新型デロリアンをつくるのは誰か?

父がつくった有名なスポーツカーが映画史に残るタイムマシンになってから数十年。キャット・デロリアンは、その現代版リメイクをつくりたいと考えている。ただ、問題がひとつあった。彼女の名前は商標登録され、その権利をもつのは他人なのだ。
VIDEO: GETTY IMAGES; ÁNGEL GUERRA

2020年の秋、新型コロナウィルスのパンデミックで外出制限が敷かれたスペイン。アンヘル・ゲラは退屈しのぎに何かせずにはいられず、夢のクルマを落書きしていた。当時38歳のカーデザイナーは、初恋のクルマにオマージュをささげたいと思った。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で白い煙の中から現れたタイムマシン、デロリアンDMC-12だ。

ゲラがコンピューターでつくり上げたスケッチには、1980年代のあのクルマの特徴がすべて盛り込まれていた。ガルウィングドアにステンレス製のボディパネル、リアウィンドウを覆うルーバー、サイドの粋な黒のライン。そこに、現代的な要素もいくつか加えた。紙を折ったような角張った部分を滑らかにし、ボディの幅を拡げ、ホイールアーチは拡大して、より大きなホイールとタイヤが収まるようにした。2週間後、ゲラは新デロリアンの出来栄えに満足し、Instagramに投稿した。

投稿は爆発的にバズった。メカマニアはデザインを褒めちぎり、音楽プロデューサーのスウィズ・ビーツはゲラにDMを寄こして、いくら払えば製造できるかと尋ねた。ゲラは、このスケッチをもとに本物のクルマをつくってもいいのではないかと考え始めた。そこで、何年も前にデロリアンの商標を取得したデロリアン・モーター・カンパニーというテキサス州の会社に連絡したが、やんわりと門前払いされた。どうやらこのデザインは、永遠にサイバースペースを棲家とする運命にあるようだった。

ところが22年春、アルゴリズムの不思議な力で、ゲラのInstagramのフィードに別のデロリアンが現れた。こちらは人間のデロリアンで、その名はキャット。彼女のポストからは、飼っている子犬への愛、髪を染めることへの愛、そして何より、亡き父ジョン・Z・デロリアンへの愛が伝わってきた。一般の人々がジョン・デロリアンについて覚えていることといえば、波打つ髪と整形で大きくした顎が特徴の野心的なCEOで、FBIのおとり捜査で破滅した人物といったところだが、ゲラが抱く第一のイメージは、優秀なエンジニアだった。彼はキャットに、父親への賛辞を記したメッセージを送り、デザインのリンクを添えた。キャットはこれを見て舞い上がった。

キャット・デロリアン。23年3月11日、ジョージア州オーガスタで開催されたデロリアン・イベントでの一枚

PHOTOGRAPH: PEYTON FULFORD

キャット・デロリアンは、しょっちゅう舞い上がっているタイプの人間だ。そのとき、彼女は長い髪をレインボーカラーに染めたばかりだった。いわく「心の中の虹を頭にかける」ためだという。だが、デロリアンの名前は、人生を通して不幸とつながっていた。なぜDMC-12を所有していないのかと聞かれると、彼女はよく「人生が崩壊したことを象徴するモノがあったとして、それを自宅の車寄せにとめておく?」と答え、冗談半分にDMCは「Destroy My Childhood」(わたしの子ども時代の破壊者)の頭文字だと言った。

キャットは、ITセキュリティのプロで40代。ニューハンプシャー州にある古びたファームハウスに、夫と子どもたちと住んでいる。ゲラからメッセージが届いたとき、彼女は仕事のストレスとパンデミックをきっかけに、人生の目的を考え直していた。父親のレガシーを再興する方法をあれこれ思い描いて、父親の名前で工学教育プログラムを立ち上げたいと思っていたのだ。

ただし彼女は、自動車会社の経営だけは絶対にやりたくなかった。なんといっても、父を破滅に追い込んだのは自動車会社だったのだから。それが、ある出来事をきっかけに考えが変わった。22年4月、ゲラを冷たくあしらったあのテキサスの会社が、まもなく新たなデロリアンを披露すると発表したのだ。キャットはもう、自分の気持ちを隠しきれなかった。まず、Instagramにゲラのデザインを投稿して注目を集め(「時代を超越した傑作にふさわしい扱いね!」)、2日後には自分の思いをはっきり表明した。「@deloreanmotorcompanyは、ジョン・デロリアンの会社じゃない。父はあなたたちを軽蔑していた」。その数日後、テキサス生まれの新デロリアンの詳細が明らかになった。社名はアルファ5。2シートではなく4シートで、報道によればステンレススチールではなくアルミニウムを主体とし、赤のボディカラーも用意されていた。純粋なデロリアンしか認めない多くのファンと同じように、キャットもまったく気に入らなかった。

