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超富裕層たちの“階級意識”はどれだけ変化したか

世界における超富裕層の数は劇的に増加している。その政治への影響力、国家への関与、慈善事業や民間投資の倫理など、資産家の社会的役割については大昔から議論されてきたが、はたしてマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾス、イーロン・マスクはどうだろうか。
超富裕層たちの“階級意識”はどれだけ変化したか
Westend61/GETTY IMAGES

オックスフォード大学の社会学者、ジョナサン・ガーシュニーが特権階級の行動様式の変化に着目するようになったのは、21世紀の初頭のことだった。いわゆる「黄金時代(Gilded Age)」[編註:19世紀後半から20世紀初頭にかけて]に経済学者のソースタイン・ヴェブレンが論じた「有閑階級」は、すでに絶滅していた。いまや所得の高さは勤勉さと同義だ。「多忙であること」こそが「新たな上位労働者階級としての名誉の証」だとガーシュニーは説いた。近年では、著名なビリオネアたちの面持ちはどこか険しい。マーク・ザッカーバーグジェフ・ベゾスも表情を引き締め、笑顔を見せることは少ない。

最近になって、『Wall Street Journal 』が新たなメガビリオネアの誕生を報じた。米テキサス州の石油試掘者、オートリー・スティーブンス(86歳)だ。この2月にスティーブンスは、自らの会社[編註:エンデバー・エナジー・リソーシズ社]が所有するパーミアン盆地の掘削権を260億ドル(約4兆円)で売却したのだ。これまで45年にわたって、スティーブンスは古いトヨタのランドクルーザーに乗ってオフィスに通う日々を送っていた。はたして彼は、このような大儲けを目指していたのだろうか。どうやらそうではないようだ。「なんだかちょっと寂しくなるね」と、スティーブンスは試掘に明け暮れた日々を懐かしむ。

なぜそれほどまで働くのか? 楽して生きてもいいのではないか? 例えばポロ用のポニーを飼育するとか……。愛する人たちに快適さをもたらすことが、伝統的な価値観だったはずだ。「家族こそが物事の本質」だと、15~16世紀の南欧の法学者たちは説いた。だがスティーブンスの域に達すれば、そんな理屈は意味をなさない。260億ドルもの資産を必要とする家族などないからだ。20世紀初頭の世界的大富豪で、テキサス州の石油王だったハロルドソン・L・ハントは次のように語っている。「現実的な話をすれば、年収が20万ドルもあれば、わたしと同程度の暮らしができる。お金というのはただ数字にすぎず、重要なのはゲームだ」

そのゲームとは、影響力やレガシーや資産額を巡って繰り広げられる、超富裕層たちの競争のことだ。だが、大不況によって社会的不平等が深刻化したことで、やや不穏な響きを帯びるようになった。2013年に『21世紀の資本』を発表したトマ・ピケティに同調する研究者たちは、過去に目を向け、現在とは異なるかつての社会で不平等がどこまで深く根付いていたのかを突き止めようとしている。イタリアの歴史学者、グイド・アルファーニの新著『As Gods Among Men: A History of the Rich in the West(人間の中の神々として――西洋における富裕層の歴史)』[未邦訳]には、そのような研究者たちの政治的視座や、気が遠くなるほどの歴史的文脈が綴られている。

ただし、アルファーニが論じているのは、不平等のあり方というより、巨万の富がいかにして集積され、用いられ、正当化されてきたかという点だ。政治への影響力、国家への関与、慈善事業や民間投資の倫理など、現在の世論で取りざたされる大富豪に向けられた懸念は、大昔から存在していることがわかった。つまり富裕層は、いにしえの時代から人々を煙に巻いてきたのだ。ルネサンス期の北イタリアで、(都市型で金融系、表向きは実力主義の)近代的な金満家たちが出現すると、市民の多くが「そうした富豪の存在によって悩みを抱えることになった」とアルファーニは述べている。「つまり富裕層をどう扱えばいいのかわからずに困惑したのだ」

