世界が見えてしまっている、ように思える。いや、だからこそ見えないものが次々と現れる。求心的でありながら、同時にその限界を見通すようなまなざし。計り知れないオブセッションと、それを宥(なだ)めながら邁進するいわば天性のミッション。渋谷慶一郎は、誰も思いつかないような先鋭的かつ壮大な構想とともに数々のプロジェクトを実現してきた。
2002年に自身のレーベルATAKを設立以降、その疾走は滞(とど)まることを知らないが、とりわけ12年のボーカロイド・初音ミクを主人公にした初のオペラ『THE END』を機に諸領域の専門家とコラボレーションを行なうなかで、研ぎ澄まされた感性を維持しつつもより広い層に向けた大規模な作品を発表し、国内外で注目を浴びている。
筆者は1990年代末に渋谷と知り合い、02年のキュレーション1を含め継続的に活動を見てきたが、作品に並行してアーティスト、そして人間としての渋谷の近年の成熟を実感している。と同時にその根底に、当初からのラディカルなパッションとレゾンデートル(存在意義)が息づいていることも。
6月18日に一夜限りで開催されたアンドロイド・オペラ『MIRROR』の東京凱旋公演は、そのことを雄弁に語るとともに、渋谷の次の兆しを予感させるものだった。アンドロイド・オペラとしては、直接的には22年のドバイ万博、23年パリの『MIRROR』に連なるが、17年のプロトタイプ発表以来、世界各地を巡回しながら進化してきたアンドロイドとのかかわりの集大成2とも言える。
アンドロイドは、「オルタ4」。過去のオルタ(1〜3)と異なり、王冠状に覆われた頭部に、少女のような面持ちと豊かな表情や指の動きが、以前のものよりシンパシーを誘う。ステージ中央に屹立し、スポットライトを浴びたオルタ4を前に、会場が静かな緊張感と熱気に包まれるなか、渋谷とオーケストラが登場。冒頭で披露されたのは新作「この音楽は誰のものか?」である。長く協働する池上高志(複雑系科学・人工生命の研究者)と開発した人工知能(AI)による作曲プログラムのプロトタイプを援用した楽曲で、タイトルは、GPTによるプログラム、渋谷、演奏家のいずれもが音楽の成立にかかわることにちなむという3。
今回聴いた限りでは、現代音楽的な響きが優勢な印象を受けたが、本プログラムの根幹にあるであろうAIの予定調和的でない稼働には期待しており、その萌芽が示されたことを祝いたい4。その後、第一部として21年に東京で上演された子どもたちとアンドロイドが創る新しいオペラ『Super Angel』から2曲が、オルタ4、視覚や聴覚に障害をもつ子どもたちを含む合唱団による歌や手話、そして岸裕真の映像とともに披露された。
第二部が、アンドロイド、声明、オーケストラがさまざまな様態で絡まり合う楽曲で構成された70分にわたるオペラ『MIRROR』である5。1曲目の「MIRROR」では、 スクリーンにテキストが大きく表示され、テキストを読むオルタ4の声に声明が絡む。アンドロイドや音楽を「鏡」と見なし、存在と非存在や過去と未来の境界を問いながら「この新しい経験を共に祝祭しよう」と結ぶ歌詞は、とりわけ人間とAIとの境界をぶらそうと試みる──「鏡」のこちらと向こう側の自明性を問い直す──渋谷の挑戦であるだろう6。
ビートに合わせたライトの点滅が呼吸のように響くなか、始まる「Scary Beauty」7。深淵へと落ち続けるかのような映像、ピアノ(渋谷)やオーケストラの不協和音、高野山の4人の僧侶の声明が響くなか、ドラマティックな歌詞によってオルタ4は聴衆を別世界へ引き込むかのようである8。
その後オルタ4が、『MIRROR』はひとつの物語ではないこと、世界は終わりに向かっているが、終わりに向かうプロセスと終わった世界を祝うような空間をつくり出すこと、本公演以降しばらく姿を消すと告げる。続いて、オルタ4と声明との即興的なインタラクション──声明からリアルタイムで歌詞を生成し歌うダイナミックな「レチタティーヴォ」が開始される9。
「レチタティーヴォ1」では、ドットによる群のデータやCG、オルタ4や僧たちが映像に現れるなか、1,200年間にわたって厳格に保たれてきた声明がAIを経て変容し、オルタ4により歌われる。声明が、掛け合いのなかで解体され、これまでにない創造へと開かれていく10……。
人とアンドロイドの歌唱は異なるように見える。しかし、プログラム化されたものの自動出力という面では、むしろ共通していると言えないか。自動性、オリジナルと変容、そして相互転移的な側面で「鏡」の境面が溶け出していく。「レチタティーヴォ」は、『MIRROR』を生成的なものとして流出させる究極のトリガーとして、本公演の真骨頂とさえ言える。
