コロラド・アバランチ
コロラド・アバランチ Colorado Avalanche | |
カンファレンス | ウェスタン・カンファレンス |
ディビジョン | セントラル・ディビジョン |
創設年 | 1972年 (1979年にNHLへ加入) |
歴代チーム名 | ケベック・ノルディクス (1972 - 1995) コロラド・アバランチ (1995 - ) |
ホームアリーナ | ボール・アリーナ |
ホームタウン | アメリカ合衆国 コロラド州デンバー |
チームカラー | バーガンディ、青、シルバー、黒 |
メディア | |
オーナー | アン・ウォルトン・クランケ |
GM | ジョー・サキック |
ヘッドコーチ | ジャレッド・ベドナー |
キャプテン | ガブリエル・ランデスコーグ |
獲得タイトル(獲得年) | |
スタンレーカップ優勝 (3回) | |
1996・2001・2022 | |
アブコワールド (0回) | |
なし | |
カンファレンス優勝 (3回) | |
1996・2001・2022 | |
ディビジョン優勝 (9回) | |
1996・1997・1998・1999・2000・2001・2002・2003・2013 | |
プレジデンツトロフィー (2回) | |
1997・2001・2021 |
コロラド・アバランチ(Colorado Avalanche)は、アメリカ合衆国コロラド州デンバーを本拠としているナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
歴史
NHLの1994-1995 シーズンはロックアウトの影響により期間が短縮されて開催された。このためコロラド・アバランチの前身ケベック・ノルディクスはチームとしてはよい成績を収めていたものの、台所事情が苦しくオーナーの Marcel Aubut はケベック州政府に対し財政的支援を求めた。しかしこの支援は行われず、オーナーはチームをコロラド州デンバーの投資家グループに売却することを余儀なくされた。こうしてノルディクスはフランチャイズをデンバーに移転し、チーム名をコロラド・アバランチに変更する。
デンバー移転後の初シーズンにおいては、既にチームは キャプテンのジョー・サキック(Joe Sakic)、スウェーデン人のスターセンターのピーター・フォースバーグ (Peter Forsberg、以後フォースバーグ) 、強力ディフェンスのアダム・フット(Adam Foote、以後フット)らの有力選手を抱えていた。しかし、この後に起こるシーズン途中でのトレードは予想外の出来事で、これによりチームは真の有力チームとなるのである。
1995年12月2日、モントリオール・カナディアンズがチーム史上最悪の1対12でデトロイト・レッドウイングスに大敗した試合でパトリック・ロワ(Patrick Roy)はゴーリーを務めた。ロワは、以前からチームの不甲斐ない戦いぶりに不満を抱いていたが、この試合はそれを爆発させるのに十分であった。当時のカナディアンズのコーチであったマリオ・トレンブレイ(Mario Tremblay)は9失点するまでロワを出場させ続けた。ゲーム終了後、ロワはチーム会長 Ronald Corey に退団したい旨を伝えたのである。同年12月6日ロワは同僚のマイク・キーン(Mike Keane)とともにアンドレイ・コバレンコ(Andrei Kovalenko)、マーティン・ルシンスキー(Martin Ručinský) 、ジョセリン・ティボー(Jocelyn Thibault)との交換トレードでコロラド・アバランチに加入する。只でさえ有力メンバーを備えたチームに殿堂入り級のゴーリーを加えて、1995-1996シーズンのスタンレー・カップ優勝への道程をもはや誰も止めることができなかった。
翌年も好調を維持したが、西カンファレンス決勝でデトロイト・レッドウイングス(1996-1997シーズンのスタンレー・カップ優勝)に4勝2敗と敗れ、スタンレーカップ連覇の夢は絶たれた。
この後もチームは好調を維持し続け、2000-2001のポストシーズンにその最盛期を迎える。この年、後に殿堂入りするディフェンスレイ・ボーク(Ray Bourque)を獲得する。ボークは20年余りに渡ってボストン・ブルーインズ一筋の選手であったが、スタンレー・カップを目指してもう一働きをしたいと、移籍を申し出ブルーインズもこれを受諾したのであった。2000年3月6日ボークは同僚デイブ・アンドレチャク(Dave Andreychuk)とともにコロラドに移籍した。トレードの見返りはブライアン・ロルストン(Brian Rolston)、 Martin Grenier 及び Samuel Påhlsson の3選手とドラフトの第1巡目の指名権であった。チーム補強はこれだけではなかった。2001年2月21日には、ロサンゼルス・キングスからディフェンスのロブ・ブレイク (Rob Blake、以後ブレイク) を加えチームの「ブルー・ライン」はさらに強固なものとなった。
