19世紀後半、一般家庭の室内照明はオイルランプ、ろうそくが主流で、まだ多くの人が暗くなったら就寝する生活を送っていました。本編のエジソンの研究所のように、ガス灯も使用されていましたが、ガス管の通っていない家では使用できなかったため、利用者は限られていました。1808年にファラデーの恩師のデービーによって考案されたアーク灯という電気による灯りも実用化されていましたが、この灯りは炭素の棒と棒の間に発生する電気火花を利用した仕組みのため眩しすぎて街灯としてしか使用できませんでした。
蓄音機の発明がひと段落したエジソンは、それまで並行して進めていた細かい発明をやめて、研究の対象を白熱電球の実用化一本に絞りました。エジソンは、なぜガス灯の改良ではなく、白熱電球の実用化に目を付けたのでしょうか?それは、一方で、電気を供給するための会社を作り、もう一方で、(電気の使い道としての)さまざまな電化製品を開発すれば、人々の暮らしを一変させることになり、結果としてとてつもなく大きなビジネスになると考えたからなのです。
白熱電球はイングランドの物理学者のジョゼフ・スワンが発明したものでしたが、1877年の時点で40秒しか点灯できませんでした。エジソンは電気を流すと光源となるフィラメント部分の材料に着目して研究を始めます。紙や白金、果ては研究員のひげまで試して、本編で真理と御影が跳んだ、1879年10月21日には約40時間の連続点灯を成功させています。その時は木綿糸に煤とタールを混ぜたものを塗り、炭化させたものを使用していました。
最終的に実用化に耐え得ると判断された電球は、京都の石清水八幡宮周辺で採れた真竹を炭化させたフィラメントを使用していました。スワンもエジソンとは違う素材のフィラメントを発明していました。特許を巡って訴訟が起きましたが、話し合いによって解決し、1883年にスワンと共同で会社を作りました。
参考文献
ベルが電話機を発明したことを知ったエジソンは同じものを助手に作らせました。その結果、ベルの電話機は音も小さく、あまり遠い所までは届かないことがわかりました。そこで、ベルの電話機の改良版としてエジソンが作ったのが、前回の解説に出てきた「炭素式マイクロフォン」だったのです。炭素の粒を電磁石と振動板の間に挟んであり、話し声で震えた振動板の影響で炭素の粒は声の音波が通る時に押され、その度合いにより通過する電気の量が変化する仕組みでした。ベルの電話機(送話側)よりも声による空気の振動を増幅するように改良したのです。
エジソンは子供の頃、しょうこう熱にかかった際に耳の聞こえが悪くなっていて、電話の改良をしている時には振動板に歯を当てて音を確認していました。この振動を紙などに記録して再生できないかと考えたのが、蓄音機発明のきっかけでした。
エジソンの設計図通りに技術者が組み上げた蓄音機の円筒部分に銀箔を巻いて、ハンドルを回し録音した後、再度円筒を元の場所に戻してハンドルを回すと不明瞭ではありますが、音声が聞こえました。こうしてエジソンは声の出る不思議な機械を発明したということで話題になり「メンロ・パーク(研究所の場所)の魔術師」と呼ばれるようになりました。
ちなみに、この蓄音機の音質の向上と録音時間の延長という改良したのは、ベルの設立した研究所でした。
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1846年、ファラデーは「電気は波状になって空間を順々に伝わる」という考えを発表しました。その頃、「電気は空間を跳び越えて伝わる」と考えられていて、ファラデーの考えは新しいものでした。しかし、数式で表すことができなかったため、他の科学者たちには理解されませんでした。
ところが、1854年、ファラデーの考えを数式にする努力をしていたイギリスの科学者のクラーク・マクスウェルは、とうとう電気の波を表す式にたどりついたのです。さらに、その波の速度はどれくらいになるか?という計算をしたところ、電気は光と同じ速さで伝わる性質を持っていることが予想されました。しかし、波を目で見て確認する方法がなかったことや、マクスウェルの数式が難しすぎることが原因で「電気は波状になって空間を順々に伝わる」という考え方は一部の人にしか受け入れられませんでした。
この電磁気の波を作り出し、それをとらえる実験に成功したのがヘルツです。1888年のことでした。本編中に永司が見ていたのはまさに電磁波の実証実験です。放電させて、勢いよく流れだした電気は、振り子のように、流れすぎて戻ったり、戻りすぎては返ったりして、火花を出します。この電気の振動が波となって空間を伝わり、離れた場所の針金の隙間に電気を起こしたのでした。
