、生涯にわたって、自身の家族からの多大な期待を引きずっていた。彼はふたりの兄弟とともに、著名な英国人生物学者ウィリアム・ベイトソン(遺伝研究を定義する言葉として、世界で初めて「遺伝学(ジェネティクス)」という言葉を使った人物)の息子として生まれ、彼らは3人とも大きな科学的発見を成し遂げるような科学者になることを期待されていた。だが、ふたりの兄弟は早世してしまう──ひとりは第一次世界大戦の終戦のわずか数週間前に、無謀な突撃を命じられた歩兵隊の一員として命を落とし、もうひとりはその4年後に自ら命を絶った。ブリーンの語るところによれば、ベイトソンは、自分と兄弟たちに運命づけられた輝かしい科学的実績を達成するという強迫観念のせいで袋小路に入りこみ、精神分裂症の病因に見当違いの家族力学理論を当てはめたり、リリーとともに先に記したような不幸な実験を行なったりした。

ただ、ベイトソンには卓越した先を読む能力があった。67年にロンドンで「解放の弁証法」と称する超先進的な会議が開催された。そこには、ブラックパンサーのリーダーであるストークリー・カーマイケルや、仏教僧のティク・ナット・ハン、反精神医学の提唱者R・D・レイン、ギンズバーグらをはじめとする錚々たるメンバーが出席したが、そこでベイトソンは化石燃料によって引き起こされる地球温暖化に関するスピーチを行なっている。これは、ある歴史家によると、「一般聴衆の前で気候変動の話題が出た最初のケースだったと思われる」という。ベイトソンは、誰もがLSDを利用して「手っ取り早く知恵を得る抜け道」を探したがる、と嘆いたが、わたしたちがいま直面している環境崩壊の重大さを考えると、そういうことをしたくなる衝動も理解できる、とも述べている。

熱心な探求が公然と行なわれた黄金時代

ブリーンには細部を丁寧に描く才があり、ほんの一瞬登場するだけの人物のことも、じつに生き生きと物語る。たとえばジョージ・ハンター・ホワイト。彼はパサデナ出身の元麻薬捜査官で、CIAのためにLSDの実地テストを行なっていた。このテストは、サンフランシスコのウェスト・ヴィレッジとマリーナ近辺に独身者用の下宿を設置し、そこで何も知らない被験者に密かに(飲食物やタバコに仕込んで)ドラッグを摂取させ、工作員がそれを観察して秘密裏に行動を記録する、というものだった。ブリーンはこのホワイトを、こんな風に描写する。「35歳のホワイトは、例えて言うなら『おそろしく人を脅かすようなボウリングの玉』を思わせる人物で、シベリアンハスキーに似た薄青色の目が、酒焼けした赤い顔に収まっている。常にドラッグに果てしない欲望を抱き、若いころから中国文化に魅せられていた」

こういったブリーンによる描写を目にすると、読者はおそらく、50年代から60年代初頭という時代は、皆が思っているよりもはるかに奇妙な時代だったと気づくに違いない。それはTVドラマ『陽気なネルソン』に描かれているような、のどかな時代ではなかった。幻覚剤の研究に携わる人々は特に、いかにも普通の人間を巧みに演じながら、その一方で密かに異常かつ、ときには邪悪とさえ思えるような実験を粛々とこなしていたのだ。

ニューヨークのマウント・サイナイ病院に勤めるアレルギー専門医ハロルド・エイブラムソンは、それほど知名度も高くない医師で、「外見上はごく平凡な、50〜60年代の典型的な家庭人」として暮らしていた。妻との間には4人の子どもがいて、「日本の根付をコレクションし、ロングアイランド郊外にある豪邸の芝生を丁寧に手入れし、週に1度は近隣の住人たちとブリッジをするのが決まりだった」。だが、このエイブラムソンはじつは化学兵器の専門家であり、実験室で飼っていたタイの闘魚にLSDを与え(また自宅のディナーパーティーに集うお客にも、求められればLSDを与えていた)、MKウルトラ計画で主要な役割を果たしていた人物だった。ブリーンによれば、エイブラムソンは20世紀の幻覚剤研究者のなかで最も影響力のある存在だった可能性が高いという。