こうして2000-2001 シーズン、アバランチは支配的なほど強力布陣を敷いた。チームはシーズン118ポイントを獲得し易々と会長賞を得て、ボークの20年来の宿願であったスタンレー・カップ優勝の用意が整った。もっとも、有力フォワードのピーター・フォースバーグは、第2ラウンドの対ロサンゼルス・キングス戦終了後、脾臓の緊急手術を行い、プレーオフ残り試合を欠場した。
スタンレー・カップ決勝の対ニュージャージー・デビルス戦は、肉体的にも非常に厳しい戦いとなったが、アバランチの第7試合での勝利に終わり、チームは2度目のカップを獲得する。
スタンレー・カップをNHLコミッショナーから授与された優勝チームのキャプテンは、カップをチームメートに手渡す前に先ず自分の頭上にそれを高く掲げること (hoist) が伝統とされていた。しかし、アバランチのキャプテン、ジョー・サキックは、2001年にこの伝統を破った。彼はカップを受け取ると、持ち上げずにレイ・ボークに手渡し、ボークに掲げるように促した。
2003-2004シーズンでは、マイティーダックス・オブ・アナハイムでダイナミック・デュオとして活躍したテーム・セラニ(Teemu Selänne)、ポール・カリヤ(Paul Kariya)のコンビを獲得したこともあり、3度目のカップ優勝を有力視する声もあったが、これはならなかった。
さらに、2004年から2005年のNHLロックアウトの後、主軸として安定した活躍を見せていたフォースバーグとフットが移籍(それぞれフィラデルフィア・フライヤーズとコロンバス・ブルージャケッツへ移籍)して、大幅戦力ダウンといわれたが、辛うじてプレーオフは進出した。
また、2005-2006年オフにも、主軸となりつつあったアレックス・タンゲイ(Alex Tanguay、以後タンゲイ)を、カルガリー・フレームスへ、ブレイクも古巣のロサンゼルス・キングスへ抜けて、2006-2007シーズンを望むことになった。シーズンにおいては最後まで熱戦を見せたものの、最後はタンゲイのいるフレームスにプレーオフ進出を阻まれた。ただ、プレーオフに出られなかったチームの勝ち点95は、NHL記録となった。
2007-08年にはフォースバーグとフットがアバランチに復帰し、プレーオフに進出するも、2008-09年はサキックの怪我などもあり、リーグ全体30チーム中27位となる成績に終わる。このオフにはサキックが引退し、ドラフトでは全体3位でマット・デュシェーン (Matt Duchene) を指名して若手を主体としたチーム作りへと方向転換した。
キャプテンをアダム・フットに託した2009-10年には、新加入ゴーリー、クレイグ・アンダーソン(Craig Anderson)の活躍もあり、早くも新生チームでプレーオフ進出(1回戦敗退)を果たす。翌2010-11年も前半こそプレーオフ圏内にいたが、負傷者続出もあって中盤以降大失速し、最終的には西カンファレンス15チーム中14位に沈んだ。このシーズン途中に、3年振りにNHLへ復帰したフォースバーグが、そしてオフにはフットが引退を決める。
2011年のドラフトでは、チーム史上最高位となる全体2位でスウェーデン人フォワードのガブリエル・ランデスコグ(Gabriel Landeskog)を指名する。そしてロワ引退以降の懸念箇所であったクリーズの改革に着手し、ワシントン・キャピタルズからセミヨン・バーラモフ(Semyon Varlamov)をトレードで獲得(見返りは2012年第1巡目指名権と、同年または翌年の第2巡目指名権)し、さらにアナハイム・ダックスで優勝経験とプレイオフMVP受賞歴のあるベテラン、ジャン-セバスチャン・ジゲール(Jean-Sébastien Giguère)を迎えるなどして1軍ゴーリーを一新している。
2011-12年にはルーキーのランデスコグが全試合に出場し、チームトップの22ゴールを挙げる活躍を見せて新人賞を獲得する。ロックアウトにより短縮された翌2012-13には、19歳9ヶ月13日というリーグ最年少でランデスコグがキャプテンに就任する。しかしチームは再び大きく低迷し、西カンファレンス最下位、リーグ全体では29位に終わってしまう。
2013年にはロワが新ヘッドコーチに就任。そしてドラフトロッテリーに於いて、オッズ1位のフロリダ・パンサーズを抑えてアバランチが全体1位指名権を獲得する。長年ディフェンスに不安を抱えていることから、ドラフトランキング北米スケーター部門第1位で、デンバーにも縁のあるディフェンスマン、セス・ジョーンズ(Seth Jones (ice hockey))を1位指名するものと見られていた(父親はかつてNBAデンバー・ナゲッツに所属していたポパイ・ジョーンズで、セスはこのデンバー在住時にホッケーキャリアをスタートさせている)。しかしアバランチは、そのジョーンズが率いるポートランド・ウィンターホークスをメモリアルカップで撃破したハリファックス・ムースヘッズのセンター、ネイサン・マキノン(Nathan MacKinnon)を指名して周囲を驚かせた。
