久我通久
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久我通久 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 天保12年11月28日(1842年1月9日) |
死没 | 大正14年(1925年)1月10日 |
官位 | 従一位、侯爵 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇→大正天皇 |
氏族 | 久我家 |
父母 | 父:久我建通、母:松島(後藤言中の娘) |
兄弟 | 通久、愛宕通旭、範姫、北畠通城、幸姫、野宮定美、東久世通暉 |
妻 |
大谷厳子(大谷光勝の娘) 大谷住子(大谷光勝の娘) 千代(有馬頼咸の次女) |
子 | 常通、儀子、富久子、節子、静子、通保、壱岐俊通 |
久我 通久(こが みちつね)は、江戸時代後期の公卿、明治・大正時代の華族、政治家。侯爵[1]。貴族院議員[1]。元老院議官、宮中顧問官、宗秩寮総裁、東京府知事などを歴任。和歌や書道、謡曲、歌詞などに堪能な趣味人としても知られた。
経歴
嘉永元年(1848年)、従五位下。嘉永2年(1849年)、従五位上。嘉永3年(1850年)、正五位下。嘉永4年(1851年)、従四位下。嘉永5年(1852年)、従四位上・侍従。嘉永6年(1853年)、正四位下。安政元年(1854年)、元服、左近衛権少将。安政2年(1855年)、御遷幸に左少将朝臣として参加。安政4年(1857年)、右近衛権中将。安政5年(1858年)、従三位。安政6年(1859年)、正三位。万延元年(1860年)、踏歌外弁。慶応3年(1867年)、権中納言。
明治元年(1868年)1月、明治新政府参与。2月、権大納言、大和国鎮撫総督となる。7月、東北遊撃軍将。8月、海路越後国に赴き、奥羽鎮撫惣督を援け、転戦して鶴岡に至り、東北平定。11月、東京に凱旋。三等陸軍将。明治2年(1869年)3月、箱館軍の内地侵入を防ぐため鎮撫惣督として仙台に至り、騒擾を鎮定。7月、陸軍少将。11月、兵部少輔。その後、元老院議官などを歴任。
明治17年(1884年)、侯爵。明治23年(1890年)10月20日、麝香間祗候となる[2]。その後、宮中顧問官や東京府知事、宗秩寮総裁などを歴任。明治36年(1903年)6月、従一位。1908年12月11日、再び麝香間祗候となる[3]。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[5]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
- 1897年(明治30年)6月26日 - 勲二等瑞宝章[7]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1916年(大正5年)2月28日 - 勲一等瑞宝章
- 1925年(大正14年)1月12日 - 勲一等旭日大綬章
家族・親族
久我家
→詳細は「久我美子 § 家族・親族」を参照
- 通顕[1](庶子男常通庶子男、生母・東京平民鬼頭まさ[1]、侯爵、貴族院議員)
- 通秀(男爵津守國榮の養子となる[11])
- 通利[11](経営評論家)
- ミチ子[1](北海道人五十嵐佐市に嫁す[11])
- 千萬子(東京府人仙石吉之助の養子となる[11])
- 松子(東京府人中根半湖長男克に嫁す[11])
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『人事興信録. 4版』(大正4年)コ四一
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 『官報』第7640号、明治41年12月12日。
- ^ 『官報』第5997号「叙任及辞令」1903年6月30日。
- ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』第4196号「叙任及辞令」1897年6月29日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ a b 『日本の名家』239頁
- ^ a b c d e 『人事興信録. 第11版』(昭和12年)上コ一一九
公職 | ||
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先代 岩倉具定 爵位頭 |
宗秩寮総裁 1910年 - 1917年 爵位頭 1909年 - 1910年 |
次代 井上勝之助 |
先代 高崎正風 |
御歌所長心得 1912年 - 1915年 |
次代 入江為守 |
先代 三浦安 |
東京府知事 第14代:1896年3月14日 - 1897年10月12日 |
次代 岡部長職 |
先代 (新設→欠員) |
兵部少輔 1869年 - 1870年 (1870年途中から山県有朋と共同) |
次代 山県有朋 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
侯爵 久我家初代 1884年 - 1921年 |
次代 久我常通 |