さらにヘルツは、この波が、光と同じ性質を持っているのを確かめて、反射をさせることもできることを確かめました。大発見でしたが、新しい知識を役立てる方法はその時には考案されませんでした。電信にどのような影響がありますか?という質問にも、ヘルツはなんの役にも立たないと思いますと答えてしまいました。ヘルツの死後、イタリアの発明家・マルコーニによって、無線で電信を伝える技術が商業化されました。
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第9話の冒頭でエジソンが電話の特許の話をしていました。1876年1月、エジソンは電話の設計図を提出していましたが、出願内容に不備があったため、受理されませんでした。その1か月後、2月15日、エリシャ・グレイが電話の特許予告記載を申請すると事前に情報を得たハバードは、ベルの許可を得ずに特許を申請しました。同日の2時間後にエリシャ・グレイの代理人も手続きに来ましたが、この差があったため、ベルに特許が与えられました。
そして、本編にあったように、ベルと万博会場で再会したドン・ペドロが賞賛したことがきっかけで、ベルの電話機は注目を浴びることになり、万博で金賞も受賞しました。しかし、実用品としては、注目されていませんでした。商売に使う場合は取引内容など、重要な情報は書面に残しておかなくてはいけないため、電報や郵便が主な連絡手段で、音声通信では替えがききませんでした。また、ウエスタン・ユニオン社に権利を10万ドルで売ると話を持ち掛けましたが、そんな「おもちゃ」はいらないと一蹴されてしまいました。あくまで、電話は離れた場所にいる人の声が聞こえてくる、不思議な見世物でした。
しかし、エジソンによって改良された技術(炭素式マイクロフォン)は電話の実用性を高めるものでした。これに目を付けたウエスタン・ユニオン社はエジソンの特許を武器に、ベルの電話会社を相手に競争を始めたのです。ところが、ベル側はエジソンより2週間前に炭素式マイクロフォンに似た技術を特許取得※していた技術者を雇い入れ、エジソンの特許の無効を訴えたのです。結局、1879年、話し合いをして、「ウエスタン・ユニオン社は電話事業から手を引いて、ベルの会社も電信事業には手を広げない」という取り決めをしてまとまりました。
※厳密には、予告記載というものを出していました。予告記載とは、発明が完成したら特許申請を優先してください。という申請です。
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第8話でも紹介された通り、ベルはろうあ者教育に尽力していました。父の発明した視話法以外にも、耳が聞こえない状態での発声の助けとして、音の構造を図で示す機械を発明しようと研究をしていました。母の影響からピアニストを目指したこともあるベルは、ピアノのペダルを踏んで弦を解放した状態で声を発すると、その声に対応する弦が振動することを知っていました。つまり、音の高低を変えれば1本の電線で複数の音を送れるのではないかと考えていました。
電気の知識も少なく、手先も器用ではなかったベルは機械製作の技術と資金について、教え子の親である資産家のサンダースと、弁護士のハバードから支援を受けることになります。
支援をするにあたり、2人から、音声の伝送ではなく、情報の伝送の研究に専念するように言われます。というのも、1870年代前半、電線1本につき、電報は1つしか送ることしかできませんでした。そのため、ボストンなどの電信が盛んな都市部では、電線がたくさんあって空が見えないという場所もあったそうです。当時、アメリカの電信を独占的に支配していた、ウエスタン・ユニオン社が、発明家に対して最高100万ドルを支払うと発表するほど、1本の電線で複数の電報をやりとりする技術が求められていたのです。
という事情から、言いつけ通りに音声ではなく情報を送る研究を電気工作担当のワトソンと共に進めていました。しかし、1875年6月、実験中に音が伝送できてしまったことにより、電話の研究にシフトしていきました。
参考文献
電信は電気を積極的に利用した最初の発明です。この発明によって、電気がどんなことに役立つのか一般の人に知られることになりました。