「クジラが銛で狙われるのは浮上したときだけだ」

これまで、超富裕層には、自分たちの富がもたらす社会問題については議論を避けるという単純な対応をとる傾向があった。寡黙なことで知られる巨大投資家のデビッド・ゴッテスマンは10年ほど前、『The New York Timese』の取材に対して、「クジラが銛で狙われるのは浮上したときだけだ」と語った。ところが最近では、クジラたちがあらゆる場所に姿を現すようになった。この冬だけでも、米富豪のマーク・ローワンがペンシルバニア大学に対して、同じくビル・アックマンがイェール大学に対して、学長の解任を求めるキャンペーンを公然と打った。また投資家のジェフリー・ヤスは、自らが出資しているTikTokへの制裁を撤回するよう共和党に迫った。

いまをときめくビリオネアといえば、イーロン・マスクの名が挙げられるが、ソーシャルメディア界隈の騒動に加え、救済者としての自意識が際立つこともその理由だ。サム・バンクマン=フリードの暗号通貨、効果的利他主義というイニシアチブ、サム・アルトマンによる人工知能(AI)の開発とそれに関する警告は、いずれも似たような印象を与えるプロジェクトだ。包摂的で理想主義的な言語を操りながら、営利目的の戦略を論じ、第3四半期の配当より人類の未来そのものを見据えているかのように振る舞う。

不平等の実態が白日の下にさらされることで富裕層にスポットライトが向けられるなか、(ウォルト・ディズニーの)遺産相続人であり慈善活動家でもあるアビゲイル・ディズニーを筆頭に、富裕層への増税を求める声が高まっている。22年にダボスで世界経済フォーラムの年次総会が開かれた際には、「課税か暴動か」と憂慮するオープンレターが公開された。ただし彼らはリベラル派だ。超富裕層が巨万の富を得るのは当然だという、苛立たしい主張のほうが主流だろう。

マーク・アンドリーセンは、20年秋にシリコンバレーで喝采を浴びた「The Techno-Optimist Manifesto(テクノ楽観主義宣言)」のなかで、「メリットや野心、努力、達成、偉大さに対する反動こそが、わたしたちの敵だ」と論じた。リバタリアンとして知られるアルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領は、この1月のダボスで、グローバルエリートたちを前に、「あなたたちの野望が不道徳だなどと誰にも言わせてはなりません〔略〕あなたたちは社会の恩人です。あなたたちはヒーローなのです」と演説した。その発言に対してイーロン・マスクは賛辞で応じた。演説するミレイ大統領を映すラップトップの画面を見ながら、美女とのセックスに興じる男性の写真をツイートして、ミーム化を狙ったのだ。

評論家たちが超富裕層を論じる際には、桶に群がるブタや吸血イカといった、野生の王国のアナロジーが使われることが多い。アルファーニは、「彼らはいわば、真珠貝の中の真珠のようなものだ。確かにまばゆく輝いているし、真珠貝の生体から生み出されたものだ。しかし同時に、貝にとっては余計なものともいえる」と、穏やかに例えてみせた。わたしたちは富裕層に対して、具体的にどのような行為を、またどのようなあり方を求めているのだろうか。その問いは、彼の著書に彩りを与えるだけでなく、わたしたちの政治に直結する。

コジモ・デ・メディチの存在

当初は、侵略と防衛がその手段だった。富とは領地のことであり、中世ヨーロッパでは武力によって領土を増やし、それを保持した。1066年、アラン・ルーファスというブルトン貴族は、従兄のウィリアム征服王とともに英仏海峡を渡り、重要な戦いでウィリアム軍の左翼を担った。手柄を挙げたルーファスには、英ケンブリッジシャーの広大な土地が領土として与えられたが、その大部分は敗軍の女王エディス・ザ・フェアの所有地だった。「ただし、これはルーファスが莫大な財を築く序章にすぎない」とアルファーニは書いている。ほどなくしてヨークで反乱が起こると、ルーファス軍は鎮圧のために召集され、その残虐な行軍によって10万の敵兵を殺戮したとも言われている。領土はますます拡大し、ルーファスの総収入はイングランド全体の7%超に及んだと、アルファーニは解説する。これほど多大なシェアを手にしたイングランド人は、過去に例を見ない。

