眞中幹夫
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名前 | ||||||
カタカナ | マナカ ミキオ | |||||
ラテン文字 | MANAKA Mikio | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1969年5月22日(55歳) | |||||
出身地 | 茨城県坂東市 | |||||
身長 | 171cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1992-1996 | ジェフユナイテッド市原 | 101 | (0) | |||
1997 | ブランメル仙台 | 4 | (0) | |||
1998 | 大宮アルディージャ | 22 | (0) | |||
1999-2004 | 横浜FC | 103 | (4) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
眞中 幹夫(まなか みきお、1969年5月22日 - )は、茨城県坂東市出身のサッカー指導者、元サッカー選手。同じく元サッカー選手の眞中靖夫(現ラインメール青森アカデミーダイレクター)は実弟。
経歴
選手として
ジェフユナイテッド市原時代
茨城大学卒業後の1992年、6球団との入団テストを受け、ジェフユナイテッド市原に合格し、入団。同期入団に、中西永輔氏、サンドロ氏等。また、リトバルスキー氏(現ブンデスリーガ・ヴォルフスブルクチーフスカウト)やオルデネビッツ氏(現ブンデスリーガ・ブレーメンスカウト)等と共にプレー。1995年レギュラーを勝ち取り、センターバックとして守備を立て直し、チームもリーグ終盤まで優勝争いを演じた。5シーズンで101試合に出場 。1996年には副キャプテンに任命され、チームをまとめた。また、ジェフ市原と柏レイソルがコラボするbay fmの番組にパーソナリティーとしてDJを務めた。
ブランメル仙台時代
翌1997年、ジャパンフットボールリーグ(JFL)のブランメル仙台(現ベガルタ仙台)に移籍[1]。ベルデニック氏(元ジェフ千葉監督)が師匠と仰ぐ故エルスナー氏が監督に就任。3-4-1-2のフォーメーションを起用し、センターディフェンダーやセントラルミッドフィルダーでプレーした。川崎フロンターレ戦で、現在タレントの中西哲生氏とルーズボールの競り合いで左膝を捻り、前十字靭帯を断裂。厳しいリハビリを重ね、4ヵ月という驚異的な回復で天皇杯2回戦、松本山雅戦から復帰を果たす。しかし、復帰前の契約更改で契約解除を通告され、チームを離れた。
NTT関東サッカー部時代
翌1998年、当時監督を務めていた、元なでしこ監督、佐々木則夫氏の誘いを受け、NTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)に移籍[1]。当時コーチだった佐久間悟氏(現ヴァンフォーレ甲府GM)や渋谷洋樹氏(現ロアッソ熊本監督)等と共にJリーグ入りを目指した。リーグ中断期間に行われるJFLオールスター戦に出場。アマラオ氏等と共にプレーするなど活躍したが、膝の状態が悪く、コンディションが整わないまま契約解除となった。
横浜FC時代
翌1999年、現役引退を考えていたところ、市原時代のチームメイトであるリトバルスキー氏(現ブンデスリーガ・ヴォルフスブルクチーフスカウト)に誘われ、彼が監督を務める横浜FCに加入[1]。1999年から2シーズン連続で日本フットボールリーグ(JFL)に優勝し、2000年のJFLではベストイレブンに選出された。 同年、服飾ブランドPAPASと契約。現在に至るまで、春夏シリーズ、秋冬シリーズと年間2回に渡り、約8万部に及ぶカタログモデルを務める。2001年3月17日、クラブにとってホームゲームJデビュー試合となったベガルタ仙台戦で、0-1で迎えた後半ロスタイム、ラストプレーとなったセットプレーから起死回生の同点ゴールを決めた。そのゴールは自身にとっても、横浜FCにとってもJリーグ初ゴールとなった[2]。同年7月、湘南ベルマーレ戦で右足前十字靭帯を断裂し[1]、懸命のリハビリも実らず同シーズン限りでクラブから契約解除を言い渡される[3]。しかし、現役続行への思いが強く、横浜FCの育成組織のコーチとして活動をしながら横浜FCの施設を借りてリハビリに取り組む。半年間のリハビリ期間は無給と過酷を強いられたが[1][4]、不屈の精神で2002年6月に再び横浜FCとの契約を勝ち取った[5]。2003年に、再度、リトバルスキー氏がブンデスリーガ・レバークーゼンから戻り、監督に就任すると、レギュラーに定着し、チームの勝利に貢献した。翌2004年、サンフレッチェ広島から実弟・眞中靖夫が横浜FCに移籍。兄弟揃って同じユニフォームを着てプレーするという夢を実現させた。同年11月23日、妻の誕生日に現役を引退することを発表した[6]。
