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興国

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興国こうこく旧字体興國)は、日本南北朝時代元号の一つ。南朝方にて使用された。延元の後、正平の前。1340年から1346年までの期間を指す。この時代の天皇は、南朝方が後村上天皇北朝方が光明天皇室町幕府将軍は足利尊氏

改元

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出典

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春秋左氏伝』昭公四年伝の「冀之北土、馬之所生、無興国焉、恃険与馬、不可以為固也」、『新五代史』伶官伝序の「憂労可以興国、逸予可以亡身、自然之理也」から。また興国元年は、日本書紀における神武天皇の即位から折りしも2000年目に相当し、その節目に因んだ改元ともとれる[1]

興国期におきた出来事

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  • 「興国四年の戦い」(「尾野尻の戦い」)

興国四年、豊後大友氏が、阿蘇氏の本拠であった、隣国肥後矢部郷に攻め入った。「興国四年の戦い」または「尾野尻の戦い」とも呼ばれている。阿蘇氏の家臣は、御岳にある眺めの良い小高い丘(地元の伝承では山城があった場所と言われており、空濠がある。 『熊本の中世城址』には載っていない)に大友軍を誘導。あらかじめ埋めておいた爆薬に火をつけ、千人余里の兵を蹴散らしたという。火薬が爆発した響きは、ものすごい音であったという。爆薬のしかけは、土呂久鉱山の労働者(現、宮崎・高千穂町)を使った。

戦いより二百年余りたち、地元の男成田所の人々が供養のために、板碑を建てて弔った。これを「千人灰塔」と呼び、山林に二基建っている。うち1基は、かなり大きいサイズである。

平成13年、地元で郷土史を学んでいる「いきいき大学」と「婦人学級」の生徒が、説明のために二本の標柱を建てた。

近くにある接続道が改良されたが、その場所に看板が無く、地元でも存在はほとんど知られていない。

西暦との対照表

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興国 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年
西暦 1340年 1341年 1342年 1343年 1344年 1345年 1346年
北朝 暦応3年 暦応4年 康永元年 康永2年 康永3年 貞和元年 貞和2年
干支 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌

脚注

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  1. ^ 日本古典文学大系87『神皇正統記 増鏡』岩波書店、1983年、p86

関連項目

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