実際、50年代後半から60年代前半にかけては、幻覚剤に対する熱心な探求が公然と行なわれた黄金時代でもあった。スイスのバーゼルにあるサンドス研究所の化学者たちが、初めてリセルグ酸ジエチルアミド(LSD)と呼ばれる化合物の合成に成功したのは38年のこと。49年までには、LSDの入った小瓶がスイスの製造工場で量産され、世界中の研究室やクリニックへと出荷された(公式には、LSDを入手できるのは研究に携わる一部の承認を受けた医師のみだったが、ほかのネットワークへと浸透していくのにさほど時間はかからなかった)。

まだ現代の抗鬱剤やそのほか多くの向精神薬が発達する前の時代──幻覚剤の高度成長期が目前に迫るなか、そのさきがけとして60年代初頭、市場に初の精神安定剤が出回り始めるが、幻覚剤の大々的な流行にはまだ至っていなかった時代──そんなころに登場したLSDは、科学の力で明るい未来を約束する、キラキラと輝く夢の薬のように見えた。オールダス・ハクスリーは54年に出版された回顧録『知覚の扉』のなかで、アルコールやバルビツール酸系睡眠薬と比べ、幻覚剤を好意的に評価してこう述べている。「大部分の人にとって、メスカリンはほとんどまったく無害と言っていい」

幻覚剤を試した人の多くは、病気の症状が好転するだけでなく、幻覚剤なしには感知し得なかった実体的世界の知覚に通じる扉が開く経験をしたという。ごく少量のLSDを摂取したときのことを、ハクスリーはこう記している。「閉じた扉の向こうからやってきたのは、認識だった──それは言葉や抽象概念によって何かを知る、ということではなく──いわば自分の内側から、宇宙の何よりも先にある基本的な事実としての愛をはっきりと直接的に知覚する、ということだった」

ときにLSDが、この世の終わりのような地獄に人を突き落とすバッドトリップを見せ、錯乱を引き起こすことがあったのも事実だ。幻覚剤によってしばしばもたらされる自我の崩壊は計り知れぬ恐怖に人々を陥れ、CIAが尋問の手段として採用しようと考えるほどの動揺を引き起こす。しかしLSDを自ら進んで摂取すると、温かい海に包まれるような幸福感や、例えようのない救いをもたらす美のイメージを感じ取ったという人も多かった。

59年、ある新聞のコラムニストから数回にわたってインタビューを受けたケイリー・グラントが、LSDのトリップの経験を告白している。「あらゆる悲しみも虚栄心も、すべて消し飛んでしまいました」と彼は語る。「自分のなかにものすごく強く固い芯があるのを見つけて、とても嬉しかったのです」。その70分のトリップで、グラントはビバリーヒルズの医師のオフィスの口述録音再生機に向かい、宇宙旅行やヘーゲル弁証法のことを滔々と話し続けたという。「すべてのものは、その正反対のものをつくりだします。そうしてすべては循環していくのです」(おそらくはアスコット・タイを身につけたグラントが、あの歯切れのいい、格調高い口調で、こんな夢見心地の体験を語るところを想像してみると、なんだか嬉しくなる)

元共和党選出の下院議員であり、大使の地位にも就いたことがあるクレア・ブース・ルースは、出版界の大立者ヘンリー・ルースの妻でもあった。彼女は娘を自動車事故で亡くした悲しみのせいで鬱状態に陥り、救いを求めて何度もLSDの力を借りた経験から、強力なLSDの支援者となった。彼女は社会的にかなり大きな力をもつ人物で、ときには、当時の副大統領リチャード・ニクソンから政治についての相談の電話がかかってきても、LSDのトリップ中だったせいで電話を切るはめになるほどだった。

「ユートピアへの道をひらく薬」

60年代半ばになると、LSDは「ユートピアへの道をひらく薬」という新たな評判をまとい始める。この評判を先頭に立って煽ったのは、リアリーだった。リアリーは60年に、ハーバード・サイロシビン計画をほかの賛同者とともに立ち上げていた。67年には神経科学者ジェローム・レトヴィンとの議論のなかで、リアリーは「科学者の目指すべき真の目的は、理性を失うほど何かに熱中することだ」と宣言している。医療目的のみの使用から解放されると同時に権力からも切り離されたLSDは、若いヒッピーたちと長く続く関係を築き、その結果、今度は道徳面でのパニックと政治的な取り締まりに曝されることになった。

