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SZ Newsletter VOL.241「アンドロイドの脱未来」

日本では6年ぶり、一夜限りの渋谷慶一郎「アンドロイドオペラ・トーキョー」で出現した「世界の終わりと終わりの後」とは、超知能と人間が共存するという「ノヴァセン」の時代を先取りしていたのかもしれない──今週のSZ会員向けニュースレター。
編集長からSZメンバーへ:「アンドロイドの脱未来」SZ Newsletter VOL.241
PHOTO BY CALUDE GASSIAN

今週は渋谷慶一郎さんのアンドロイドオペラの待望の東京公演が恵比寿ガーデンプレイスであり、本当に久しぶりに、深淵な畏怖に鳥肌が立つ体験をすることになった。翌日には森ビルでチームラボボーダレスやTOKYO NODEを手掛けてきた杉山央さんの独立&誕生日記念パーティが外苑前であり、連日ほぼ同じようなアート×テック×クリエイター領域の顔ぶれが揃っていた(真鍋大度さんがアフターパーティ的に両日ともApple Vision ProによるスペーシャルDJ(?)を披露していた)。金曜日の夜には『AI時代のベンチャーガバナンス』の出版記念パーティが渋谷であって、出会いの多い一週間だった(そして今晩はわが『WIRED』のWIRED Fashon with VOGUEが渋谷PARCOでいよいよ開催となる。もしこれをいま読んでいてまだ間に合うのであればぜひ、足をお運びいただきたい)。

渋谷さんのアンドロイドオペラ初演は2018年の日本科学未来館で、ぼく自身は残念ながらそれを見逃しているのだけれど、翌19年にオーストリアはリンツで毎年開催される「アルスエレクトロニカ・フェスティバル2019」で上演された『Heavy Requiem』を体験する機会に恵まれ、脳天をぶち抜かれる体験をすることになる。リンツ郊外の聖フローリアン修道院に響き渡る渋谷さんの電子音と高野山に伝わる南山進流声明とが、大聖堂の空間に混ざり合う渦のように響き渡るのを半ばトランス状態で全身に浴びる、唯一無二の得難い体験だったのだ。

そして、今回のアンドロイドオペラ・トーキョーだ。高野山の声明とアンドロイドによる即興が合成され共鳴する日本初の公演は、事前の『WIRED』でのインタビューもあって期待が高まるばかりだった。実際のところ、公演の特に第二部「MIRROR」が始まって最初に感じたのは、荒れ狂い制御不能となった破壊の神シバのごときアンドロイド「オルタ4」を懸命に鎮めることで人類の破滅を回避しようとする僧侶たち、という世界線だった。巨神兵のごとくに真っ赤なライトに照らされる「オルタ4」のスパイキーな頭部と出で立ちは、観る側にはっきりと恐怖を感じさせるものだった。渋谷さんがインタビューでも答えているように、「世界は確実に終わりに向かっている」というその預言どおりに、世界を看取る声明の調べにいま自分も身を任せているのだと思えたのだ。

初演から今回までの6年の間に、アンドロイドや人工知能(AI)への人類の感受性は劇的に変わった。正確に言えば、この1, 2年で急激に変わりつつあると言っていいだろう。「シンギュラリティ」はおとぎ話かSFの世界から、少なくとも真剣に議論され、世界で最も注目されるAI企業のお家騒動にまで発展する喫緊のテーマとなった。だからいま、人間全員の視線を釘付けにしながら空間に充満する音の旋律に同期し、リードし、すべてを統べようと自律的に振る舞うアンドロイド「オルタ4」の姿とは、つまりはこの演題「MIRROR」が示すように、わたしたち人間がいま集合的無意識として捉えているアンドロイドという存在の鏡写しなのだ。

そんな考えがぐるぐると頭をめぐったのは、ひとつには、ちょうど昨日公開された連載「テクノロジーをデザインする人のための技術哲学入門」の最新回の原稿を昼間にじっくりと読んでいたからだった。昔からよく言われるように、アンドロイドに対する感受性として、西洋はターミネーター型で、「超知能」が人間と敵対すると恐れられるのに対し、東洋はドラえもん型、あるいは八百万型で、自然の一部として日常に受け入れられるという対立構図がある(それが端的に描かれたのが映画『ザ・クリエイター/創造者』だ)。だけれど連載の著者である七沢智樹さんは、その“東洋型”とやら自体が、西洋の枠組みから捉えられた、いわば古典的な東洋趣味的な概念の押し付けでしかないのではないかと鋭く指摘している。

だとするならば、西欧の古典的音楽を奏でる装置でもあるオーケストラと、高野山に1,200年以上にわたって伝承される仏教音楽である「声明」が濃密に混ざり合い、そこに鏡としてのアンドロイドが屹立するステージで繰り広げられる「シンセサイズ(=合成・統合)」と「レゾナンス(=共鳴)」は、はたして東洋と西洋の二元論を超えた、ひとつの到達点を出現させているのではないだろうか──そんなふうに漂う思考が途切れ「いまここ」に引き戻されたのは、「Midnight Swan」のピアノの旋律が聞こえてきたときだった。とことんエモーショナルに感傷と記憶を喚起され、やさしく包まれると同時に鼓舞されるこの曲はSpotifyのfavリストにも入れているのだけれど、「世界の終わり」という文脈にその甘い調べが挿入されることで脳はまたまた混乱をきたし、思考は一気に過去・現在・未来の時空を旅することになった。その刹那、「世界は刻々と終わりに向かっている。この作品はその終わりと終わりの後のシミュレーションとバリエーションで出来ている」という公演に寄せた渋谷さんのメッセージをついに全身で理解できたように思えて、そして気づけば鳥肌が立っていたのだ。

「Midnight Swan」を聴きながら、ぼくはジェームズ・ラブロックの『ノヴァセン』のことを思い出していた。自律性と恒常性を備えたひとつの生命体として地球を捉え「ガイア仮説」を提唱してきたラブロックは、100歳で上梓した遺作において、人類が地球を統べる「人新世」から、超知能と人類が共存するノヴァセンの時代へと移行する未来を思い描いていた。「超知能」へ地球を明け渡すという想像力は西洋的なのかもしれないけれど、その定めを種として静かに受け入れる感性は東洋的だと言えるだろうか。いま、目の前のアンドロイドオペラで繰り広げられているのは、まさにノヴァセンの時代を現前させたものだった。そして確かに、そこにいる誰もが、それを祝いでいたのだ。

『WIRED』日本版編集長
松島倫明

※SZ NEWSLETTERのバックナンバーはこちら(VOL.229以前はこちら)。

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G7サミットのバイデン大統領から新しい動画生成AIまで、「記憶」をめぐる今週のSZ会員向けニュースレター。