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欲を人心と云ひ、義理を思ふを道心と云。此段に於て、儒門にも善盡し美盡せること、提宇子、夷狄の曲說の及ぶ所にあらず。人心惟危、道心惟微也と云、此義也。さて佛法には心意識の三を擧て論ずること精しからざるに非ず。不起一念の處は、心王不動の妙體なり。一念の私欲起るは意也。猶も綠紅と細碎工夫するを識と云。譬へば同じ火なれども、火焰熾の三の如し。去れば是程諸家に云盡したる義をば知ずして、珍し㒵にアニマセンシチイワの、アニマラシヨナルのなどゝ、唐人の寢言のやうなる事を云て、愚人を誑かすは曲事なり。猶又アニマラシヨナルには、今生の業によりて、後生にてDs苦樂を與へらるゝと云ふ。かゝる無道を行ずるをDsと云ふや。人主に於ても謗るべし。夏の禹は卽位し玉ひて後、罪人を見て車より下て泣て曰く、堯舜之人は、堯舜之心を以て心とす。寡人、君と爲て、百姓各自ら其心を以て心とす。寡人之を痛むと自ら責玉ふ。商の湯王七年の大旱に、民苦めば、大史占て人を以て禱るべしと奏すれば、是皆吾が罪による天災なり。民の科にあらずと思召し、自ら犧とならんと、素車白馬にして、身嬰