テキサス州を拠点とするデロリアン・モーター・カンパニーのアルファ5

PHOTOGRAPH: DELOREAN MOTOR COMPANY

その後も、彼女のInstagramで美しいデザインを見たというメッセージが続々と届き──製造を手伝うと申し出る人までいた──そのうちに、新しい計画が頭の中でかたちを取り始めた。なかなかクレイジーな計画だ。最初の考えはこうだった。1台製造して、その過程を撮影し、エンジニアを目指す生徒たちに見せたらどうだろう? その考えはやがて、次のようなものになった。数台製造して販売し、売り上げを工学教育プログラムの資金にしたらどうか? いや、それとも……。

いつものように、キャットのアイデアは雪だるま式に膨らんだ。クルマを資金源に、各州に工学教育プログラムを設立する。頭の中では、そこからどんどん飛躍していった。中西部の工業地帯を再興し、広く米国の労働文化を再編成するのだ。そうすれば、彼女がよく口にする「夢を実現するチャンスは全員に等しく与えられるべき」という信念を最高のかたちで実現できる。ジョン・デロリアンは、亡くなるその日まで、自動車業界に復帰する構想を練っていた。いまこそ、マニアが求めるものをわたしが与えてやるべきなんじゃないの? 確かに、自動車会社の経営経験はゼロだ。でも、それを任せられる人は見つかるはず。ともかくわたしは、父さんとエンジンの設計について(彼女の推計では)何千時間も話したんだから。「わたしの血管にはガソリンが流れている」と彼女は自分を表現する。

だからといって、基本が大きく変わるわけではなかった。クルマを市場に投入するのがいかに難しく、どれほどのコストがかかるか。そして言うまでもなく、「デロリアン」のブランドが厳密には他人のものである点も痛かった。でも、そんなことは気にしない。何しろキャットはデロリアンだ。よくも悪くも、大それた野望と結びついた名前を背負っているのだ。

ジョン・Z・デロリアンの人生

DMC-12のステアリングを握るジョン・Z・デロリアン

PHOTOGRAPH: GETTY IMAGES

ジョン・Z・デロリアンは人当たりのよい人物で、ゼネラルモーターズ(GM)の百戦錬磨の重役にして、若いモデルを恋人にし、有名人とも親しく付き合っていた。自動車業界の王侯貴族になったのは、1960年代半ばのことだ。「おばあちゃん」のクルマに大排気量のエンジンを突っ込むことを思いついて、ポンティアックのブランドイメージを一新し、「マッスルカー」時代の幕を開ける立役者となった。その一方でGMを息苦しく感じ、彼が言うところの「エシカルなクルマ」をつくりたいと夢見ていた。安全性も信頼性も高く、値段は手頃で、環境に優しいクルマだ。73年にGMを去ると、その年に、3人目の妻、スーパーモデルのクリスティーナ・フェラーレと結婚した。2年後、デロリアン・モーター・カンパニーを設立する。さらに2年後、養子のザックが6歳になった年に、娘のキャサリン(キャット)が生まれた。

元祖デロリアン・モーター・カンパニーの波乱に満ちた短い歴史は、キャットの幼児期と重なる。彼女に当時の記憶はほとんどないが、そのころ父親は、ゼロから自動車メーカーを立ち上げるという構想で型破りな夢想家たちを惹きつけて、チームをつくった。英国政府から潤沢な資金提供を受けたデロリアンは、北アイルランドのベルファスト郊外に工場を構えた。それは北アイルランド紛争のさなかで、カトリックとプロテスタントが並んで働くことなど不可能に思えた時代だった。しかし、当面は順調に進んだ。「沼地があり、そこに工場ができて、そして雇用が生まれました」。役員のひとりだったウィリアム・ハダドは、85年のインタビューでそう振り返っている。「おそろしく興奮しましたよ」

だがそれは、インフレとガソリン価格高騰の時代でもあった。加えて、従業員の経験不足と相次ぐ爆破予告で、生産はいっそう困難になった。スケジュールは遅れ、生産コストは膨れ上がり、需要は急落し、負債はかさんだ。さらに、リコールで2,000台も回収せざるをえなくなった。デロリアンが当初思い描いていたのは、クラシックカー通のある人物いわく「前代未聞の安全性と効率性を特徴とする」12,000ドルの「コルベットキラー」だったが、実際にできあがったのは、そういった特徴のほとんどない25,000ドルのクルマだった。やがて、キャットの5歳の誕生日が近づいてきた82年10月に、世界的に有名な出来事が起こる。ジョン・デロリアンは、60ポンド(約30kg)近い量のコカインが置かれた部屋で、FBIのたれ込み屋と一緒にいるところを撮られたのである。その直前、彼はたれ込み屋から、苦境にあえぐ会社を救う金を集めるため、麻薬の売買をもちかけられていたのだ。

