子どもの健全な発達を阻む、競争をあおる教育。どのような悪影響があり、どのような改善が望まれるのか。さらにその一種である「教育虐待」とは。一般社団法人ジェイスの武田信子代表理事による論考。

1.被虐待児と同じ症状を呈する日本の子どもたち

1)気づかない日本の大人たち 
子どものからだと心の発達を、全国の養護教諭らの協力を得て40年以上研究している日本体育大学体育研究所の研究結果によれば、近年の「日本の多くの子どもたちは、虐待を受けている子どもたちと同じ身体症状を呈していると解釈できる」(野井、2021)、つまり、ジュディス・ハーマン(1999)の言う「警戒的過覚醒状態にあり、睡眠と覚醒、食事、排せつ等の周期の乱れを示し、落ち着いていられず、いわゆる『よい子』であろうと執拗に努力し続けている」状態であるという。

前頭葉機能、自律神経機能、睡眠・覚醒機能といった「神経系」の発達に、被虐待レベルのさまざまな問題が生じているというのである。

しかし、このような結果を多くの人は知らず、知ってもそれを深刻な問題と受け止めない。

2)国連子どもの権利委員会からの勧告
国連子どもの権利委員会は、日本の過度に競争的な教育が子どもたちに悪影響を及ぼしていることを繰り返し指摘し、2019年にも「子どもが社会の競争性によって害されることなく、子ども時代と発達を楽しむことができるような措置を講じること」と勧告している。

競争的な教育は、家庭に限らず学校や塾、スポーツや音楽指導等においても日常的に見られ、子どもたちにもっと勉強させる必要があるという論調は収まるところを知らない。

勉強に向かう時間が増えれば、子どもたちの生きる力の基盤を作る生活や遊びの時間が確実に減るが、それらの時間の保障は考慮されないまま、子どもたちは学校が終わっても宿題や塾の形で「残業」させられ、すきま時間にそのストレスを吐き出すかのようにゲームやネットに向かっている。

3)大人たちの価値観 
国際的な視点で見たときに「問題である」とみなされることが、日本国内ではなかなかそう認識されない。それは例えば、性器切除が当然と考えられる地域があったり、黒人奴隷や女性差別が当然と考えられてきた時代があったりしたことと同様かもしれない。慣習や常識、国民全体の価値観に基づいていることが問題とみなされるまでには高いハードルを越えなければならない。

たとえば、日本には自殺者が年間2万人以上いる。交通事故死者数の10倍近い数にもかかわらず、自殺は個人の問題とみなされがちで、社会の問題と認識する人、その問題に取り組もうとする人は多くない。それは、子どもが年間500人以上自殺しても同じである。

一人の子どもがこの世から自分を消そうと思うまでにどのような体験があり、どうして身近な人や社会に救いを見出すことができなかったのか。しかも自殺直前の最頻検索ワードが「学校行きたくない」であったという(NHK、2016)。それはなぜなのか。私たちは考える必要がある。

次に、虐待の一つである体罰について考えてみよう。日本では長い間、子どもへの体罰を認める人が6割を超えていた。体罰の禁止を盛り込んだ改正児童虐待防止法と改正児童福祉法が2019年に制定され、体罰容認派が4割に減少したとはいえ、今もまだ、子どもを導くために大人が子どもに暴力をふるうのは仕方ないと考えている人が少なくない。体罰を使わずに子どもたちと対話的に問題解決する方法があると知らないのである。

また、半世紀前に始まり、今も増え続ける不登校やひきこもりは日本に特徴的な現象であるが、その主な要因が無気力・不安(文科省、2022)とされているのはなぜか。なぜ無気力・不安になり、それが継続しているのか、説明が必要である。

私たちはこのような状況に慣れてはいけない。

これまで日本では、子どもたちが、大人たちの価値観に基づいてなされる教育に不適応になったり、絶望して自殺したりひきこもったりすると、それを子どもたちの異変だと見做してきたが、おかしいのは歴史的に長く続く価値観の中で、疑問を持たずにその価値観を次世代の子どもたちに押し付けて世代間伝達し続けている大人たちの方ではないのか。