痛みについてのオルタ4の歌やオーケストラに僧(谷朋信)の声明が絡む「BORDERLINE」、ウィトゲンシュタインのテキストをオルタ4が歌う「On Certainty」に続く「レチタティーヴォ2」では、声明を唱えながらオルタ4の周りを回る僧侶たちとともに、終末へ向かうプロセスと祈りが加速されるかのようである11。
三島由紀夫の『豊饒の海』第四部の「天人五衰」からインスピレーションを受け作曲された「The Decay of the Angel」 12までが世界の終わりへのプロセスだとすれば、続く「Midnight Swan」は終わりのあとと言えるだろうか。力強い声明で始まる「The Decay of the Angel」は、オーケストラ、映像、ライトなど諸要素がダイナミックに絡み合い、ひとつの山場を形成し、その後それぞれが減衰し終末的な様相へと移行し、「私は朽ちていく」で歌が終わる。「Midnight Swan」はそこから回復するかのような世界に転じ、僧が経本を両手の間でパラパラと操る見せ場とともに、盛り上がりは頂点に達する。
その後「レチタティーヴォ3」を経て、和らいだメロディとともにグリーンの色味や月の映像が印象的な「I Come from the Moon (Android Opera ver.)」13が、そして最後に「欲望」を意味する「Lust」が来る。声明、渋谷、オルタ4の顔やデータ群の映像とともに、オルタ414は、世界が終わるなか、「あなたと私は純潔のために愛を交わす」「境界は溶けていくだろう」、そして欲望を「鏡、映し出すもの」として、心をひとつにしようと歌う。声明を唱えながらオルタ4の周りを回る僧、ダイナミックな映像やライトとともに最後の山場を迎えたなかで、ブラックアウトに至る15。
アンコールは、渋谷がピアノで「for maria」から始め、なだらかに「Scary Beauty」へと移行した。スポットライトを浴びた渋谷とオルタ4が向かい合うなか、ピアノに合わせてオルタ4がテキストを生成し掛け合う光景は、彼らが「心をひとつに」するような親密さを感じるものだった16。
周知の通り、オペラという形式は西洋音楽の頂点であり、人間中心主義や身体性を基盤としている。渋谷は過激にも、その中心をボーカロイドやアンドロイド、AIなど、人間によってつくられた非人間で身体も実体をもたないものに差し替えた。また、西洋音楽からも欧米の世界観や宗教観からもかけ離れた東洋の叡智である声明を、アンドロイドと接続した。意表をつく接続は、まさにオペラの解体かつサイボーグ化、そして再創造といえ、むしろ欧州が待ち望んでいたものなのかもしれない。
生をもたないボーカロイドやアンドロイド、生の彼岸と交信する人間による声明は、真逆に見える。しかしいずれも、「生と死」の境界領域と接する意味では共通する。渋谷にとっては、最新のテクノロジーも長く継承されてきたものも背反するものではなく、縁(ふち)や深淵という彼岸に接続される自由な領域であるのだろう。
渋谷は、西洋音楽を学びながらもそこから逸脱する系譜──現代音楽、電子音楽、コンピューターによるノイズやランダム性──を経て、アンドロイドやAIを援用してきた。ここ7年で大きく進化を遂げたテクノロジーを見据えた上で渋谷は、これらを人間や知能の反映(MIRROR)として見なす視点から、鏡のこちらと向こうが相互浸透するようなリキッド状の「MIRROR」を目指し始めたのではないか。そこが、自身の創造性さえも溶解していく縁であり深淵であるとしても。
四方幸子|YUKIKO SHIKATA
キュレーター/批評家。美術評論家連盟(AICA JAPAN)会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授。生涯テーマは「人間と非人間のためのエコゾフィーと平和」。「対話と創造の森」アーティスティックディレクター。これまでキヤノン・アートラボ、森美術館、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]などで活動。著書に『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート論』(2023)がある。http://yukikoshikata.com/
(Edit by Erina Anscomb)
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