年度別成績
ケベック・ノルディクス時代(WHA時代・1972年 - 1979年)
年 | GP | W | L | T | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1972-73 | 78 | 33 | 40 | 5 | 276 | 313 | 71 | イースト5位 | 不参加 |
1973-74 | 78 | 38 | 36 | 4 | 306 | 280 | 80 | イースト5位 | 不参加 |
1974-75 | 78 | 46 | 32 | 0 | 331 | 299 | 92 | セントラル1位 | 決勝敗退 (ヒューストン・アエロズ) |
1975-76 | 81 | 50 | 27 | 4 | 371 | 316 | 104 | セントラル2位 | 準々決勝敗退 (カルガリー・カウボーイズ) |
1976-77 | 81 | 47 | 31 | 3 | 353 | 295 | 97 | イースト1位 | 優勝 |
1977-78 | 80 | 40 | 37 | 3 | 349 | 347 | 83 | 4位 | 準決勝敗退 (ニューイングランド・ホエーラーズ) |
1978-79 | 80 | 41 | 34 | 2 | 288 | 271 | 87 | 2位 | 準決勝敗退 (WPG) |
ケベック・ノルディクス時代(NHL加入後・1979年 - 1995年)
年 | GP | W | L | T | OL | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1979-80 | 80 | 25 | 44 | 11 | - | 248 | 313 | 61 | アダムス5位 | 不参加 |
1980-81 | 80 | 30 | 32 | 18 | - | 314 | 318 | 78 | アダムス4位 | 初戦敗退 (PHI) |
1981-82 | 80 | 33 | 31 | 16 | - | 356 | 345 | 82 | アダムス4位 | カンファランス決勝敗退 (NYI) |
1982-83 | 80 | 34 | 34 | 12 | - | 343 | 336 | 80 | アダムス4位 | 初戦敗退 (BOS) |
1983-84 | 80 | 42 | 28 | 10 | - | 360 | 278 | 94 | アダムス3位 | 地区決勝敗退 (MON) |
1984-85 | 80 | 41 | 30 | 9 | - | 323 | 275 | 91 | アダムス2位 | カンファランス決勝敗退 (PHI) |
1985-86 | 80 | 43 | 31 | 6 | - | 330 | 289 | 92 | アダムス1位 | 初戦敗退 (HAR) |
1986-87 | 80 | 31 | 39 | 10 | - | 267 | 276 | 72 | アダムス4位 | 地区決勝敗退 (MON) |
1987-88 | 80 | 32 | 43 | 5 | - | 271 | 306 | 69 | アダムス5位 | 不参加 |
1988-89 | 80 | 27 | 46 | 7 | - | 269 | 342 | 61 | アダムス5位 | 不参加 |
1989-90 | 80 | 12 | 61 | 7 | - | 240 | 407 | 31 | アダムス5位 | 不参加 |
1990-91 | 80 | 16 | 50 | 14 | - | 236 | 354 | 46 | アダムス5位 | 不参加 |
1991-92 | 80 | 20 | 48 | 12 | - | 255 | 318 | 52 | アダムス5位 | 不参加 |
1992-93 | 84 | 47 | 27 | 10 | - | 351 | 300 | 104 | アダムス2位 | 初戦敗退 (MON) |
1993-94 | 84 | 34 | 42 | 8 | - | 277 | 292 | 76 | 北東5位 | 不参加 |
1994-95 | 48 | 30 | 13 | 5 | - | 185 | 134 | 65 | 北東1位 | 初戦敗退 (NYR) |
コロラド・アバランチ時代(1995年 - )
年 | GP | W | L | T | OL | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1995-1996 | 82 | 47 | 25 | 10 | 0 | 326 | 240 | 104 | 太平洋1位 | スタンレー・カップ優勝 |