キャットが6歳だった84年の夏、注目の的となった父親の裁判は、おとり捜査として無罪判決に終わった。会社もキャリアも失くしたジョンは、裁判所の外で待ち受けていた記者たちに、悲しげにこう問いかけた。「どうかな、きみたち、わたしの中古車を買ってくれないか」。このとき、キャットの牧歌的な子ども時代もともに失われた。裕福で有名で完璧な家族、ニューヨークでの暮らし──住んでいた5番街のマンションは現在の価値で3,000万ドル(約47億円)相当だった──を突然失い、両親は離婚し、東西両海岸に離れて暮らすことになってしまった。1年もたたないうちに母親がテレビ局の重役と再婚し、キャットはほとんどをカリフォルニアで暮らした。東海岸の父親とは1日10分だけ電話で話すことが許されていたが、算数の宿題を手伝ってもらうと言ってはそのわずかな時間を引き延ばした。

「あのデロリアンをタイムマシンに改造したわけ?」

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が公開されたのは、ジョンの無罪判決から1年後のことだった。映画製作会社のある役員は、マスタングを使うよう製作陣に強く求めた。フォードがプロダクトプレイスメントの謝礼を弾む姿勢を見せていたからだ。これに対して脚本家は、「ドク・ブラウンがマスタングなんかに乗るかよ」と答えたという。DMC-12が名誉ある役に起用され(こうしてマーティー・マクフライの名台詞「あのデロリアンをタイムマシンに改造したわけ?」が生まれた)、ジョンは監督と脚本家に宛てた礼状に、自身のクルマを「ほとんど不朽のものにしてくれた」と綴った。ゲラと違い、キャットは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を初めて観たときのことを覚えていない。「気がついたらあの映画がありました、ずっと人生の一部だった感じです」

10代になり、どちらの親と暮らすか選べるようになると、キャットは父親を選び、高校時代はニュージャージー州ベッドミンスターの農場で過ごした(まさにこの場所が、のちのトランプ・ナショナル・ゴルフクラブ・ベッドミンスターとなる)。広大な敷地でオフロードバイクを乗り回し、私立高校でミュージカルに出演し、時には同級生からコカインをネタにからかわれても我慢した。このころ、パソコンを自分で直す方法を親友から教わり、その影響で機械いじりが彼女の習慣になった。

高校を出たあと数年間はモデルをやったが、相変わらずITオタクで、夜な夜なハッキングコンテストに出場した。20代前半のとき、短く終わった最初の結婚で第1子を授かると、かつて自分がスーパーモデルの娘として過ごした世界で息子を育てるのはやめようと心に決めた(近ごろ、彼女は、桁外れに裕福だった幼少期の生活を「あの世界」と呼び、シュワルツェネッガーのプライベートジェットに乗ったり、有名セレブのコートニー・カーダシアンとパジャマパーティをしたりしたことを、他人の身に起きたかのように怪訝な顔で話す)。

モデルの世界を離れると、のちにバンク・オブ・アメリカが買収する住宅金融大手カントリーワイド・ファイナンシャルでITのインターンとして働き始め、キャリアを積み上げていった。ある会社のクリスマスパーティでシステムエンジニアのジェイソン・シーモアと出会うと、1カ月ちょっとの交際を経て、ラスベガスのドライブスルーチャペルで結婚式を挙げた(ジェイソンはエルビス・プレスリーのそっくりさんに式を執り行なってほしがったが、あいにくその日は埋まっていた)。

翌05年に父親が死んだ。ジョン・デロリアンは最後の数カ月間を費やして、「デロリアン・オートモビール・カンパニー」という社名を商標登録しようとしていた。そのために、キャットとザックを共同オーナーとして、エフィーシャンズ6:12という会社を設立した(社名は、「この世界の暗闇を支配する者、天上にいる悪の霊に対する」戦いについて書かれた聖書の「エペソ人への手紙」6章12節を指している)。しかし、申請が認められる前に亡くなったため、公式には「出願放棄」と見なされた。

キャットは父の死で打ちひしがれた。相変わらず断固として父親を誇りに思い、デロリアン家の一員としてオートショーへの出席も続けたが、仕事ではシーモア姓を使ってふたつの立場を切り離していた。しかし2020年代に入り、DMC-12の40周年が近づくと、ドキュメンタリーや映画にジョンの名前が再び登場するようになった。ナルシシストのペテン師といった描き方をされることもあって、キャットは不満を募らせた。そして、ジョン・デロリアンのよい面をなんとしても世に知らせようと決意した。

