里見忠義
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 文禄3年(1594年) |
死没 | 元和8年6月19日(1622年7月27日) |
改名 | 梅鶴丸(幼名)→忠義 |
戒名 |
雲晴院殿心叟賢涼御大居士 高源院殿華山放牛大居士 |
墓所 | 鳥取県倉吉市東町の大岳院 |
官位 | 従四位下、侍従、安房守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 安房館山藩主→伯耆倉吉藩主 |
氏族 | 里見氏 |
父母 | 父:里見義康 |
兄弟 | 忠義、忠堯 |
妻 | 正室:大久保忠常の娘 |
子 |
長女(久永飛騨守重章室?母?)、 次女(大久保忠常の養女・木下延由正室)、 利輝、山下貞倶?、広部義次? |
里見 忠義(さとみ ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。安房館山藩2代藩主。安房里見氏の当主里見義康の長男。徳川秀忠より偏諱を受け、忠義と名乗った。
生涯
前半生
文禄3年(1594年)、安房館山藩初代藩主・里見義康の長男として誕生。
慶長8年(1603年)、父・義康の死により、第9代として家督を相続する。幼少であったため、重臣の正木時茂・里見左京亮・板倉昌察・堀江頼忠らが補佐に当たった[1]。慶長11年(1606年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の面前で元服し、従四位下・侍従・安房守に叙任され国持大名の列に加えられる。慶長16年(1611年)、老中大久保忠隣の孫娘を室として迎えた。しかし、重臣たちは正木頼忠ら保守派と印東房一ら改革派に分裂し、また忠義も若年ゆえにその治世は困難を極めた。そんな中、領内の検地、城下町での諸役免除、貨幣の交換比の制定、町中肝煎役の任命、諸物価の公定など、商業の発達・統制の諸政策を行っていた[1]。
後半生
そんな矢先の慶長19年(1614年)9月9日、重陽の節句の賀儀を述べるため江戸に参府した忠義は、江戸城への登城を差し止められた。大久保忠隣の失脚への連座、及び無断での城郭修理・要害整備、牢人の過分な召し抱えを原因として、老中・土井利勝らの派遣した使者の宣告により安房一国(9万石)分の減封となり、常陸鹿島領3万石のみの領地となった(実質上は改易と同等)。さらに日を置かず伯耆倉吉藩3万石に転封を言い渡され、山陰への移動を余儀なくされた。それを聞いた正木時茂らの家老・重臣は徳川秀忠や徳川家康に陳謝したが、許されることはなかった[2]。
9月末に安房を出発し、12月に伯耆倉吉に到着する。石高は3万石とされたが、実質上は4,000石程度に過ぎなかった[3]。ただ、大岳院に3石1斗8升の寺地寄進をするなどの身分を保っていたと思われる。ところが元和3年(1617年)6月、池田光政が播磨姫路藩から因幡鳥取藩に移封になった際、その家臣伊木忠貞が倉吉の領主となったため、忠義は4,000石もとりあげられ、伯耆国久米郡田中村に移され、百人扶持の知行とされた[3]。元和5年(1619年)冬、久米郡堀村に屋敷を移す。
元和8年6月19日(1622年7月27日)に病死。常光寺の川原で火葬され大岳院に葬られた。遺骨の一部は高野山の里見家代々の廟にも納められた[4]。
子孫
嗣子がないとされ、大名家としての安房里見氏は断絶した。しかし、実は側室との間に3人の男子を儲けていたという。子孫は他家に仕え、そのまま明治維新を迎えた(孫の義旭が間部氏に仕官。利輝―義安―義旭)。これ以前に、山下貞倶・広部義次の子孫は、里見姓に復していたという(ただし、本当に忠義の子なのかについては疑問を持つ者もいる[5])。貞倶の子孫は旗本になっている。また、忠義の叔父の里見義高(外記、讃岐守)は、酒井家次の婿であったため400石取りの酒井家の家臣となる。上記の3人の男子以外にも元和8年6月19日の段階で5歳の忘れ形見がいたとされ、土佐国高岡郡浦ノ内村東分に居所を定めたと伝わる。この子孫は十一家に分かれ、若宮八幡を氏神として祀っている[6]。
八賢士
忠義が死去した後、板倉昌察ら8人の側近が殉死し、忠義とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられた(6人、7人説もある)。彼らが『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルとする説もある。
家族
以下出典は参考[7]による。
- 正室(大久保忠常娘)
- 側室
- 利輝(慶長19年(1614年) - 正保元年(1644年))
- 側室:山下休蔵の娘
- 山下貞倶(通称は休三、寛永11年(1634年)に徳川家光に仕え旗本になり、苗字を里見とする)
- 側室:広辺高次の娘
- 広部義次(通称は忠三郎)
※ただし、山下貞倶、広部義次の2名については忠義の実子かどうか疑問とする説がある[5]。