1996-1997 | 82 | 49 | 24 | 9 | 0 | 277 | 205 | 107 | 太平洋1位 | カンファレンス決勝敗退 |
1997-1998 | 82 | 39 | 26 | 17 | 0 | 231 | 205 | 95 | 太平洋1位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
1998-1999 | 82 | 44 | 28 | 10 | 0 | 239 | 205 | 98 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
1999-2000 | 82 | 42 | 28 | 11 | 1 | 233 | 201 | 96 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
2000-2001 | 82 | 52 | 16 | 10 | 4 | 270 | 192 | 118 | 北西1位 | スタンレー・カップ優勝 |
2001-2002 | 82 | 45 | 28 | 8 | 1 | 212 | 169 | 99 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
2002-2003 | 82 | 42 | 19 | 13 | 8 | 251 | 194 | 105 | 北西1位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
2003-2004 | 82 | 40 | 22 | 13 | 7 | 236 | 198 | 100 | 北西1位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2005-2006 | 82 | 43 | 30 | - | 9 | 283 | 257 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2006-2007 | 82 | 44 | 31 | - | 7 | 272 | 251 | 95 | 北西4位 | 不参加 |
2007-2008 | 82 | 44 | 31 | - | 7 | 231 | 219 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2008-2009 | 82 | 32 | 45 | - | 5 | 199 | 257 | 69 | 北西5位 | 不参加 |
2009-2010 | 82 | 43 | 30 | - | 9 | 244 | 233 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
2010-2011 | 82 | 30 | 44 | - | 8 | 227 | 288 | 68 | 北西4位 | 不参加 |
2011-2012 | 82 | 41 | 35 | - | 6 | 208 | 220 | 88 | 北西3位 | 不参加 |
2012-2013 | 48 | 16 | 25 | - | 7 | 116 | 152 | 39 | 北西5位 | 不参加 |
スタンレーカップ戦績
優勝
- 1995-1996
- 2000-2001
- 2021-2022
永久欠番
- #3 ジャン-クロード・トレンブレイ
- #8 マルク・タルディフ
- #16 ミシェル・グーレ
- #26 ピーター・スタツニー
なお、デンバー移転時に以上4つ全てが永久欠番から外されており、現在は使用可能となっている。
コロラド・アバランチ
- #19 ジョー・サキック
- #21 ピーター・フォースバーグ
- #33 パトリック・ロワ
- #52 アダム・フット
- #77 レイ・ボーク
- #99 ウェイン・グレツキー(NHL全体での永久欠番)
歴代チームキャプテン
- ジャン-ギイ・ジャンドロン(1972–74)
- ミシェル・パリゾー(1974–76)
- マルク・タルディフ(1976–81)
- ロビー・フトレク(1981)
- アンドレ・デュポン(1981–82)
- マリオ・マロワ(1983–85)
- ピーター・スタツニー(1985–90)
- スティーブン・フィン、ジョー・サキック(1990–91)…共同キャプテン
- マイク・ハフ(1991–92)
- ジョー・サキック(1992–95)
コロラド・アバランチ
- ジョー・サキック(1995-2009)
- アダム・フット(2009-2011)
- ミラン・ヘイドゥク(2011-2012)
- ガブリエル・ランデスコグ(2012-現在)