コンテンツにスキップ

植村澄三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
植村泰二から転送)
植村澄三郎

植村 澄三郎(うえむら ちょうざぶろう、1862年12月2日(文久2年10月11日)[1][2] - 1941年(昭和16年)1月17日[2])は、日本の実業家。族籍は東京府士族[1][3][4]。経団連会長植村甲午郎は息子、農学博士渋沢寿一はひ孫にあたる。甲斐出身。

サッポロファクトリー敷地内にある植村澄三郎翁像

人物

[編集]

甲斐国甲府(現山梨県)生まれ[5]。幕臣・植村厚十郎の長男[1][4]明治維新の際横須賀に移住する[1]。家は素より貧窮を極めたため、幼い頃から小田信樹の塾僕となり、傍ら漢籍を修めた[5]

1879年、上京し、開拓使の東京出張所吏員となる[1][5]。後に大蔵省農商務省等に勤務し、1887年、逓信省に転じ、累進して管理局次長となる[5]。1889年、官を辞し実業界に入る[5]

1889年、北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となり、渋沢栄一の勧めで1894年、札幌麦酒専務取締役、1906年、大日本麦酒常務取締役に就任、原料麦の改良、麦芽ホップの国産化などにつとめた[6]

日本醋酸製造取締役会長[3][4]オリエンタル写真工業取締役会長、十勝開墾社長[7]三共南米土地理化学興業各取締役[3][4]、電気化学工業、大和醸造各監査役[3][4]東宝映画大日本麦酒満州パルプ工業相談役[4]維新史料編纂会委員などをつとめる[4]

1883年、家督を相続[3][4]。宗教は神道[4]。住所は東京市赤坂区青山南町[1]、同区表町[3]。墓所は多磨霊園

家族・親族

[編集]
植村家

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第3版』う29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月17日閲覧。
  2. ^ a b 植村 澄三郎とはコトバンク。2019年4月17日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第11版 上』ウ58頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月18日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第12版 上』ウ46頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e 『大正人名辞典』771頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月17日閲覧。
  6. ^ 山梨県甲府市生まれで、サッポロビールの前身(大日本麦酒会社の常務取締役→相談役)をつくった植村澄三郎の経歴などがわかる資料があるか。レファレンス協同データペース、2018年06月09日
  7. ^ 植村澄三郞『人事興信録』第8版
  8. ^ 植村澄三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  9. ^ 奥田良三『こころ、祈り、歌、わが人生』芸術現代社、1989年、36頁。
  10. ^ a b ソニーを創った天才エンジニアと支え育てた理解者 『多磨霊園に眠る発明家① ソニーの源』 井深大×植村泰二小村大樹、The News, 2019年7月5日
  11. ^ 成城散歩特別編高田雅彦、成城学園『学生生活』247号、2016年12月9日
  12. ^ 荒井誠一郎『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1934年
  13. ^ 荒井誠一郎『日本官界名鑑. 昭和12年版』 (日本官界情報社, 1936)
  14. ^ 『公認会計士制度二十五年史』日本公認会計士協会, 1975, p198

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903-1911年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。

関連項目

[編集]