まったく新しいタイプの自動車会社

キャットは、「宇宙を信じればうまくいく」という根っからの楽観主義者だ。本物の天使[編註:ゲラの名前アンヘルは英語のエンジェル]がデザインを携えて彼女の人生に現れたことには意味がある、そう確信した。こうして、22年の夏から秋にかけて、キャットの夢は1台のクルマに姿を変えた。モデルの名前は父親のイニシャルであるJZD。会社の販売収益はより大きな教育プログラムに注がれる。その対象は、父親がキャリアを築いた中西部の工業地帯のうち、行政サービスの行き届いていない地区に拡大する。彼女はこのベンチャーを「自動車会社」と呼ぶことすら拒み、「自動車を原動力にして夢に力を与える会社」と呼ぶほうがずっといいと考えた。若者に力を与えるガールスカウトという組織が、クッキーの売り上げを活動資金の一部にしているのと同じだ。

その会社が何であるにしろ、ニューハンプシャーのファームハウスは、実質その本社になった。キャットとジェイソンはオンライン会議を催し、人材を募集し、「デロリアンのDNA」を宿した新しいクルマで何ができるか、荒唐無稽なアイデアを膨らませていった(「わたしはいま、二世タレントが話題になっているまさにそのときに自動車会社を立ち上げるんですよ」と彼女は笑った)。最初の1台には、古い電化製品を溶解してつくったサステナブルなステンレススチールを使えない? パソコンのチップをリサイクルして、制御装置にできない? 生徒たちのためにバーチャル製造ラボをつくって、バーチャルでクルマの組み立てをしてから、実物でやったらどう? これは、まったく新しいタイプの自動車会社になる。女性が創業するのも初めてなら、非営利が目的というのも初めてだろう。

こうした大きなビジョンを胸に、大きな約束が発表された。22年8月、キャットは1枚のスクリーンショットを投稿した。それはジョンが最後につくった自動車会社のビジネスプランだった。「人間と機械が恋に落ちる、手頃な価格帯の」クルマで「自動車の世界を揺さぶる」という約束だ。キャットは、自分の自動車会社で父の夢を受け継ぐつもりだと書いた。会社の名前は、デロリアン・ネクスト・ジェネレーション(DNG)だ。

ゲラがデザインしたJZD。デロリアン・ネクスト・ジェネレーションが開発中のモデル

COURTESY OF ÁNGEL GUERRA

このニュースはすぐに拡散され、まず「FOXニュース」で取り上げられると、世界中のメディアも続いた。ジェイソンは新会社への情熱ですっかりハイになり、妻の目標を誇りに思う気持ちも手伝って、勢い余って、DNGモーターズのInstagramアカウントに公約を投稿してしまった。「2023年9月13日公開」。黒地に白い文字でそう書かれた画像に、ジェイソンはこうキャプションを付けた。「デロリアンがモーターシティに帰ってくる」。彼はデトロイト・オートショー[編註:世界5大モーターショーのひとつ]までにクルマをつくると約束してしまったのだ。このポストを見たキャットは有頂天になった。

まもなくキャットのもとに、テキサスのデロリアン・モーター・カンパニーから、計画中のモデルにデロリアンの名称を使うことをやめるよう要請する警告状が届いた。キャットとジェイソンは、自分たちの権利を主張し、法廷で争うことも辞さない姿勢を示した返信を弁護士に送らせると、プロジェクトを続行した。

新生デロリアン・モーター・カンパニーの誕生

デロリアン・モーター・カンパニーは、ヒューストン郊外、高速道路のジャンクションの脇にある平屋建ての建物を拠点にしている。クルマで向かってみると、うらぶれた区画や緑地を過ぎたあたりのカーブに沿って、突然80年代の風景が現れる。レトロなDMCのロゴが高々と掲げられ、駐車場にはDMC-12が1列に並んでいる。よく見れば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出てきた「JIGAWAT」をナンバープレートにしたクルマも見つかるかもしれない。ガレージ兼倉庫に入ると、ボディから外されたガルウィングドアがずらりと並び、傷ついた鳥の群れを思わせる。ショールームでは、額に入った古い『Delorean』誌[編註:デロリアン・モーター・カンパニーがオーナー向けに出版した雑誌]の表紙がこちらをじっと見つめている。

この王国を築いたのは、スティーブン・ウィンだ。リバプール生まれのメカニックで、生涯をデロリアンのクルマに捧げてきた。息子のキャメロンを幼稚園へ送るときに、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場したDMC-12を使っていたほどだ。ただし、人間のデロリアンはクルマほど評価していない。「彼が集めたチームへの敬意のほうが大きいですね」と彼は言う。「耳にするのはジョン・デロリアンの話ばかりで、チームの話は聞きませんが、わたしに言わせればそれは間違っています」。ジョンはエンジニアとしては時代の先を行っていたとウィンは認める。しかし、「会社をつくったのは彼ですが、知ってのとおり、結局は彼自身が会社を潰したんです」