指導者として
横浜FC時代
2005年、横浜FCで共にプレーした後藤義一から横浜FCユースコーチの誘いを受け[要出典]、コーチに就任。2年間コーチを務める。翌2006年、当時横浜FC強化部長関口潔の推薦もあり[要出典]、JFAナショナルトレセンコーチに就任。翌2007年、J1昇格を果たしたトップチームの指揮を執る高木琢也から誘いを受け、トップチームコーチに就任した。中村 有、田北雄気、喜熨斗勝史等と共にチームを率い、三浦知良、城彰二、久保竜彦、奥大介、山口素弘、三浦淳宏等、錚々たるメンバーとJ1を戦うものの、戦力が噛み合わず、1年でJ2降格となった。
翌2008年、都並敏史が監督に就任。コーチとしてチームを支え、「眞中組」と称した[要出典]、当時、太田宏介、チョ・ヨンチョル、池元友樹等の若手を中心としたサテライトの監督として指揮を取った。
翌2009年、樋口靖洋が監督に就任。引き続き「眞中組」として、八角剛史、中野裕太等の若手を中心としたサテライトで指揮を取った。
ファジアーノ岡山時代
2010年、監督に就任した影山雅永の誘いを受け、トップチームコーチ兼ネクスト監督に就任。間瀬秀一、高橋範夫、梁圭史等と共にトップチームを率い、一年目は17位と低迷したものの、翌2011年に13位、2012年には8位とチームは徐々に成長を遂げていった。
ネクスト監督を兼任し、中国リーグで指揮を取り、2010年4位、2011年3位、2012年に2位と成長を遂げ、同年、全国社会人サッカー大会で3位の成績を収め、世界一過酷なリーグ戦と言われる全国地域サッカー決勝大会の出場権を掴む。地決は、予選で鈴鹿ランポーレ、相模原SC、鹿児島ユナイテッドの3チームと対戦。3連勝を飾り1位通過で決勝リーグに臨んだ。決勝リーグは初戦、相模原SCに後半ロスタイムに決勝ゴールを奪われ、逆転負けを喫すると、続く福島ユナイテッド戦を落とし、最終戦のノルブリッツ北海道戦において、90分間で勝利を収めればJFL降格チームとの入れ替え戦に臨めるはずだったが、1-1のドロー。そのままPK戦に入り、勝利を収めるものの、涙のPK戦勝利となったことは今でもサポーターの中で語り草になっている[要出典]。
2014年、クラブの理解により、シーズン中にもかかわらず、公認S級ライセンスの講習会を受講。翌年5月にライセンスが承認される。海外研修では恩師、リトバルスキーが所属するヴォルフスブルクを視察した。
JFAアカデミー福島時代
2015年、JFAアカデミー福島へ移籍。この年初めてJリーグから離れ、日本サッカー協会に入りU18の監督に就任した。
AC長野パルセイロ時代
2016年、アカデミーダイレクターとしてJ3のAC長野パルセイロに移籍。トップチームでの活動が中心だったが、前年の経験を生かし、育成組織においてクラブと長野県のサッカー強化と発展に尽力した。同年8月、トップチームの強化として、アカデミーダイレクターとトップチームヘッドコーチを兼任。3位の成績を収めた。
アルビレックス新潟、愛媛FC時代
2017年、AC長野パルセイロで共にチームを率いた三浦文丈が新潟の監督に就任。ヘッドコーチとして同じく招聘されたが成績不振で5月で退任。翌2018年、愛媛FCで監督2年目となる間瀬秀一氏の誘いを受け、ヘッドコーチに就任。同年5月で契約を解除した。
所属クラブ
- 茨城県立境高等学校
- 茨城大学
- 1992年 - 1996年 ジェフユナイテッド市原
- 1997年 ブランメル仙台
- 1998年 大宮アルディージャ
- 1999年 - 2001年 横浜FC
- 2002年6月 - 2004年 横浜FC
指導歴
- 2005年 - 2007年 : 横浜FCユースコーチ
※2006年 - 2007年 : ナショナルトレセンコーチ関東担当
- 2007年 - 2009年 : 横浜FCコーチ
- 2010年 - 2014年 : ファジアーノ岡山FCコーチ兼ネクスト監督
- 2015年 : JFAアカデミー福島U-18男子トップチーム監督
- 2016年 : AC長野パルセイロアカデミーダイレクター兼U-13担当
- 2016年8月 - 同年12月 : AC長野パルセイロヘッドコーチ
- 2017年1月 - 同年5月 : アルビレックス新潟コーチ
- 2018年1月 - 同年5月 愛媛FCヘッドコーチ[7]
