南アフリカ国境戦争
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南アフリカ国境戦争 | |||||||
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アフリカの脱植民地化及び冷戦中 | |||||||
左上から時計回りに: 滑走路上のアンゴラ解放人民運動MiG-21bis、アンゴラ解放人民運動または南アフリカ防衛軍が鹵獲したキューバのT-62戦車、1981年に起きたアンゴラにおける南アフリカ防衛軍の侵略に対する抗議活動、アンゴラ解放人民運動の部下を持つソ連の顧問、クイト・クアナバレへの配備直前のG6榴弾砲、作戦地域内の南アフリカ遠征軍。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
1966–1974: 南アフリカ共和国 ポルトガル |
1966–1974: MPLA UNITA FNLA SWAPO | ||||||
1975–1990: 南アフリカ共和国 UNITA FNLA |
1975–1990: アンゴラ(MPLA) キューバ SWAPO ANC (MK) | ||||||
指揮官 | |||||||
ゲリット・フィリューン ウィリー・ファン・ニーケルク ルイス・ピエナール バルタザール・フォルスター ピーター・ウィレム・ボータ フレデリック・ウィレム・デクラーク コンスタンド・フィリューン ヨハネス・ゲルデンハウス マグナス・マラン アンドレアス・リーベンバーグ ゲオルク・メイリング コーネリウス・スハゲニ・ンジョバ ジョナス・サヴィンビ ホールデン・ロベルト |
サム・ヌジョマ トビアス・ハイニエコ ピーター・ナニエンバ ディモ・ハマアンボ ピーター・ムウェシハンゲ ソロモン・ユワラ アゴスティニョ・ネト ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス アントニオ・フランサ イコ・カレイラ フィデル・カストロ | ||||||
被害者数 | |||||||
死者1,804人[1] 死者2,989人[2] 死者7,421人 不明 |
不明 死者2,289–5,000人[3] (アンゴラ内戦全体での数値) 死者11,335人[4] |
南アフリカ国境戦争(The South African Border War)、あるいはナミビア独立戦争、アンゴラ・ブッシュ戦争(the Angolan Bush War)とは、1966年8月26日から1990年3月21日まで起きていたナミビア[注 1]、ザンビア、アンゴラで起きたほぼ非対称の紛争であった。
南アフリカ防衛軍と南西アフリカ人民機構の武装部門であるナミビア人民解放軍の間で戦闘が行われた。
南アフリカ国境戦争はアンゴラ独立戦争(1961年~1974年)およびアンゴラ内戦(1975年~2002年)と密接に絡み合っていた。
概要
背景
紛争の根源は、第一次世界大戦まで遡る。このとき、南アフリカ連邦[注 2]は、大英帝国と第一次世界大戦の他の同盟国に代わって、ドイツ領南西アフリカに侵攻し、占領した。ドイツの敗北の余波で、国際連盟は南アフリカ連邦に対し、住民が自ら統治する準備が整うまでその領土を管理する委任を与えた(委任統治)。
第二次世界大戦後、南アフリカ連邦は提案された国連信託統治協定に南西アフリカを引き渡すことを拒否し、代わりにそれをケープ州、ナタール州、オレンジ自由州、トランスヴァール州に次ぐ5番目の州として併合する権利を要求した。南西アフリカの白人住民に南アフリカ議会の議員を選出する権利を与える[注 3]など、南西アフリカを南アフリカに統合するための措置が講じられた[注 4]。
戦争勃発
1962年、南アフリカの支配に抵抗し、南西アフリカの独立を目的としてSWAPOが設立。ソビエト連邦の支援を受け、SWAPOはゲリラの訓練を開始し、1966年以降、南アフリカの警察や軍と頻繁に衝突した(ナミビア独立戦争)。
SWAPOはポルトガル領アンゴラにおいてアンゴラの独立を目指す反政府組織(MPLA、UNITA、FNLA)や、南アフリカ国内において反アパルトヘイト運動を行うANCの武装部門ウムコントゥ・ウェ・シズウェとの協力体制を築いた。これに対して南アフリカ共和国はアンゴラの独立運動の鎮圧を図るエスタド・ノヴォ体制下のポルトガルと協力体制を築く(アンゴラ独立戦争)[注 5]。
アンゴラ独立後