その残骸を拾い集めたのがウィンだった。彼は、デロリアンのパーツという風変わりで小さな市場を実質的に独占するに至った。それは、誰かのレガシーを守るために決めたことではなく、何よりも自身の将来を確かなものにするためだった。「なんというか、自分の運命をこの手に握るには、先々、パーツの管理を握る必要があると思いました」。作業場でクルマに工具が当たる音を背にしながら、彼はわたしにそう語った。「どうせ誰かが手に入れるのなら、自分でやりたいと思ったんですよ」。こうしてウィンは、新生デロリアン・モーター・カンパニーを1995年に設立した。

80年代にデロリアンを最初に購入したのは、「起業家精神があり、既成概念にとらわれないタイプの人々」で、「みな、どこか少し変わったところがあった」とウィンは考えている。何しろ、実際に速度の出るスポーツカーより、文化的歴史の断片を所有することに興味があった人たちだ(オリジナルのデロリアンは、0-60マイル(約0-100km/h)加速が約10.5秒で、わたしの中古のヒョンデでも楽々勝てる)。「近ごろは、そうした客層がはるかに裕福になったとわたしたちは考えています」とウィンは言う。

ウィンとそのチームは長年、こうした「現代のマニア」の需要に応えるべく、主にオリジナルのパーツで新モデルをつくるさまざまな計画を立ててきた。しかし、連邦政府の規制機関は、そうしたクラシックカーのレプリカも現在の安全基準に準拠しなければならないというルールをなかなか緩めなかった。そのため、エアバッグもなければ、第3のブレーキランプもアンチロックブレーキも装備していないDMC-12の復刻版などは、実現しなかったのである。それでも、パーツの販売とアフターサービスで会社は大いに潤った。また、デロリアンのブランドも大きな収入をもたらした。衣料品やテレビゲームなどから代わる代わる使用料が得られたし、警告状や訴訟で商標を徹底して守ってきた。

そんななか、ついにウィンは元テスラのヨースト・デ・フリースとの話し合いをスタートさせた。以前デロリアンの電気自動車(EV)化を試みた際にも参画した人物だ。デ・フリースは、デロリアンというブランドが万人から愛されていること、EVのスタートアップにかかる費用が15年前と比べても大幅に下がったことを挙げて、両者が手を組めばまったく新しいEV版デロリアンをつくれると請け合った。こうして彼らは、デロリアン・モーター・カンパニーを分社化して、テキサス州サンアントニオにデロリアン・モーターズ・リイマジンドという会社を設立すると、ウィン家が筆頭株主になり、デ・フリースがCEOに就任した(かつてタイムマシンで幼稚園に通ったウィンの息子が、いまや会社のチーフブランドオフィサーを務めている)。

新モデルの開発はデ・フリースが率いて、資金は主に個人投資家から調達することにした。この会社は、21年11月にテキサス州で法人化された(ゲラがデザインをポストした20年末と、キャットがかかわり始めた22年中旬のちょうど中間だ)。ウィンとデ・フリースは、オリジナルのDMC-12も手がけたイタルデザイン社にアルファ5のデザインを依頼した。

デロリアン・モーターズ・リイマジンドは、まず88台つくり(88mph[編註:約140km/h]は、ドク・ブラウンのデロリアンがタイムトラベルするのに必要な速度)、最終的に約9,500台の生産を目指すとした。新モデルは「少数生産、高価格帯、極めてエクスクルーシブ、奇妙で、大胆なテクノロジー」を特徴とするとデ・フリースは話す。堂々たる体格をした禿髪のオランダ人で、野心的で自信たっぷりの雰囲気が、いかにもかつてシリコンバレーで重役を務めた人物らしい。「デロリアンは常に手の届くラグジュアリーでした。わたしが付ける値札は、手の届くラグジュアリーではありません」

アルファ5の初期のスケッチ

PHOTOGRAPH: DELOREAN MOTOR COMPANY

デロリアン・モーターズ・リイマジンドは、会社設立から9カ月でコンセプトカーを発表した。22年2月には、スーパーボウルで流れる15秒のスポット広告枠まで購入し、新モデルをチラリと見せる謎めいたティーザー動画を公開して、自動車メディアの話題をさらった。その年の8月、ペブルビーチでの大きなオートショーで、アルファ5が初披露された。あくまでもコンセプトカーにすぎず、デザインとテクノロジーを見せつけただけで、公道で使える完成品ではなかった。それでも現実世界に存在する実物であり、24年には一般向けに発売することが約束されていた。

