五経正義
『五経正義』(ごきょうせいぎ)は、中国・唐の太宗の勅を奉じて、孔穎達等が太宗の貞観年間より高宗の永徽年間にかけて撰した『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の五経の疏である。180巻。
概要
[編集]儒教の経典を研究する経学においては、漢から魏・晋の時代には、経書の本文の「経」に対して「注」を附す形式が盛んであり、その後の南北朝時代には、その「経」と「注」の両者に対して「義疏」を附す形式が盛んであった。南朝と北朝とでは、それぞれ主に用いる注が異なっており、経学の傾向に相違があった[1]。
唐の太宗は、経学の盛大なる様を誇示し、なおかつ南北の諸説を統一しようという意図を持って、孔穎達に代表される多くの学者を動員し、『五経義賛』を撰せしめた。これが後に改名されて『五経正義』となった[2]。
『五経正義』の編纂過程は二段階に分かれており、まず貞観12年から14年にかけて孔穎達らが編纂を行い、その後馬嘉運らの批判を受けて、貞観16年に再度孔穎達を中心として編纂が行われた[3]。
内容
[編集]『五経正義』が採用した「注」と、「疏」の作成に当たって底本とした前代の義疏は以下の通りである[4]。
書名 | 経 | 注 | 底本とした前代の義疏 |
---|---|---|---|
周易正義 | 周易 | 王弼注・韓康伯注 | 底本なし。褚仲都『周易講疏』、張譏『周易講疏』、周弘正『周易義疏』、何妥『周易講疏』を適宜参照。 |
尚書正義 | 尚書 | 偽孔安国伝 | 劉焯『尚書義疏』、劉炫『尚書述義』 |
毛詩正義 | 詩 | 毛亨・毛萇伝
鄭玄箋 |
劉焯『毛詩義疏』、劉炫『毛詩述義』 |
礼記正義 | 礼記 | 鄭玄注 | 皇侃『礼記義疏』、熊安生『礼記義疏』 |
春秋正義 | 春秋(左氏伝) | 杜預注(『春秋経伝集解』) | 劉炫『春秋述義』、沈文阿『春秋経伝義略』 |
編纂者
[編集]『五経正義』の編纂は、孔穎達が中心となってその任に当たったが、『五経正義』の各正義の序文には編集に協力した者のリストが付されている。以下に一覧を示す[3]。
書名 | 編纂者 | 審定者 |
---|---|---|
周易正義 | 馬嘉運、趙乾叶 | 蘇徳融 |
尚書正義 | 王德韶、李子雲 | 朱長才、蘇徳融、随徳蘇、王士雄 |
毛詩正義 | 王德韶、齊威 | 趙乾叶、賈普曜 |
礼記正義 | 朱子奢、李善信、賈公彦、柳士宣、范義頵、張權 | 周玄逵、趙君賛、王士雄 |
春秋正義 | 谷那律、楊士勛、朱長才 | 馬嘉運、王德韶、蘇徳融、随徳蘇 |
他に関与が疑われる人物として、顔師古がいる。顔師古が『正義』編纂に加わっていたことは、『貞観政要』や『旧唐書』孔穎達伝に記載されているが、上の『正義』序には顔師古への言及が全くない[3]。
後世への影響
[編集]国家的な事業によって注疏が制定されたことにより、前代までの学問が集大成され、一つの成果が示されたことの意義は大きい。しかし、国家による解釈の統一によって、科挙を受験する諸生は専らこれを暗記するのみとなってしまい、かえって経学の発展が停滞してしまったという側面もある。また、唐代以前に作られた他の注や義疏のほとんどが、姿を消すという結果を招いた。
宋代になると、経・注と合刻され、『十三経注疏』に収められた。
脚注
[編集]- ^ 『北史』儒林傳上「大抵南北所為章句,好尚互有不同。江左,周易則王輔嗣,尚書則孔安國,左傳則杜元凱。河洛,左傳則服子慎,尚書、周易則鄭康成。詩則並主於毛公,禮則同遵於鄭氏。南人約簡,得其英華;北學深蕪,窮其枝葉。考其終始,要其會歸,其立身成名,殊方同致矣。」
- ^ 『舊唐書』儒學傳上「太宗又以經籍去聖久遠,文字多訛謬,詔前中書侍郎顏師古考定五經,頒於天下,命學者習焉。又以儒學多門,章句繁雜,詔國子祭酒孔穎達與諸儒撰定五經義疏,凡一百七十卷,名曰五經正義,令天下傳習。」、『新唐書』孔穎達傳「初,穎達與顏師古、司馬才章、王恭、王琰受詔撰五經義訓凡百餘篇,號義贊,詔改為正義云。」
- ^ a b c 福島吉彦 (1973). “唐五經正義撰定考―毛詩正義硏究之一―”. 山口大學文學会志 24: 1-23.
- ^ Noma, Fumichika, 1948-; 野間文史, 1948- (1998). Gokyō seigi no kenkyū : sono seiritsu to tenkai (Dai 1-han ed.). Tōkyō: Kenbun Shuppan. ISBN 4-87636-160-6. OCLC 43745568