東川王
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東川王(とうせんおう 209年 - 248年 在位 227年 - 248年)は、高句麗第11代君主。東襄王ともいう。先代の山上王の子であり、諱は憂位居、幼名は郊彘。
治世中の中国との関係
- 234年、魏から使者が来て国交を求められた。
- 236年、2月に呉から使者が来て国交を求められるが、これを留め置き、7月になって使者を斬って首を魏に送った。
- 238年、魏が公孫淵を討つ際に、主簿・大加と兵千人を派遣し、魏を援助した。
- 242年、遼東郡を襲撃し、占領した。
- 246年、魏の毋丘倹に攻め入られ、国都である丸都城を陥落させられた。
- 247年、丸都城の荒廃により、平壌城を築き、遷都した。ただしこの時期の平壌(現在のピョンヤン)は魏の楽浪郡があるため、丸都城の別名または集安地方の域名とする説がある。(参考文献のp.116)
諡号と埋葬地
248年9月薨去し、柴原に埋葬され、東川王と諡される。近臣には殉死を願う者が多かったが、次の中川王は殉死を許さなかった。葬儀の日に墓所に来て殉死する者が多かったので、国人が柴を伐って殉死者の屍を覆った。そこでこの地は柴原と名づけられた。
山上王は山上陵、中川王は中川原、西川王は西川原に埋葬されているなど、埋葬地の名にちなんだ諡号が多いなか、東川王については埋葬地の名と諡号との違いがあるだけでなく、葬儀に関して地名の変遷を記す記事がつけられているのが特徴的である。
参考文献
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