壊された心:原発事故と福島のいま(2)

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故から、2021年3月11日で10年。福島では原発事故によって何万人もの人々が住まいを追われ、地元のコミュニティも壊れてしまった。家族は引き裂かれ、仕事も奪われ、多くの避難者たちがいまも不安定な立場に置かれている(全3回の第2回)。
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いまも被災地には2011年3月11日で止まったままのカレンダーが残る。2021年3月10日、浪江町にて撮影。YUICHI YAMAZAKI/GETTY IMAGES

※「原発事故と福島のいま」の第1回から続く

電離放射線の量とその影響の正確な因果関係については、激しい議論が巻き起こっている。危険性が誇張されているという専門家もいれば、低線量でも時間とともにがんを誘発すると考える専門家もいるのだ。

事故後、福島県立医科大学は「県民健康調査」を開始した。「基本調査」に4つの詳細調査を加えたこの健康調査は、震災時に福島にいた200万人の身体・精神面の健康状態を追跡するものだ。

4つの詳細調査のうちのひとつは、事故当時は子どもだった人々の甲状腺がんの調査である。甲状腺がんはチェルノブイリの事故後に多く見られ、身体の健康に最大の影響を与えた。政府から任命されて調査を主導した放射線健康リスク管理アドヴァイザーの山下俊一は、放射能に対する不安を解消することが調査の主な目的であると当初から強調していた。

因果関係を巡る対立

2020年6月までの段階で、甲状腺がんと確定した患者は186人いる。ただし、これらの症例は「調査の効果」によるものである可能性が高いというのが、福島医大の医師たちの主張だった。調査がなければ見逃されていたであろう症状が、広範囲の(この場合は30万人を対象とした)検査で見つかったというわけだ。

医師団はさらに、チェルノブイリで甲状腺がんが増え始めたとみられるのは事故の4年後からだが、福島では初回の検査での発見がほとんどで、検査するたびに数が減っているとも指摘している。福島で腫瘍が見られた子どもの年齢構成もチェルノブイリとは異なる。チェルノブイリでは低年齢層で多く観察されている。

だが、活動家や医師の一部はそうした説明を受け入れていない。旧ソ連の医師たちは事故後の何年かは超音波ではなく触診で診断していたので、腫瘍を見逃していたというのだ。また、甲状腺の線量は事故直後の実際の測定値ではなく、内部被ばく線量の再構築に基づいた推定値にすぎないことも指摘している。

福島からの避難者で反原発運動に従事している菅野みずえ(67歳)は、事故のわずか8日後に山下が日本国民にこう語りかけていたのを覚えている。「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人にはきません。クヨクヨしている人にきます」

山下の言葉は騒動を巻き起こした。「その言葉を聞いて、わたしは友人と一緒に避難所で笑顔の写真を撮りました。それにもかかわらず、ふたりともがんになりました」と話しながら、菅野はタートルネックをずり下げて首筋のちょっとした傷を見せてくれた。「甲状腺を半分切ったんです」

チェルノブイリのデータは、甲状腺がんが多く発症しているのは子どものときに高い放射線量を浴びた人々だけであることを示している。つまり、菅野の腫瘍の原因が第一原発の放射能である可能性は低くなるのだ。とはいえ、菅野のような人々にとって、山下の発言は医学界の無神経な傲慢さを象徴するものになった。

放射線の影響を心配する親たちのために、市民ラボ「いわき放射能市民測定室たらちね」は誰でも(大人でも)甲状腺を検査でき、また一般の保険診療をはじめ、子どもたちの検診メニューを揃えた診療所を17年に開設した。「日本では医者は誰からも尊敬されており、目上の存在のような扱いを受けています。あまり気軽に話せる相手ではなく、質問もしづらいと感じるのです」と、たらちねの飯田亜由美は言う。

甲状腺がんを引き起こす放射性ヨウ素の半減期はわずか8日間で、事故後の数カ月で完全に崩壊している。このため福島県の調査は、1992年4月2日から2012年4月1日生まれの子どもしか対象にしていない。それでも飯田は、事故後に生まれた3人のわが子に検査を受けさせた。

「正確なことはわからないと思うんです。『統計的に、福島でこれだけの人が病気になると想定される』という情報はよく耳にしますが、母親たちはそれをわが子のこととして受け止められません。ただ目の前のわが子のことが心配なのです」と、飯田は語る。

放射能が心に与えた痛み

酒井道子が夫と住んでいた浪江町の家は、津波で流された。「全壊でした。コンクリートの基礎以外に何も残らかなったのです」と、彼女は回想する。放射線量が高かったので、2017年にようやく自分の目で壊滅状態を確かめることができた。

そのころまでに、酒井の家族は散り散りになっていた。夫は原発で働き、その近くの会社の寮に住んでいた。義母は以前のご近所さんの近くに住むことを希望し、政府が用意した仮設住宅へと引っ越した。息子は大学へ通っていたので、酒井は娘とともに内陸の福島市に移ることにした。

「自然災害でバラバラになったのであれば、もう一度家族が一緒になれたと思います。でも、放射能のせいで離散してしまったのです」と、酒井は言う。避難生活のなかで地元のコミュニティも崩壊し、友人もいなくなってしまった。「誰が亡くなって、誰が生きているのかもわかりませんでした。(津波で)誰かが亡くなったと聞いても、どこかへ避難しているのだろうという感覚なのです。亡くなったという実感はありません」

かろうじて残っていた地元コミュニティの絆も、補償金を巡る対立で弱まってしまった。原発の賠償金を受け取った人々は「避難者いじめ」に遭ったのだ。酒井は怒りを買うことを恐れ、引っ越した先で自分の出身地を明かさなかったと話す。

「放射能が壊したのは、わたしの心です。被ばくがどうこうの問題ではありません。放射能は測定できます。しかし、放射能がもたらした心の痛みは目に見えないのです」

事実、放射能の身体への影響に対する懸念は原発事故の影響のほんの一部にすぎない。17年に福島の避難者向けの心のサポートダイヤル「ふくしま心のケアセンター」を利用した人のうち、放射能に関する相談は2%未満だ。一方で、放射能以外の健康問題が8割を占め、3分の1が家族に関する相談だった。

原発事故によって何万人もの人々が住まいを追われ、地元のコミュニティも壊れてしまった。家族は引き裂かれ、仕事も奪われた。避難者は何年も不安定な立場に置かれている。人々を待ち構える故郷が縮小して不便になったことを考えると、いつ戻れるのか、またそもそも戻りたいのかどうかさえわからないでいる。

「原発事故がもたらしたのは、被ばくの問題だけではありません。心の問題がすべてでもありません。これはライフスタイルの変化や家族の問題、社会構造の変化であり、病院の閉鎖やレッテル、いじめ、金銭の問題でもあります」と、相馬中央病院の放射線専門医である坪倉正治は指摘する。「ここでは放射能の話題をもち出す人はほとんどいません。放射能を気にする人は戻ってきませんから」

放射能の不安を強く感じた人々はできる限り遠くまで避難し、福島とは距離を置いているのだ。日本列島の南に浮かぶ沖縄県まで移動した人もいる。現在も約30,000人が福島県外で避難生活を送っている(第3回に続く)。

※本記事は取材対象者に『WIRED』日本版で追加取材し、加筆修正を加えている。


現地ルポ:原発事故と福島のいま

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