「究極の夢のクルマ」

一方、キャットのモデルであるJZDは、その時点でまだ設計段階にあり、コンピューターの中だけに存在しているも同然だった。

新車を考案してから製造するまでの工程は共通しており、それはゼネラルモーターズでも、デロリアン・モーターズ・リイマジンドでも、デロリアン・ネクスト・ジェネレーションでも変わらない。このプロセスには平均で5年ほどかかる。新モデルをデザインし、設計したら、タイヤからシート、計器パネルまでの数千におよぶパーツのサプライヤーを見つけ、ボディパネルをプレス加工する機械をオーダーメイドする。その後、それらを組み立てる施設と人員を探し出すか、ゼロからつくり上げなければならない。こうしたすべての要素が揃って初めて、当初のデザインに似たクルマを実際に量産できるようになる。

そのため、コンセプトカーがモーターショーに現れても、似たようなクルマが公道に姿を現わすとは限らないのだ。塗装の施設だけで数億ドル(数百億円)の出費になりかねない。実は、元祖デロリアンがステンレススチール製だった理由もそこにある。ジョン・デロリアンには塗装工場を賄う資金がなかったのだ(「意図的な選択だと全員に信じ込ませた」のは天才的なマーケティングだったとキャットは話す)。ジョン・Z・デロリアンは、会社設立から1年足らずの1976年に最初のプロトタイプを発表し、81年にDMC-12の販売を開始した。

したがって理論的には、キャットとジェイソンが会社を設立してから2023年のデトロイト・オートショー までの11カ月間に、製造の準備が整ったプロトタイプは無理でも、JZDのコンセプトカーをワンオフとしてつくることは不可能ではなかった。23年1月、マイアミのモーターショーでステージに上がったキャットからは、自信のほどがうかがえた。背後のスクリーンは、山道を疾走するJZDのデジタルレンダリングを映し出していた。

だが、イベントに出てから少したつと、スケジュールが大きな重圧として彼女にのしかかり始めた。製造パートナーになりそうな人たちからは、まったく非現実的なスケジュールだと言われた。ドアが毎回同じように開閉することひとつ取っても、驚くべきエンジニアリングなのだ。そもそも動力がガソリンなのかバッテリーなのかその両方なのかすら教えられなかった(その決定はエンジニアリングの課題として生徒たちに任せたかったが、教育プログラムの立ち上げもまだだった)。キャットの頭の中に、父親と同じく野望と挫折を繰り返す自分の姿が浮かび始めた。

デロリアン・ネクスト・ジェネレーションのJZDは、オリジナルのDMC-12に倣って、リアウィンドウがルーバーで覆われている

COURTESY OF ÁNGEL GUERRA

そうした考えにとりつかれたまま、キャットは23年3月の暖かい朝、ジョージア州オーガスタの「デロリアンデイ」イベントに特別ゲストとして登場した。彼女はまだ8時にもならないうちから駐車場を歩き回っていた。虹色のチェックのスカートに、NERD(ノースイーストリージョン・デロリアンクラブの頭文字)のパーカを着て、ジェイソンを引き連れ、それぞれのクルマについて、手だけでなくときには足まで動かしながら、ファンに熱心に話しかけた。

緑色の66年ポンティアックGTOトライパワー[編註:ジョンが設計に関与したモデル。トライパワーは3連キャブレターを指す]が駐車場にやって来ると、文字どおり飛び上がって喜んだ。そして、ボンネットの下のキャブレターを検分し、このモデルがミッドナイトブルーだったら、自分の「究極の夢のクルマ」だと断言した。燃費はきわめて悪く、市街地でおよそ8mpg[編註:約3km/L]だとオーナーが告白すると、キャットは声を上げて笑った。そして笑いながら、笑ったことを謝った。

8時になると、キャットはマイクを前に、父親と自分の計画について話した。「父はわたしにとって、世界でいちばんの親友だった」と彼女は語った。「夏にはよくソファに座って、父とジンラミー[編註:セブンブリッジに似たトランプゲーム]をやりました。そのうちに、いつも座る場所がすり切れたほどです。大きなくぼみと小さなくぼみができていました」。質疑応答では、10歳くらいの男の子からロボット工学のエンジニアになる計画を打ち明けられて、彼女は目に涙を浮かべた。その子は、ロボットに変身するクルマをつくりたい、そのロボットは「何か悪いことが起きないように、人を助けたり人類を守ったりする」のだと話した。

のちに彼女は、このシーンやそれに似たオーガスタでの経験がターニングポイントになったと教えてくれた。「突然、こんなふうに思ったんです。そうだ、何をしないといけないとしても、どんな痛みを経験することになったとしても、自動車会社をつくる必要があるのなら、やってやろうって。だってわたしは、あのような瞬間を死ぬまで毎日経験したいんですから」

ある人が何の気なしにアルファ5について質問すると、彼女はこわばった笑みを浮かべながら、慎重にこう答えた。「そのクルマをつくっているのはテキサスのデロリアン・モーター・カンパニーで、わたしの家族やオリジナルモデルとは一切関係のない会社です。あのクルマについて話すのは、このくらいにしておこうと思います」

