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SZ Newsletter VOL.242「フレーム問題と脱未来化」

最新号で特集した空間コンピューティングの可能性(フレーム)から、AIのフレーム問題、都知事選の選挙ポスター掲示板、そして映画『関心領域』へと考察をつなげる今週のSZ会員向けニュースレター。
編集長からSZメンバーへ:「フレーム問題と脱未来化」SZ Newsletter VOL.242
Kim Sayer/GETTY IMAGES, WIRED JAPAN

今週はいよいよ空間コンピューティングを特集した最新号「SPATIAL × COMPUTING」が発売となった。毎度ながら、SZメンバーの方々はMagazineページよりPDFも無料DLできるのでぜひチェックしてみていただきたい。また、前号から定期購読もスタートしている。「ファッション」「空間コンピューティング」、そして次号は「リジェネラティブ都市」と、毎号の特集テーマの振り幅は編集部としてむしろ誇っているところでもあって、もし「テーマ買い」ではなく「WIREDが示す未来」を毎号買っているんだよ、という方はぜひこの機会に定期購読もいかがでしょうか(こちらもSZメンバーにはお得な価格設定だ)。今週のPodcastでは最新号でもフィーチャーしている建築家/研究者の豊田啓介さんがたっぷりと「空間コンピューティング」について語っているのでそちらもお楽しみに。

この特集号の日本語タイトルは「空間コンピューティングの“可能性”」で、「可能性」という単語には「フレーム」というルビを振っている。そこにはいろいろな含意があって、例えばこの場合、人間とコンピューターの関係が2次元から3次元へと大きく変わっていくことを指しているし、そのときに人間が世界そのものを捉えるフレームの変化自体も示唆している。フレームには「切り取る」という能動的な選択と同時に、見えない部分の取捨、というニュアンスがある。有名なのが人工知能(AI)におけるフレーム問題で、例えば「買い物に行って」とAIロボットに頼むとまずはその道中に隕石が振ってきたり大地震が起こって任務を遂行できない確率から計算をし始めて、いつまでたっても計算が終わらずにピクリとも動き出さないとか、哲学者のニック・ボストロムの有名な思考実験で、ペーパークリップの生産量を最大にするようにAIに指示すると最後には人間をすべて殺して材料にしてしまう、というのも、いわゆるフレーム問題(つまりどこまでを検討項目あるいは選択肢とするのか)と言えるだろう。

そのフレーム問題として今週気になったのが、都知事選の悪名高き選挙ポスター掲示板のことだ。ちょうど豊田啓介さんと一緒に最新号にも登場するAI研究者の金井良太さんがそれについてXでポストしていたのだけれど、「人間同士ならば常識的判断が可能かもしれないが、AIが相手だと常識が通じないルールの隙をついてくる可能性が高い」というそのAIの所作を、今回は人間の側が体現していると言えるだろう。そもそも、常識というフレームの外に出ることは、はたしてAIのほうが得意なのか、それとも人間のほうが得意なのか──ちょうど先週開催された「WIRED Fashion」でSynfluxの川崎和也さんと哲学者の下西風澄さんが「生成AIがどんどんおもしろくなくっている」、つまり意外性がなくなって模範解答になっていくことを指摘していて、改めてそんな問いを考えている。

今週観た『関心領域』という映画では、アウシュビッツ強制収容所から壁を隔てただけの邸宅に、ナチス将校の家族が日々を幸せに暮らす様子が淡々と描かれていく。強制収容されたユダヤ人が画面に一切登場しないまま、その叫び声や銃声だけが壁の向こうから遠くに聞こえ、焼却炉(そこで何が燃やされているかは言わずもがなだ)から立ち上る煙や、夜にはその炎に赤く照らされた夜空が日常の背景に映るのみだ。フロックスやバラが咲き誇る美しい庭園や温室、子どもたちが集まる芝生の中央のプール、庭の隅に隠れてキスをする若い男女、幾人もの使用人が準備する饗宴、そうしたもののすべてが、人類史に残る大虐殺の現場から壁一枚を隔てたところで、ウェス・アンダーソン風の美しい映像とともに淡々と進行していくのだ。それは人間のもつ恐ろしいほどのフレーム問題だと言えるし、感情をもたない機械的(ユダヤ人の虐殺はまさに機械的に行なわれた)な所業という意味では、とてもAI的だと感じるのだ。

いまやぼくたちはAIがフレームを“もっている”ことに退屈さを感じる一方で、自分たち自身がフレームに囚われていることに無自覚なままだ。『関心領域』では最後に映像的なギミックがあることで、このフレームが現在でも変わらず社会に存在することを観客たちに自覚させることに成功している。例えば、ガザの人々の苦しみを隣で知りながら日々を幸せに暮らすイスラエルの人々にも、同じようにこの問いは突きつけられている。もちろん、映画の観客も。そしてこれを読んでいる誰もが。つまり、「特定の時代において、国民の大部分が尊重すべき常識的なものとして受容する考え方の範囲」を指す「オヴァートンの窓」という概念があるように、これはとても政治的なことなのだ。

というわけで選挙だ。いまや世界ではAIの立候補者が現れ、人間はその「代理」にすぎないというかたちでルールがハックされている。これから人間が胸に手を当てて判断しなければならないのは、AIにできるかできないか、ではなく、人間よりもベターかどうか、という問いだ。偏見や利権やしがらみ、あるいは無知や無関心によって規定される関心領域の点では、AIだって決して完璧ではないし、さらに言えば完璧である必要はなく、人間よりも優れていればいい。古典的なブラックジョークとして、山道でクマに襲われたとき、あなはクマよりも速く走って逃げる必要はなくて、同行者の誰かより速く走れればいいのだ、というのとある意味で同じことだ。そう考えるなら、ぼくたちが投票すべきなのは人間なのだろうか、それともAIなのだろうか?

その問いもまた、フレーム問題に戻ってくる。ぼくたちはAIに、フレームに収まった凡庸な正解を期待しているのだろうか、それとも、常識の裏を突いてルールをハックすることを期待しているのだろうか(少なくとも、ぼくたちをペーパークリップにしない限りは)。そしてぼくたち人間自身は、その狭量な関心領域を打破することが自力でできるのだろうか(例えば優れた芸術がそうするように)、あるいは今回の都知事選ポスターの掲示板のように、これからは人間がかつてのAIのようにフレームを軽々と飛び越え、常識をハックする役割を担っていくのだろうか。できる/できない、したい/したくない、というマトリックスを含め、この問いも引き続きもう少し考えていかれたらと思っている。

『WIRED』日本版編集長
松島倫明

※SZ NEWSLETTERのバックナンバーはこちら(VOL.229以前はこちら)。

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