1974年のカーネーション革命によりエスタド・ノヴォ体制が崩壊したポルトガルは、アフリカの植民地の独立を承認[注 6]。
翌1975年にアンゴラが独立を獲得すると戦争の局面は大きく変わり、MPLA主導の共産主義政府がゲリラへの支援を開始した。これに対して南アフリカはアンゴラ国内において武装蜂起したUNITAやFNLAへの資金や武器などの援助を行ってMPLA政府の不安定化と打倒を図るのみならず、南アフリカ軍はSWAPOの基地を破壊するためにアンゴラへの襲撃を開始し、アンゴラ軍との戦闘につながった。これに呼応してMPLAの後ろ盾であったソ連の同盟国の一つであるキューバがアンゴラ政府を支援するために軍隊を派遣したため、この戦争は冷戦期における東西両陣営間の代理戦争と化した(アンゴラ内戦)[注 7]。
1988年、南アフリカ、アンゴラ、キューバは和平のための三国協定に署名した。キューバは、南アフリカが南西アフリカから撤退し、同地域の独立を認めた場合、アンゴラから撤退することに同意した。南西アフリカは1990年初頭にナミビアとして独立した。
関連項目
- アパルトヘイト / ナミビア独立戦争
- ポルトガルの植民地戦争 / アンゴラ独立戦争 / アンゴラ内戦
- ローデシア紛争 / モザンビーク独立戦争 / モザンビーク内戦 - 南アフリカ国境戦争と同様に、南アフリカが関与した紛争・戦争。
脚注
注釈
- ^ 当時は南アフリカ共和国が実効支配する南西アフリカ。
- ^ アパルトヘイト政策に対するイギリスの非難への対抗策として、1961年5月31日付でイギリス連邦を離脱した際に、国名を南アフリカ共和国に変更。1994年のアパルトヘイト廃止・イギリス連邦への復帰後も国名は南アフリカ共和国のまま現在に至る。
- ^ あくまでも白人の住民に限って与えられた権利であり、同じ南西アフリカの居住者でも黒人に対しては選挙権を認めなかった。ただし白人にのみ選挙権を認め、黒人の選挙権を否定する政策はアパルトヘイトの一環として南アフリカ本国においても同様に行われていた。
- ^ 1970年からはこれまた南アフリカ本国と同様に、一部の国土を黒人の「独立国」とすることで、南西アフリカ・南アフリカにおける黒人を「外国人」に仕立て上げて参政権等を事実上否定するためにバントゥースタンが設置された。
- ^ 南アフリカとポルトガルは、南アフリカと同様にアパルトヘイト体制を築いて維持するローデシアを含めた3か国で非公式の軍事同盟「アルコラ演習」を1970年に発足させた。ローデシア・南アフリカ・ポルトガルの協力関係についてはローデシア紛争及びモザンビーク独立戦争も参照のこと。
- ^ これによりアルコラ演習は崩壊。1979年にはローデシアも黒人の参政権を認めて国名をジンバブエ・ローデシアに改名、翌1980年には議会の議席100のうち20を白人固定枠とする合意が成立。ローデシアは一旦イギリス領に戻した上でジンバブエ共和国として正式に独立し、初代大統領にカナーン・バナナ、初代首相にロバート・ムガベが就任する黒人国家となったため、1980年代には南アフリカはアフリカ大陸においてほぼ完全に孤立した。
- ^ モザンビーク独立後に発生したモザンビーク内戦においても南アフリカは、FRELIMO主導の共産主義政府に反対する反政府勢力のRENAMOを支援していた。
出典
- ^ Bushwar Statistics
- ^ Portugal Angola
- ^ Cuba: Havana's Military Machine
- ^ “Military Chronicle of South-West Africa”. Rhodesia.nl. 2013年1月15日閲覧。
外部リンク
- “32 Battalion – The Terrible Ones”. 2024年8月25日閲覧。
- Accounts of both sides: A South African Soldier and an MK operative at the Wayback Machine (archived 2009-10-27)
- “South African Roll of Honour”. 2010年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月25日閲覧。
- “Sentinel Projects”. 2024年8月25日閲覧。
- “SA-Soldier Website”. 2011年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月25日閲覧。