それから200年も経たないうちに、ヨーロッパで最も裕福な人たちは、不動産ではなく商業と金融の分野で現れるようになった。その中心地となったのは、北イタリアだ。ローマから中近東へのルートをたどるキャラバン隊が、積み荷を満載してジェノヴァ、ラグーザ、ピサを巡った。革新的なイタリア人銀行家たちは、複式簿記、信用手形、為替手形を生み出し、キリスト教圏の全域からバチカンへと集められる教皇税の管理業務の一端を担った。イングランド王室は百年戦争に際して、フィレンツェの銀行2行から融資を受けた。ハプスブルク家による帝国統一では、ベルガモのフランチェスコ・デ・タシスが帝国郵便の設立を請け負い、16世紀の初頭にはブリュッセルからの小包が5日のうちにインスブルックに届くようになった。

こうした世の中の変化は哲学者たちを刺激した。神学者は金融の異常さを指摘し、トマス・アクィナスは「貨幣は貨幣を生み出さない」と論じた。作家のティム・パークスは『メディチ・マネー:ルネサンス芸術を生んだ金融ビジネス』のなかで、「その死期が迫るにつれて、富豪一族の心中では高利に対する罪の意識がなくなっていった」と書いている。金融資産に対する反感は、その規模に対する懸念と無関係ではなかった。フランス王シャルル5世の顧問だったニコル・オレームは、17世紀に、「超富裕層はあまりにも不平等であり、政治権力において他者を圧倒しているため、人々に混じる神と捉えるのが適当」だとして、民主的都市で社会の均衡を保つには富裕層を追放すべきだと説いた。ルネサンス期の富裕層が交わしていた書簡からは、自らの行ないが神によって、また世間によって否定されるのではないかという不安の跡が見てとれる。フィレンツェの豪商、フランチェスコ・ダティーニは、仲間たちから銀行を興すのを思いとどまるよう忠告を受けた。私財を投じて貧民のための病院を建てたとしても、軽蔑は免れず、名声は損なわれることになるだろう、と。

アルファーニが描く歴史のなかで、富裕層という問題に対するひとつの解答として示されているのが、コジモ・デ・メディチの存在だ。コジモがメディチ銀行を受け継いだ1420年、すでにローマ支店ではバチカンの財務管理を任されていた。融資は慎重に、結婚は戦略的に、そして事業の拡大は容赦なく進められた。「歴史書に見るコジモは、若々しさとはおよそ無縁の人物」だとパークスは書いている。やがてコジモは、フィレンツェの大地主リナルド・デリ・アルビッツィの寡頭政治と敵対していく。

アルビッツィ家が強行するルッカとの戦争に反対したコジモは、1433年、死刑を企てるリナルドによって投獄される。減刑を勝ち取ったコジモは、銀行事業とおかかえ建築家ミケロッツォを従えてヴェネツィアに逃れ、図書館を備えた新たな修道院を寄贈し、自らは壮麗な宮殿を建てた。それから1年も経たないうちに、アルビッツィの戦争が悲惨な結末を迎え、フィレンツェは財政破綻に陥った。異次元の資産をもつコジモにとっては好機だった。フィレンツェの戦争負債を肩代わりしたコジモは、翌世紀になってニッコロ・マキャヴェッリが記したとおり、「民衆の恩人、祖国の父」と崇められるようになった。

それからの30年間、権力の座に就いたコジモは、ソドムの支援者などという汚名を退けながら、(マキャヴェッリの父の従兄弟2人を含む)政敵を淘汰して君臨した。そして同時に、社会貢献に尽くした。1438年には、ローマ教会とビザンチン教会の和解を目的としたフィレンツェ公会議を後援し、ヨーロッパでおそらく最初の公共図書館であるプラトン・アカデミーとメディチ図書館を設立する。コジモの広報担当者のひとりに、かつてコジモの家庭教師を務めたトスカーナ出身の学者、ボッジョ・ブラッチョリーニがいた。富豪の果たしうるふたつの役割として、博愛主義によって街を美化し、街の危機管理のための「金蔵」を与えることだとコジモに説いて模範を示したのが、ブラッチョリーニだ。「病人や弱者を助け、人々の必要を満たすための豊かな手段」を持つ富裕層は、「街の神経系」だ。その存在なくして街は機能しえない。