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1992 | 市原 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
1993 | 6 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | |||
1994 | 27 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 29 | 0 | |||
1995 | 48 | 0 | - | 1 | 0 | 49 | 0 | ||||
1996 | 20 | 0 | 14 | 0 | 1 | 0 | 35 | 0 | |||
1997 | B仙台 | 5 | 旧JFL | 4 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 9 | 0 |
1998 | 大宮 | 4 | 22 | 0 | - | 0 | 0 | 22 | 0 | ||
1999 | 横浜FC | JFL | 16 | 0 | - | 2 | 0 | 18 | 0 | ||
2000 | 19 | 1 | - | 2 | 0 | 21 | 1 | ||||
2001 | J2 | 17 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 20 | 1 | ||
2002 | 25 | 19 | 0 | - | 1 | 0 | 20 | 0 | |||
2003 | 4 | 28 | 2 | - | 0 | 0 | 28 | 2 | |||
2004 | 4 | 0 | - | 0 | 0 | 4 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 101 | 0 | 15 | 0 | 5 | 0 | 121 | 0 | |
日本 | J2 | 68 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 72 | 3 | ||
日本 | JFL | 35 | 1 | - | 4 | 0 | 39 | 1 | |||
日本 | 旧JFL | 26 | 0 | 3 | 0 | 2 | 0 | 31 | 0 | ||
総通算 | 230 | 4 | 21 | 0 | 12 | 0 | 263 | 4 |
この節の加筆が望まれています。 |
注釈
- ^ a b c d e 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。「jcs
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ “History of YOKOHAMA FC 2001”. 横浜FC. 2018年8月18日閲覧。
- ^ "来期契約非継続選手についてのお知らせ" (Press release). 横浜FC. 5 December 2001.
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も指定してください。 (説明) - ^ "眞中 幹夫選手の今後についてのお知らせ" (Press release). 横浜FC. 21 January 2002.
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も指定してください。 (説明) - ^ "眞中 幹夫選手と契約" (Press release). 横浜FC. 21 June 2002.
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も指定してください。 (説明);|archive-url=
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も指定してください。 (説明) - ^ "眞中幹夫選手 現役引退のお知らせ(04.11.24)" (Press release). 横浜FC. 24 November 2004. 2018年8月18日閲覧。
- ^ "トップチーム監督及びヘッドコーチ 契約解除のお知らせ" (Press release). 愛媛FC. 15 May 2018. 2018年5月15日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 眞中幹夫 - J. League Data Siteによる選手データ