電気を使って、遠く離れた場所に素早く信号を伝えるという考えは、電気の実験をする人々の間ではずいぶん昔からありました。電池が発明される以前は、検電器という電気の有無を確認する装置を使ったり、送られてきた電気が軽い木の芯を引っ張る仕掛けなどが考えられました。ボルタ電池が発明された後は、送られてきた電流で水の電気分解をさせて泡で信号を伝えようとし、電流が磁針を動かすということが発見された後は、5本の針を動かして信号を伝える電信機が発明されます。しかし、信号の読み取りや構造が複雑で取り扱いが難しいため、実用的ではありませんでした。このように、どの時代も、送られてきた信号の受信方法が試行錯誤されていました。
モールスの電磁石を使った電信機はこれまでとは違った方法でした。本編でも説明のあった「・」と「-」の組み合わせの信号を送り、受信機側ではテープに記されます。符号表があれば、読み解くことが可能でした。
また、19世紀は、蒸気機関を動力とした機械工業が繁栄しています。遠くの人と素早く連絡を取ることで、取引が有利になることもあります。さらに、蒸気機関車も登場します。汽車を安全に運行するために駅間の情報交換は素早さが必要でした。
そういった時代背景も手伝って電信の網は広がっていきました。
参考文献
王立協会とは、1800年に設立されたばかりの研究所で、「機械に関する役に立つ新知識を広め、日常生活に科学を役立たせるために、順序だった科学の講義と実験をおこなうことを目的」(板倉 1983)としていました。
第6話でデービーがファラデーの王立協会の会員入りに反対するという話が出ていました。王立協会の会員になるには、すでに会員になっている人たちから推薦を受けたうえで、全会員の秘密投票で過半数の賛成を得ることが必要だったのです。
逆に言えば、王立協会の会員になるというのはそれだけ名誉なことなのでした。
ファラデーの電磁回転に関する論文が発表されると、他の科学者たちは、ファラデーが「どうやって実験に成功したのか?」と疑問に思うようになりました。当時、多くの科学者たちには、数学を頼りに問題を考える習慣があったのですが、ファラデーの論文にはそういった数式は記されておらず、絵や図で示されていたからです。
ファラデーが数学を使わず、磁力線だけを頼りに仮説を立てて実験したことなど思いもよらないことだったのでしょう。ちなみにファラデーは職人見習い時代にリボーの店にいた、亡命してきた画家に絵を習っていたこともあり、とても絵が上手でした。
ファラデーはこの後に化学の分野でも「塩素ガスの液化の成功」という成果を上げて、一人前の科学者として認められるようになりました。そして、1824年、1月にロンドンの王立協会の名誉ある会員に迎え入れられたのでした。
参考・引用文献
ファラデーはもともと製本職人として働いていました。
19世紀のイギリスは厳しい階級社会で、労働者階級の家に生まれたファラデーは、最低限の読み書きは学びましたが、13歳の時に製本業を兼ねている本屋に見習い奉公に出されます。製本職人の見習いとして働き、店にある本を読むうちに、電磁気学や化学と出会います。ファラデーは自分でも簡単な実験をおこなったり、一般向けの科学講座にも参加して自分で講義ノートを製本したり、仲間と意見を交わしたり、熱心に勉強をしました。
親方のリボーは勉強熱心な奉公人がいると知り合いに自慢をしており、そのツテでファラデーは王立研究所の公開講座の入場券をもらいます。この時の講師がハンフリー・デービーでした。デービーはボルタ電池を使用した電気分解の先駆者として有名でした。やがて、製本職人の見習い期間が終わり、職人として勤めた先の主人はファラデーの科学好きに理解がありませんでした。お金はもらえるようになりましたが、勉強に割く時間はありません。
ファラデーは科学で身を立てることにあこがれ、デービーの講義を聞いた時のノートを添えて王立研究所に手紙を送りました。運よく、デービーと面会することはできましたが、科学への道は諦めて、立派に稼げる製本職人を続けることを勧められてしまいます。
しかし、それから間もなく、実験中にデービーが怪我をしたことで、期限付きで書記として呼ばれます。
それが科学者の卵となるきっかけでした。
参考・引用文献
第4話ではボルタ電堆(でんたい)が紹介されました。
ボルタ電堆が発明される以前は、電気の実験をする時に電源となるものはライデン瓶でした。
第3話でフランクリンが実験に使っていた静電気をためる瓶です。そのライデン瓶を複数繋げると大きな電力を得ることができましたが、ためているのは静電気のため、一度放電してしまうと、また電気をためなくてはいけません。