富の相続の力学

しかし、近世ヨーロッパの富豪たちの振る舞いは、必ずしもブラッチョリーニの理想に即したものではなった。フィレンツェはその共和制政治においても人文主義的な華麗さにおいても例外と言えたが、宮廷には野心と狡猾によって巨万の富を築こうとする者が多かった。16世紀に私掠船を率いたフランシスコ・ピサロは、インカ帝国の皇帝アタワルバを人質にとり、身代金として85立方メートルの金とその倍量の銀を要求した(身代金は支払われたが、ピサロは結局、アタワルバを殺した)。ピサロはその財でスペインでの政治的地位を手に入れ、弟に南米の帝国を任せた。17世紀の終わりには、フランスの商人アントワーヌ・クロザが、融資を通じて宮廷での地位を高め、息子たちはその地位を利用して貴族に便宜を図り、ついにはフランス領ルイジアナにおける貿易独占権を手中に収めた。

激動の数世紀の中で、社会秩序は繰り返し描き変えられたが、アルファーニは当時の政治的変化には大きな関心を向けておらず、フランス革命やカール・マルクスについてはあっさりとしか触れていない。彼が着目しているのは、財力の固定化において見られるお決まりのパターンだ。産業化の過程で誕生した「大量の富豪階級」は、その地位を築き上げるまでにどれだけの創造性や革新性が必要だったかにかかわらず、「創始者が死去したのちには、例えば政治家や高官を目指すか、あるいは貴族階級に食い込むなど、即座に方向転換が計られることが多い」と、アルファーニは論じる。

その論に照らせば、マスクやアンドリーセンが一代でどれほどの富を築いたとしても、高利貸しの富と同じく、正当化されることはないだろう。だからこそ、現代のビリオネアたちは、自分がどれほど仕事に打ち込んでいるかを示そうと躍起になるのかもしれない。歴史的に見ると、資産の固定化はほぼ自然なかたちで起きている。18世紀のオランダでは、植民地主義と商業化によってもたらされた富が、経済秩序を根底から覆し、反乱者たちはたちまち寡頭政治家の一群と化した。ロッテルダム市議会では、議員の83%が一世代のうちに近親化したという。財力の固定化が計算づくで進められた例もある。マイアー・アムシェル・ロートシルト[編註:英語読みだと「ロスチャイルド(Rothschild)」]の孫世代の18組の婚姻のうち、16組は叔父と姪、あるいはいとこ同士の結婚だった。

富の力学とは、不可避的に富の相続の力学だ。それはかつて、米国よりヨーロッパにおいてはるかに顕著だった。1910年当時の米国では、巨大資産家の半数あまりが相続によるものだったが、ヨーロッパ諸国ではその比率が75%に達していた。ただし、30年代の大恐慌とその後の第二次世界大戦を経て、その関係は逆転した。20世紀の半ばになると、資産に占める相続の割合がヨーロッパより米国で高くなった。米国での富が巨大化したことによって、あるいは米国の民主主義的合意が明確だったことによって、米国の富裕層には自己矛盾と直接的に向き合う傾向が見られた。

例えば、アンドリュー・カーネギーは労働者を搾取する一方で、「カーストの強固化」の可能性を懸念し、その緩和を目指して数多くの公共図書館を建てた。他方でジェイ・グールドは、悪びれることなど何ひとつないと開き直って、慈善活動には目も向けずに鉄道王国を築き上げ、娘をフランス貴族に嫁がせることに注力した。資産家はその巨万の富をもって何をなすべきなのだろうか。惜しみなく散財することもできるが、それは誰もが認めるとおりの浪費でしかない。あるいは、貯蓄して富を溜め込むこともできるだろうが、それでは不平等が深まるばかりで、好ましくないかもしれない。「何をどうしたところで、資産家は批判にさらされるものだ」と、アルファーニは述べている。

いわゆる「泥棒男爵」の場合は、その体制が批判によって崩壊するのに1907年まで時間を要した[編註:泥棒男爵/robber barons: 19世紀の米国で寡占もしくは不公正な商慣習を利用して産業を支配し、莫大な私財を蓄えた実業家や銀行家を指す俗称・蔑称]。直接的なきっかけは、銅市場で株式の買い占めをもくろんだモンタナ州の大物トリオの計画が失敗したことだった。彼らの正体が露呈したことによって、計画を支援していたのがウォール街で第三の規模を誇る信託銀行だったことが判明し、取り付け騒ぎに発展した。同行は間もなく破綻したものの、銅の不正取引を主導していた証券会社や他の銀行も危機的状況に陥った。