67年の終わりまでには、LSDはいくつかの州で禁止され、70年には議会によりスケジュール1の薬物に指定、「現時点でいかなる医療目的で使用することも認められず、依存の可能性が非常に高い」薬物としての位置づけが確定する。71年、ニクソン大統領はヘロイン、マリファナのみならずLSDをも含むドラッグに対し、戦線を布告した。かつての盟友クレア・ブース・ルースが自ら摂取してその効能を宣伝し、医療界の権威がこぞって大きな可能性を秘めた精神治療薬と認めたLSDは、こうして危険なドラッグへと姿を変えたのだった。

かつては幻覚剤が褒めそやされ、科学的にも効能を認められていたと現代のわたしたちが知ったところで、何か意味があるのだろうか。現在、LSDやシロシビンといった昔ながらの幻覚剤や、MDMAのような比較的新しい幻覚剤を特定の精神治療に用いることについて、かなり熱心なメディア報道が行なわれていることは事実だ。そういった幻覚剤が、治療の難しい鬱などの改善に効果があるという結果を示す研究もある。この種の幻覚剤には依存の危険性がほとんどないこと、鬱症状や不安症の副作用が急激に増加していること、現在利用可能な薬剤が誰にでも効き目があるわけではなく、あまり好ましくない副作用を引き起こす場合もあることなどを考えると、メディアが幻覚剤に注目するのは、ある意味当然かもしれない(また、もっと広い意味でみれば、現在多くの人が幻覚剤を「ウェルネス」と結びつけて考えるようになってきているせいとも言えるかも知れない。現代の人々が、目的意識に満ちた、心身一体的な状態を目指す方法として、静かな瞑想の場やマインドフルな食事やヨガに加えて、幻覚剤もその選択肢のひとつにあげられているのだ)。

ただ、LSDはこれまで一度も正式に治療薬と認められたことはない、という事実もここで確認しておくべきだろう。これは、幻覚剤研究が法的にも科学的にも最初の全盛期を迎えた50年代後半においてもそうだった。この分野に多大な貢献をした研究者のひとりである心理学者のベティ・アイズナーは、「セットとセッティング」が心理セラピーの質を左右する、という考え方を普及させた人物のひとりだ。柔らかな照明、心地のいい家具、それぞれの患者に合わせた音楽といったものに重きを置く彼女の処置方法は、いま使われているセラピーの手順の基準となった(2020年に出版されたイド・ハルトーグソンの本『American Trip』(未邦訳)によれば、アイズナーは「激しい罪の意識を呼び起こす」ことが多いグレゴリオ聖歌よりも、ベートーベンの協奏曲のほうがセラピーの場にふさわしいと考えていたという)。

だがアイズナーの幻覚剤体験に対する考え方は、次第に神秘主義的な様相を帯びていく。1964年に同僚に向けて書いた文章のなかで彼女は、幻覚剤によるトリップの際に知見を得た「物質」に興味を覚えるようになった、と記している。そういった「物質」は「前世に由来すると思われるものだったり、宇宙からやってきたであろう患者の一面に由来すると思われるものだったりした」という。

要するに、幻覚剤はこれまでほかの医薬品と同じように扱われたことは一度もなかったし、これからも決してそうならないだろう。「幻覚剤をFDAに認可された向精神薬として市場に出回らせようという努力が、かなり本格的に進んでいるとはいえ、その使用目的は多岐にわたるため、それがいずれ『処方薬』のカテゴリーに含まれるようになるとは考えにくい」と、昨年『ワシントン・ポスト』に掲載した小論でブリーンは述べている。ただし、幻覚剤がスピリチュアルなトランス状態の現代的なアクセサリーとして再浮上することもありそうにない。そういったトランス状態、ある種のシャーマニズム的な行為においては、ミードも書いているように、「人々は細心の注意を払って、トランス状態に定期的に陥る人を選び、儀式として訓練したうえで、どこでどんな状況のもとにトランス状態が誘発されるかを管理されてきた」。幻覚剤が医療的な介入とスピリチュアルな探求を生み出し、さらにほかのさまざまな体験をも引き起こすものなのだとしたら、ブリーンが言うように、わたしたちにはその両方を包含する新たなカテゴリーが必要なのかもしれない。