数週間後、キャット・デロリアンの活動について、デロリアン・モーターズ・リイマジンドCEOのヨースト・デ・フリースに尋ねると、彼はキャットほど言葉を選ばなかった。「キャットは頭のネジがちょっと緩んでいるね。彼女がやっていることは違法だよ。中止させられるさ」。あとで話を聞いたときも、彼女のクルマがデトロイト・オートショーに現れたとたん、「訴訟で叩き潰されるだろう」とデ・フリースは語った。

わたしがデ・フリースと会ったのは、ハイテク企業が集まるサンアントニオの殺風景なオフィス街で、彼はガラス張りのオフィスに座っていた。デロリアンのファンの間で、アルファ5のデザインに賛否両論あることを彼はよく知っていた(デロリアンのフォーラムでは、ガルウィングドアを付けたテスラにしか見えないと不満の声が上がった。事業全体を「愛されているクルマの名前を無関係のクルマに貼り付けただけ」と形容するファンもいた)。

また、先達のEVブランドの多くがパッとしない運命をたどっていることも、デ・フリースは承知していた。ルーシッド、リヴィアン、破綻からよみがえったフィスカーなど、ほかの高級志向のEVメーカーは、数十億ドル(数千億円)をつぎ込んだ末に生産目標を達成できずにいた。市場をリードするテスラですら大きな話題を呼んだ(ステンレススチール製の)サイバートラックの市場投入に苦戦していたころだ。デロリアン・モーターズ・リイマジンドも、サプライチェーンが障害になって、予定の生産台数を半分以上少ない4,000台に変更していた。だがデ・フリースには、ほとんどのEVメーカーにはないものがあった。すでに世界の多くの人がよく知っているブランド名だ。「わたしがやるべきことは、既存のブランドによい商品を投入することだけだ」と彼は言った。

言うまでもなく、問題は「デロリアン」ブランドが誰のものかということだ。どちらも、それを使う権利は自分たちにあると主張し、相手の主張は明らかに違法だと訴えている。

スティーブン・ウィンは、ジョンの商標が無効となったり放棄されたりした00年代に、「デロリアン」と「デロリアン・モーター・カンパニー」という商標を登録して商標権を取得し、以来、更新と保護に努めてきた。そのうえ2015年には、ジョン・デロリアンの遺産について和解が成立している。ジョンの寡婦として、サリー・ボールドウィン・デロリアンという女性が、自動車、衣類、「販促品」に関連する「あらゆる物品およびサービスに対して、デロリアンのすべての商標を使用、登録、行使する全世界で有効なDMCの権利」を認めたものだ。DMCはその対価として女性に非公表の金額を支払った。そういうわけで、デロリアンは間違いなくキャットの名前だが、商標としては他人のものであり、彼女はそれまで一度も公に異を唱えてこなかった。

キャットの主張には、「これは自分の名前だ」という、一見単純だがおそらく重視されない点があるものの、同時に単純には片付けられない部分もある。彼女は、父親とサリーが実際には結婚していなかったと信じているのだ。当時のジョンの関係者数人と息子のザックにも話を聞いたが、彼らも同じ考えで、サリーとの結婚についてジョンから聞いた覚えのある人はひとりもいない。キャットは、結婚証明書を探したが見つからなかったと話す。私立探偵を雇って探させても、結果は同じだったという(サリー・ボールドウィン・デロリアンの弁護士にコメントを求めたが返事はなく、掲載されている複数の電話番号にかけてみたが、サリーと直接連絡を取ることはできなかった)。

ジョンの遺言では、息子が執行者として指名されているが、ザックは弁護士費用がかかるのを嫌がって、遺言の検認の申し立てをしなかった。キャットは、そもそもサリーは遺産の代理人を務める立場ではなかったのだから、デロリアン・モーター・カンパニーとの和解に法的根拠はないと訴えている。本来なら、米国特許商標庁が、出願中だった父親の申請について、エフィーシャンズ6:12の共同オーナーであるキャットとザックに連絡を取るべきだった、というのが彼女の考えだ。

これとは別に、商標権侵害の問題がある。その重要な判断基準は、「混同が生じる恐れ」があるかどうかだ。キャットのデロリアン・ネクスト・ジェネレーションは、ウィンのデロリアン・モーター・カンパニーとまったく同じ言葉を組み合わせているわけではない。とはいえ、オーガスタでキャットがアルファ5の質問を受けたことからも、混同している一般人は確かにいるといってよさそうだ(Redditのあるコメントによれば、善意からキャットのクルマを買おうとして、うっかりアルファ5を予約してしまった人もいる)。──それでも、混同の責任は相手にあると両者ともに主張している。

