──『WIRED』日本版VOL.53のテーマは、Apple Vision Proでも話題の「空間コンピューティング」です。ソニーのデザイン部門であるクリエイティブセンターも、情報を“モノ”や“コト”に溶け込ませる活動を10年近く続けていますよね。
はい。2023年には、「STAYDREAM」と題し、家具ブランドのステラワークスと共同で開発したセンシングテクノロジーを埋め込んだ家具のプロトタイプを展示しました。例えば、わたしたちが「BYOBU Partition (Concept)」と呼んでいる家具があるのですが、これはパーティションでありスピーカーです。板自体が鳴るスピーカーなので、一見するとどこから音が鳴っているかはわかりません。そこから鳥の声や雨風の音を流すと、外で食事をしているような感覚になります。
──屋外のいわゆるアンビエントノイズを、室内で聞くということですか?
ステラワークスのペンダントライト「エブリデイ」を用いたインスタレーションでは、センシングによって人の位置を認識し、人がいるところだけ明かりを強くしたり、会話が盛り上がっているときにスピーカーから鳥のさえずりがしたりといった仕組みもつくりました。まるで野外の大きな木の下で食事をしているような感覚を目指したんです。室内に外界のアンビエントノイズをもってくると、“セミ没入”のような感覚が生まれるんですよね。
──自然と会話に没頭してしまう環境だと。
そうです。人は普段、無意識に周囲の景色や音をとりこむかどうかをコントロールしています。集中しているときは周りの声が聞えなくなったり、周りで起きていることが気にならなくなったり。これはパッシブ(受動的)な没入の状態ですね。一方で「これから集中するぞ」と考えて部屋にこもるというような、アクティブ(能動的)な没入もあります。
言語化できない心地よさも表現する
──空間コンピューティングの文脈だと、スマートグラスをつけて作業をするというようなことでしょうか? ソニーも2024年のCESでXRヘッドマウントディスプレイとそのコントローラーを発表していましたよね。
はい。クリエイターや産業利用を想定したもので、完全にアクティブな没入の例です。例えばテーマパークなどのロケーション・ベース・エンターテインメント(LBE)も、空間とデジタルが融合した場所に自ら入っていくアクティブな没入と言えます。
──そう考えると、すでにある程度の技術として可能になっているとも言えますね。パッシブな没入のための技術はどうでしょう?
「STAYDREAM」は、パッシブな没入を生むためのプロジェクトでした。ユーザーの指示なしにパッシブな没入感をつくるには、コンピューターが空間とそこにあるコンテクスト(文脈)をしっかりと理解し、一方でその曖昧さをコントロールできなければなりません。今後はビジュアルや音はもちろん、匂いや温度なども認識できる高い精度のセンシングが必要になります。高度な技術ですが、空間コンピューティングのポテンシャルはそうしたパッシブな没入にあると思うんです。やがて、自分で言語化できないような雰囲気や心地よさまで再現できるテクノロジーが出てくるかもしれません。
──テキストや画像、音声などさまざまなデータを処理するマルチモーダルAIも必要ですよね。
そうしたAIは間違いなくクリエイションの助けになると思っています。加えて、空間コンピューティングの技術が普及していくにつれて、同じ空間にさまざまな文脈がシームレスに同居するようになります。パンデミックを通じて、空間における公私の境界がどんどん曖昧になりましたが、今後は空間コンピューティングによってエンターテインメントやファッション、食などさまざまな領域が同じ空間でシームレスに統合されていくようになるでしょう。そうした文脈を曖昧にコントロールしたいならば、まず建築や食といった実装先の領域の文脈をよく理解し、そこにどう相性のいいテクノロジーを入れるかを考えなければなりません。
“境目を溶かす”こと
──田幸さんは英国を拠点に活動されていますが、特にロンドンにはイマーシブ施設が多いですよね。
大きな空間の壁や天井全面に映像作品を映す施設や、演者と同じ空間に観客が入って劇を体験するイマーシブシアター(体験型演劇作品)と呼ばれる演劇の形式など、より多くの人に開かれたアクセシブルでインクルーシブな没入型体験がトレンドです。もちろん同様の施設は世界中にありますが、ロンドンはその最先端だと思います。投資の額も大きいですし、しっかりビジネスにもなっています。
──投資先としては、エンターテインメントの領域なのでしょうか?
そうとも限りません。先ほどお話したように、デジタルをさまざまな領域にどう取り込むかは多くの分野で実験、実装されています。例えば、ロンドン芸術大学傘下のロンドン・カレッジ・オブ・ファッション(LCF)の新しいキャンパスには、ソニーの高画質LEDディスプレイ Crystal(クリスタル) LED VERONAが導入されました。
──デジタル空間を映し出すディスプレイですよね。最新号でも取材しています。その手前の被写体を同時に撮影してリアルタイムに合成するバーチャルプロダクションと呼ばれる手法のためのものですよね。
はい。LCFでは、バーチャルな背景とランウェイを組み合わせたり、コンテンツを制作したりと、さまざまな取り組みが行なわれる予定です。映画撮影などに使えるクオリティの巨大なディスプレイが、例えばファッションの専門学校に導入され、それを研究開発や教育に活用するといったユニークな取り組みがすでにロンドンでは始まっているんです。
──そうした取り組みが起きやすい土壌があるのでしょうか?
ヨーロッパ、特に英国の人たちは“境界を溶かす”ことが上手なように思います。さまざまな言語や文化的背景の違いを曖昧にして尊重し合ってきた歴史もありますし、テクノロジーとエンターテインメントやファッション、食といった日常体験の境界をつなげるのも得意です。
──越境性が空間コンピューティングの時代にはさらに重要になってくるのですね。
ぼくらが取り組んでいるデザインも、もちろんプロダクトや空間、サウンド、さらにはプログラミングやAIなど、すべての専門性を越境、総合して最適な体験をつくるためのものになっています。ソニーで言えば、これまで培ってきたセンシングの技術があるので、それをどう空間に溶け込ませていくかが、空間コンピューティングにおけるぼくらデザイナーのミッションだと思っています。
(Interview by Tomonari Cotani, Text by Asuka Kawanabe)
※雑誌『WIRED』日本版 VOL.53 特集「空間コンピューティングの“可能性”」より加筆転載。
雑誌『WIRED』日本版 VOL.53
「Spatial × Computing」
実空間とデジタル情報をシームレスに統合することで、情報をインタラクティブに制御できる「体験空間」を生み出す技術。または、あらゆるクリエイティビティに2次元(2D)から3次元(3D)へのパラダイムシフトを要請するトリガー。あるいは、ヒトと空間の間に“コンピューター”が介在することによって拡がる、すべての可能性──。それが『WIRED』日本版が考える「空間コンピューティング」の“フレーム”。情報や体験が「スクリーン(2D)」から「空間(3D)」へと拡がることで(つまり「新しいメディアの発生」によって)、個人や社会は、今後、いかなる変容と向き合うことになるのか。その可能性を、総力を挙げて探る!詳細はこちら。