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加賀国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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加賀国

-加賀国
-北陸道
別称 加州(かしゅう)
所属 北陸道
相当領域 石川県南部
諸元
国力 上国
距離 中国
4郡30郷
国内主要施設
加賀国府 石川県小松市
加賀国分寺 (推定)石川県小松市
加賀国分尼寺 (未詳)
一宮 白山比咩神社(石川県白山市
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加賀国(かがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

沿革

越国689年-692年持統天皇3-6年)越前国越中国越後国の三国に分立し、718年5月2日に養老律令制定により能登国が越前国から分離。嵯峨天皇の御代(823年3月1日)に越前国から江沼郡加賀郡を割いて加賀国が設置された[1]

823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ[1]大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。

大化の改新の頃までは加賀郡は賀我加宜香我賀加とも言われたとされる [2]

加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった[3]

中世には熊坂荘などの荘園が置かれていたが、戦国時代初頭に一向一揆守護富樫氏を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く(加賀一向一揆)。

江戸時代には、加賀藩(金沢藩)、大聖寺藩(加賀藩支藩)、大聖寺新田藩(大聖寺藩支藩) が置かれた。

近代以降の沿革

領域

明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。

国内の施設

国府

国府は能美郡にあった。現在の石川県小松市古府町にあったと考えられている。

易林本の『節用集』では、「加賀郡に府」と記載がある。

国分寺・国分尼寺

国分僧寺は、承和8年(841年)、既にあった「勝興寺」(現 小松市)を国分寺に転用して設けられた。

尼寺は伝わっていない。

神社

延喜式内社
延喜式神名帳』には、小社42社42座が記載されている。大社はない。加賀国の式内社一覧を参照。
総社一宮以下

地域

人物

国司

加賀守

  • 紀末成[1] - 823年(弘仁14年)12月 見
  • 藤原良房 - 830年(天長7年)閏12月 任
  • 藤原長良 - 834年(承和元年)正月 任
  • 源明 - 838年(承和5年)正月 任
  • 源寛 - 839年(承和6年)正月 任
  • 源寛 - 842年(承和9年)9月 再任
  • 源生 - 843年(承和10年)正月 任
  • 藤原助 - 845年(承和12年)正月 任
  • 藤原並藤 - 847年(承和14年)正月 任
  • 正行王 - 850年(嘉祥3年)3月 見
  • 藤原衛 - 851年(仁寿元年)10月 任
  • 藤原衛 - 855年(斉衡2年)正月 再任 - 857年(天安元年)11月 卒
  • 藤原仲統 - 857年(天安元年)12月 任 - 858年(天安2年)11月 罷
  • 源啓 - 859年(貞観元年)正月 任
  • 清原長田 - 860年(貞観2年)正月 任
  • 藤原本雄 - 862年(貞観4年)2月 任
  • 源能有 - 866年(貞観8年)正月 任 - 869年(貞観11年)2月 罷
  • 藤原有実 - 869年(貞観11年)3月 任
  • 朝野真吉 - 870年(貞観12年)正月 任
  • 茂世王 - 874年(貞観16年)正月 見
  • 多治藤善 - 880年(元慶4年)12月 見
  • 大春日安永 - 886年(仁和2年)正月 任
  • 平篤行 - 908年(延喜8年)正月 任 - 908年(延喜8年)2月 転
  • 源頼房
  • 藤原師高 - 1175年(安元元年)任官。

加賀介

守護

鎌倉幕府

室町幕府

武家官位としての加賀守

脚注

注釈

  1. ^ 旧高旧領取調帳」は加賀国分が欠けているため、木村礎の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書13 旧高旧領取調帳 中部編」(近藤出版社、1977年全国書誌番号:77023669)に掲載されたデータが国立歴史民俗博物館によりデータベース化されている。
  2. ^ 日付は布達が出された日である。実際は、太政官が石川・足羽両県に伝達することを忘却していたため、翌年2月に実施されている[4]。なお、足羽県は布達が届いた時には既に敦賀県に編入され、消滅していた。

出典

  1. ^ a b c 『ふるさと石川歴史館』(2002年6月10日、北國新聞社発行)524頁。
  2. ^ 「加賀国」国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第3巻 (か)』吉川弘文館、1983年2月。ISBN 4-642-00503-X
  3. ^ 林陸朗「加賀立国の史的背景」、國學院大學文学部史学科編『坂本太郎博士頌寿記念日本史学論集』上巻、吉川弘文館、1983年、ISBN 4-642-01-019-X
  4. ^ 石川県史. 第4編p16-17 近代デジタルライブラリー

参考文献

関連項目

外部リンク