映画『フェラーリ』マイケル・マン監督インタビュー:「自分に疑問を抱き、葛藤する人物にこそ生まれるドラマを描きたい」

レーシングドライバーとしてキャリアをスタートし、やがて、卓越したデザイン&エンジニアリングが結晶したマシンによって無二の価値観を生み出した男、エンツォ・フェラーリ。その波乱に満ちた生涯のなかでも、とりわけ苦悩に満ちた数カ月を描いた映画『フェラーリ』の公開が始まった。監督のマイケル・マンが、同作品が生まれた背景を語る。
映画『フェラーリ』マイケル・マン監督インタビュー:「自分に疑問を抱き、葛藤する人物にこそ生まれるドラマを描きたい」
PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

ロバート・デニーロとアル・パチーノが競演した傑作『ヒート』(1995年)やアカデミー賞7部門にノミネートされた『インサイダー』(99年)などで知られる名匠マイケル・マンのクルマ好きは有名だ。

なかでもフェラーリには格別の愛着を抱き、テスタロッサなど数台を所有しているといわれ、60年代の耐久レース“ル・マン"を舞台にした実話の映画化『フォードvsフェラーリ』(ジェームズ・マンゴールド監督)ではエグゼクティブプロデューサーも務めている。

マイケル・マン | MICHAEL MANN
1943年米国・シカゴ生まれ。映画監督、プロデューサー、脚本家。ウィスコンシン大学マディソン校で学んだ後、ロンドン映画学校で映画製作を学ぶ。代表作に『ヒート』(95)、『インサイダー』(99)、『コラテラル』(2004)など。


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そんなマイケル・マンが30年以上構想を温めた『フェラーリ』が、ついに日本公開となった。“F1の帝王”の異名を取るイタリアのスポーツカーメーカー「フェラーリ」の創業者であり、モータースポーツに情熱を注いだエンツォ・フェラーリの伝記映画である。

映画『フェラーリ』は7月5日より全国公開中。https://www.ferrari-movie.jp/

「エンツォ・フェラーリという男は、本質的にはレーシングドライバーなのだと思う。実際、1920年代にはレーシングドライバーを志していた。それは、70年代に宇宙飛行士を目指すようなものだったんだ。いまで言えばIT革命のような革新的なものだったろう。レースカーのドライバーになるために、彼は信頼性の高い高速エンジンを初めて手に入れた。おそらく当時、これほどロマンチックなものは地球上に存在しなかったのだと思う」

本作のワールドプレミアが行なわれた第80回ベネチア国際映画祭においてマイケル・マンはそう語りつつ、「まさに、やり遂げたんだ」と同作品の完成に胸を張った。

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

企画が最初にもち上がったのは、30年以上前になる。91年、ブロック・イェイツによる伝記本『エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像』が出版されると、シドニー・ポラック監督と脚本家トロイ・ケネディ・マーティンとともにマン監督は映画化を模索した。しかし実現することはなく、ポラックとマーティンはそれぞれ2008年、09年に他界。映画のエンドクレジットでは、ふたりに献辞が捧げられている。

当初から3人は、エンツォ・フェラーリのありきたりの伝記映画をつくるつもりはなく、57年の約4カ月に焦点を当てた脚本を構築していたが、本作もそのアプローチは踏襲された。

「二面性という言葉は使いたくないけれど、彼には二面性以上の複雑さがある。そんな彼の人生において、流動的で重要な出来事がたまたま約4カ月という期間に集中していているため、そこにフォーカスすることで、非常に人間的なキャラクターをつくり出し、ドラマを生み出すことができると考えたんだ」(マイケル・マン)

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

1892年にイタリアのエミリア=ロマーニャ州・モデナで裕福な家庭に生まれたエンツォは、10代で父を病死、兄を戦死で亡くした。自らも徴兵され、第一次世界大戦の戦場に赴くが、病気に倒れた。除隊後、レーシングドライバーとして活躍するかたわら、アルファ ロメオの代理店などを経て、1947年にはフェラーリ社を設立し、レーシングマシーンを開発、本格的にモータースポーツに参戦する。フェラーリは、50年に始まったF1を始めル・マン24時間レースミッレミリア、タルガ・フローリオなどの大会で素晴らしい成績を残し、エンツォは“コメンダトーレ(名誉ある人物を指すイタリア語)”と呼ばれ、カリスマ的な経営者として名を馳せた。

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

57年は、そんなエンツォにとって大きな転機となった年だ。

前年には、後継者として期待されていた息子のアルフレード・フェラーリ(通称ディーノ)を24歳という若さで亡くした(難病による病死)。私生活では第二次世界大戦中に出会った愛人リナ・ラルディから、ふたりの間に生まれた12歳の息子ピエロの認知を迫られる一方、妻のラウラにももうひとつの家庭の存在を知られてしまう。会社の経営状態も悪化し、買収の危機に瀕している。そんななかで挑んだミッレミリア──1,000マイルの公道を走り切るレース──で、フェラーリは観客9人とドライバー2名が死亡する大事故に見舞われる。つまりその年は、90年に及ぶ彼の人生において最大の危機に直面し、混沌としていた時期であった。

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

「わたしは、昼間からリビングでTVを見ているような男には興味がないんだ。わたしの映画の登場人物に共通点があるとすれば、彼らは自分の置かれている立場を意識し、自分に疑問を抱き、葛藤している人間だという点だ。これは『ALIアリ』のモハメド・アリ、『ラスト・オブ・モヒカン』のホークアイ、あるいは『ヒート』のニール・マッコーリーやヴィンセント・ハンナ、『インサイダー』のローウェル・バーグマンにも当てはまる」

マイケル・マンといえば、『パブリック・エネミーズ』の撮影時に100台のクラシックカーを集めたことで知られるが、本作では当時のフェラーリのレプリカを3Dスキャナーを駆使して精密につくり上げた。それに加え、本作品の製作を知ったコレクターから、57年のミッレミリアを走ったクルマ──メルセデス300SLやマセラッティ等──の提供があったという。

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「そう、冒頭で登場するマセラッティは、ニック・メイソン(ピンク・フロイドのドラマー)のクルマだよ。けれど、(撮影用の)フェラーリは完璧に制作したんだ。速いだけでなく、安全で信頼性のあるものでなければならないから、例えば、現代的なドライブトレインを備えていなければならなかった。それに当時のドライバーはシートベルトをしていなかったけれど、われわれのドライバーは見えないように安全ベルトをしているよ」

『Mank/マンク』『ザ・キラー』などデヴィッド・フィンチャーとの仕事も多いエリック・メサーシュメットによる撮影は美しく、カーレースシーンは迫力に満ちている。これもマンらしいこだわりに満ちている。レースを撮りたいなら、レースに関して熟知していることは不可欠だとマンは語る。

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

「わたしは90年代後半から2004〜05年にかけて、「フェラーリ・チャレンジ」に挑戦していたことがある。スピードに関して絶対的なものを撮ろうとすれば、その感覚を得るのはレース場の方が簡単だからね」

かのクリストファー・ノーランが敬愛するように、CGに頼らない実物主義をできる限り貫くマンは、本作でもエンツォの本拠地モデナでの撮影を敢行した。

エンツォを演じたアダム・ドライバーが「一時はモデナの町全体がわたしたちの映画に携わっているように思えた。みんな同じことを成し遂げようとしていた」と語ってくれたが、本作はハリウッド並の大作でありながら、インディペンデント映画づくりを踏襲している作品でもある。

PHOTOGRAPH BY LORENZO SISTI

今年81歳になった巨匠の心意気が十二分に伝わる快作である。