幻覚剤研究の「厳密さと信頼性」

ブリーンの著書において非常に印象的なのは、本のなかで紹介されるミードをはじめとする科学者たちの多くが、未来を楽観的に見ているという点だ。幻覚剤は彼女たちにとって、文化の断層を埋め、文明の進化を推し進める力のひとつだった。現代においては、そういった楽観主義を再現することなど、想像もつかない。わたしたちはいまや、あまりに多くのことを知りすぎてしまったせいで、科学の純粋さを信じることもできなければ、政府の透明性や製薬会社の善意をあてにすることもできず、わたしたちひとりひとりの覚醒が文化的障壁を取り払い、世界を修復する力をもつと認めることもできない。しかし、ある種の懐疑的な姿勢のなかに、これまでよりもわたしたちが賢く物事に取り組めるよう導いてくれる希望がきっとあるはずだ。

たとえば、LSDのプラス効果に関する最近の研究結果を読んでも、現在のわたしたちは多少慎重に考えたほうがいいことがわかる。研究の多くが、非常に細かく選別された、ごく少数の被験者しか扱っていない。そのような調査で、二重盲検状態を保つことは難しい。幻覚剤の試験でプラセボを投与されているほうの人たちは、自分に与えられたのがトリップできる薬ではないことに勘づいてしまうことが多いからだ。

ライデン大学のふたりの心理学者、ミヒール・ヴァン・エルクとエイコ・L・フリードによる最近の学術記事には、現在の幻覚剤研究の有効性を示すために取り組むべき「緊急を要する課題」10件が取り上げられている──例えば利益相反(とくに製薬会社が研究機関に加わって実験を行なう場合)、有害事象の不適切な報告、サンプル数の不足、長期フォローアップの未実施、説得力のあるプラセボ設定の困難さといった問題だ。しかしヴァン・エルクとフリードは、こういった問題を指摘して、幻覚剤研究を中止に追い込もうとしているわけではない。彼らは具体的な提言をすることで、幻覚剤研究の「厳密さと信頼性」を向上させたいと考えている。「わたしたちが望んでいるのは、新たな研究が信頼に足る証拠を用意することにより、幻覚剤を用いたセラピーが特定の患者グループに対して有効なツールとなりうると示すことなのです」

66年、アイズナーの同僚で、ルースにLSDを与えた精神科医でもあったシドニー・コーエンは、幻覚剤研究が道を逸れてしまったことを嘆き、こう表明している。「事故がいくつも起こり、一般の人々は怖がっている。(ドラッグを禁止する)法律も成立しはじめた。わたしたちはこの種の有益なドラッグを文化に定着させるのに……その効能を徐々に明らかにしていくという人類学的な手法を用いていないのだ」。だがおそらく、わたしたちはいまなら、救世主を求めるような熱に浮かされた思いではなく、検証可能な希望をもって、幻覚剤研究を進めることができるのではないだろうか。ドラッグ撲滅運動のような反動を引き起こすことも、ユートピアを約束することもなく、秘密裏に医療倫理を踏みにじる研究者らの手に強力な幻覚剤をゆだねることもなく、ただ幻覚剤の有益な効能をありのままに明らかにする方法がよくわかっているはずだ。

マーガレット・タルボット|MARGARET TALBOT
2004年に『ニューヨーカー』のスタッフライターとなり、法律問題や文化史、社会運動、インディーミュージックに関する記事や解説を執筆してきた。以前は『ニューヨークタイムズ・マガジン』で寄稿ライターとして活動した経験があり、1995年から99年までは『ニュー・リパブリック』の編集長だった。『リンガ・フランカ』の創設メンバーのひとりであり、新米国研究機構のシニアフェローでもあった。99年にホワイティング賞を受賞。

(Originally published on The New Yorker, translated by Terumi Kato, edited by Michiaki Matsushima)

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