双方とも、訴訟は避けられないとわたしに話した。陪審がどんな決断を下すかは保証できない。「混同の恐れ」を判断するだけでも、考慮すべき要素が13項目もある(実にややこしい!)。しかし、ニュージャージー州の商標弁理士で、いずれの当事者にも関与していないリチャード・カタリナに聞いたところ、「より説得力のある法的主張」をしているのはテキサスの会社だという。「商標権は、使用することでしか発生しません。商標を使用していないのであれば、その権利も失う可能性があります」とカタリナは話す。

「奪われた夢を抱く」生徒たちのため

「この間、本当にありえないことがわかりました」。昨年の夏、キャットは電話でわたしにそう言った。話を聞いたところ、最近になって、ウィリアム・ハダドの1985年のインタビューを見つけたという。ハダドは、デロリアン・モーター・カンパニーが北アイルランドに大きく貢献したことに「とんでもなく興奮した」と語っていた役員だ。ハダドも会社の破綻で身を滅ぼし、85年のインタビューでは、事業は「ペテン」で、ジョンが資金を着服したと語っている(ジョンはこれを常に否定していたし、金銭的な不正行為で訴追されたこともない)。だがハダドは、最大の社会的利益をもたらす場所に工場を設けるというジョンの夢がふいになった点は悲しんでいた。「彼がやり遂げていたらどうなっていたか……想像できますか?」ハダドはインタビューでそうつぶやいた。

北アイルランドの話なら、キャットも前からよく知っていたが、ハダドがジョンの目標と転落をそれに絡めて話したのを聞いて、はっと目が覚めたという。キャットとジェイソンは、自分たちで決めた無謀なスケジュールにこだわるあまり、父親とまったく同じ道をたどる危険を冒していた。1台のクルマに気を取られて、若いエンジニアを支援するという大きな目標を見失っていたのだ。「たとえ自動車会社が失敗しても、別に構いません」とキャットは言った。ずっと思い描いてきた目標は、「奪われた夢を抱く」生徒たちのために教育プログラムを創設することだった。「だから、それができないなら、このクルマには何の価値もないんです」

ひとつ明らかなことがあった。彼女たちは急ぎすぎていたのだ。キャットは、父親の100回目の誕生日に当たる2025年まで、JZDのプロトタイプの発表を延期することにした。それまで、学生にはデトロイトに向けてクレイモデルをつくらせる。といっても、一般に自動車メーカーが開発中につくる実物大モデルではなく、靴箱程度のサイズのものだ。それをオートショーではなく、期間中にデトロイト歴史協会で披露する。その後、コルベットC8のプラットフォームを利用して、生徒たちの手でモデルJZDのプロトタイプを製作する。参加者は、自分の夢を語るオンラインコンテストを開催して選抜する。

次に来るのが、プロジェクト42という別シリーズのクルマだ。42台のカスタムカーをハンドビルドするのである。販売価格は、1台100万ドル(約1億5,000万円)を超えるだろう(各車両にドライビング用品一式とバイクも付ける)。その収益を、教育プログラムの資金源とする。つまり、アルファ5が「手の届かないラグジュアリー」になり、その潜在的顧客が高収入のIT系男子だとしたら、こうしたカスタムカーはさらに手の届かない、大富豪をターゲットにしたものになるだろう。

テキサスのDMCとキャット・デロリアンが新モデルのプロジェクトを発表してから、もう2年になる。両者ともまだ相手を訴えてはおらず、そうする予定があるかどうかについても口を閉ざしている。ヨースト・デ・フリースは、昨年10月にデロリアン・モーターズ・リイマジンドのトップを辞任した。その理由を会社は明らかにしていない。デ・フリースとデロリアン・モーターズ・リイマジンドの幹部数人は、以前デ・フリースを雇っていたEVメーカーのカルマオートモーティブから、会社の知的財産を盗んだとして訴えられていたが、示談が成立したと報じられたあとで訴えは却下された。スケジュールは完全に遅れており、アルファ5がいつ発売されるかについて、キャメロン・ウィンは具体的には答えず、25年中とだけ話している。キャットのベンチャーはというと、アンヘル・ゲラがデザインの修正を続けている。クルマはステンレス製にはならない。

デロリアンのファンは、新モデルが出るという約束に何度も踊らされてきた。プロジェクトが両方とも遅れていることから、デロリアン関連のインターネットフォーラムでは、どちらの新モデルについても懐疑論が広がっている(案の定、この記事が出た今年4月に、デロリアン・リイマジンドが本社を閉鎖したとサンアントニオの新聞が報じた。あるDMCの役員は、単に会社を移転しただけだとわたしに答えた)。両社は大きな夢を約束し続けている。結局のところ、そうした約束もまた、デロリアンのレガシーの一部なのだ。

キャシー・ギルシナン
著書に『The Helpers: Profiles from the Front Lines of the Pandemic』(未邦訳)がある。セントルイス在住。

(Originally published on wired.com, translated by Megumi Kinoshita/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)

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