そのため、「一定時間、安定して電流を供給することを可能にした電池」(小山 2013)であるボルタ電堆は画期的な発明でした。
18世紀末、電気はまだ人々の暮らしの中には登場せず見世物の域を出ていませんでした。体に電気を流して刺激を与える治療法も研究されていましたが、それも一般的ではありませんでした。
しかし、ボルタ電堆が発明されたことで、電気の研究は大きく進展します。
そうして、第5話のファラデーの研究に繋がっていきます。
参考・引用文献
第3話では「雷は神の怒りだ」と断定する牧師が登場してきましたが、18世紀半ば頃にはすでに「雷の正体は電気にちがいない」と考える人も増えてきていました。
電気の実験は見世物として人々の目に触れていましたし、実験で見られる電気火花が雷の稲光とそっくりだということには多くの人々が気づいていました。しかし、<雷は電気である>ことを証明する証拠がありませんでした。
電気の実験を繰り返す中で、先のとがった鉄の棒が電気をよく奪うという性質を発見したフランクリンは、「雷は雲の中に起こった電気の仕業だ」ということを確かめるための実験を考えました。「高い塔のてっぺんにつくった小屋に、長さ6~10メートルくらいの、先のとがった鉄の棒を立てておく。そこに、電気を持った雷雲が塔の上を通ったら、先のとがった鉄の棒が雷雲の電気を奪い去って小屋まで運ぶだろうから、小屋の中の人はその電気を使って色々な実験をする事が出来るだろう」という内容でした。この実験方法は本となってフランスやイギリスでも紹介されました。フランス語翻訳したダリバールという人がフランクリンより先にこの実験を行って成功しています。
つまり、できるだけ長い先のとがった鉄の棒を雷(雲)に近づけて、雷をライデン瓶の中に捕まえるというものでこれは凧あげの実験と同じ原理でした。教会の塔を使って実験することができなかったフランクリンは、凧を使って実験を行い、見事に成功を収め<雷は電気である>を証明したのです。その結果、フィラデルフィアの教会には避雷針が設置されることになりました。
それでも多くの教会に避雷針が設置されるのはまだ先になります。気になった人は「聖ナザロ教会 大爆発」を調べてみると詳細を知ることができると思います。
参考文献
第2話ではジョルダーノ・ブルーノという人が処刑されたという話が出てきました。
なぜ、正しいことを言っているのに処刑されてしまったのでしょうか?
キリスト教の主流派の教えは「地球は宇宙の中心にあって止まっていて、太陽やそのほかの星はみんな地球のまわりをまわっている」という「天動説」が正しいとされていました。
「地動説」とは、「本当に止まっているのは太陽の方で、地球はそのまわりをまわっている」という全く逆の考えでした。
さらに、ジョルダーノ・ブルーノはカトリック教会への批判もしていたため、彼の考えを認めてしまうと教会の威信・政治的立場が保てません。そのため、彼の擁護した「地動説」を認めるわけにいかなかったのです。
教会の意に沿わない者は、ジョルダーノ・ブルーノのように処刑されてしまう。そんなとんでもない事が通ってしまうくらい、宗教が政治的な力を持っていた時代でした。
最終的に「地動説」が証明されたのは、ギルバートが亡くなってから84年も経った、1687年のことでした。
参考文献
第1話で真理は、ギルバートに「磁石の針が北をさす」理由の説明を求められて、当たり前のことなので説明できないと困っていました。
このように、現代では当たり前の知識になっていることでも、16世紀のイギリスでは知られていないことはたくさんありました。
例えば、磁石について、「ニンニクを塗られると効力を失う」という言い伝えがありました。羅針盤に使われている磁石への影響を恐れて、船にはニンニクを乗せないという決まりがあった時代もあるくらい、この考えは人々の間で信じられていました。
そんな言い伝えを実験によって、迷信であると証明したのが、イタリアの医師であり、博学者のポルタでした。
ポルタの著書『自然の魔法』(『自然魔術』)に紹介された内容でギルバートも興味深く読んでいました。
しかし、この本には、実験に基づく内容と根拠のない推論とが、混在して書かれていました。「磁石の針が北をさす」理由は「北極星にひっぱられるからだ」としていましたが、確かな証拠は何も書いていませんでした。
そこで、ギルバートは自分で確認してみようと研究を始めたのでした。
参考文献