JPモルガンは資本家たちの連合体を組織し、自社資金を投じて暴落を食い止め、それでどうにか銀行システムを持ち直すことができた。モルガンは、コジモ・デ・メディチに倣ったのだ。ただしこのときは、少数の富裕層のもつ影響力の大きさに対して市民感情が爆発した。喧々諤々の公聴会を経て、進歩的な議会によって連邦準備制度が設立された。この出来事を機に、「金蔵」のさらなる大型化が計られ、超富裕層のみならず市民一般の拠出も求められるようになった。ルネサンス以降、富裕層はふたつの社会的役割を担っていた。それが今日、ひとつに絞られたのだ。つまり、チャリティ(慈善)である。

富裕層としての社会的機能が失われた

超富裕層の人数は劇的に増加している。1990年から2020年のあいだに、米国のビリオネアの数は9倍に膨れ上がった。中国では、20年から21年の1年間でビリオネアが60%も急増した。ここまでの規模になると、私有財産も国家によって縛られなくなる。コンサルティング企業は現在、国境を越える富裕層の移動を追跡している。22年だけでおよそ11,000人が中国を去った。2010年代が税のオフショアの時代だったとするなら、20年代はシンガポールにファミリーオフィスを構える時代だろう。巨大資産家にとっての民間投資と慈善活動の拠点だ。

過去100年、進歩主義者たちは、富の再分配というレンズを通してこの問題を見続けてきた。進歩主義者たちが資産家に求めるのは、富の公平な分配だ。税金とは「富裕層が社会に貢献するための(制度的にも文化的にも)適切な方法だ。寄付ではなく、納税だ」と、アルファーニは結論づける。ともすれば古風で、おとなしく聞こえる。だが、政治的に不安定で緊張感の高まったパンデミック後のいま、そのような感覚は薄れつつある。パンデミックの期間は、公的資源のひっ迫と貧困層への積極的な緊急財政によって、不平等が急速に低減した時期だといえるが、(スペインを除いて)富裕層に対して意味のある増税を課した先進国はなかった。

資産家が階級なりの役割を担うという発想は、いまではかなり時代遅れだ。ジェフ・ベゾスとアビゲイル・ディズニーとでは、能力も権力も洞察力も大きく異なる。彼らに同じあり方を期待しても仕方がない。ただし、富裕層が全体として明確な社会的機能を失ったというアルファーニの洞察は、事実によって裏付けられている。富裕層が個人資産を正当化することで一般大衆からの圧力に対応してきたのが、いまの「マスク時代」だ。彼らが闘争的なソーシャルメディアの存在を維持し、実力主義にこだわり、営利目的の起業を論じるに際して理想主義的な言語を操り、自らの英雄的な働きぶりを喧伝するとき、その目的は富の集中の正当化というより、手にしている富の山を守ることにすぎない。現状では大物たちの階級意識は脆弱だ。

このような巨万の富のあり方が民主主義に対して及ぼす脅威について、アルファーニはもちろん頭を悩ませているが、明確な結論には達していない。現在では、巨額の資産とその利息のバランスをどうとるべきかも単純ではなく、個々のビリオネアが社会に対して影響力を行使するのも困難だ(例えば、共和党と民主党への超富裕層からの献金はほぼ相殺される関係にある)。ただし、この状況はいつでも変化する可能性がある。そのため、大衆としてのわたしたちや反格差運動のレガシーは、不穏かつ不安定な立場に置かれたままだ。富裕層との階級闘争に挑むのではなく、わたしたちはいま、クジラと並んで泳いでいるのだ。

ベンジャミン・ウォレス=ウェルズ|BENJAMIN WALLACE-WELLS
2006年に『ザ・ニューヨーカー』への寄稿を始め、2015年にスタッフライターとして同誌に加入した。米国の政治と社会をテーマにしている。以前は『ニューヨーク』、『タイム』、『ローリングストーン』にも寄稿していた。執筆記事が『The Best American Political Writing』を初めとしたアンソロジーに収録されたこともある。

(Originally published on The New Yorker, translated by Eiji Iijima/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)


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