ポール・ロジャース
ポール・ロジャース | |
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基本情報 | |
出生名 | Paul Bernard Rodgers |
生誕 |
1949年12月17日(75歳) イングランド・ミドルズブラ |
担当楽器 |
歌 ギター ピアノ ベース ドラム |
活動期間 | 1967年 - 現在 |
共同作業者 |
ロードランナーズ フリー ピース バッド・カンパニー ザ・ファーム ザ・ロウ クイーン+ポール・ロジャース |
ポール・ロジャース (Paul Rodgers、1949年12月17日 - )は、イギリス出身のロック歌手。ロジャースの特徴であるリズム&ブルースに根差したソウルフルな歌唱スタイルは、後のロックヴォーカリストたちに多大な影響を与えた。
「ローリング ・ ストーン誌の選ぶ史上最も偉大な100人のシンガー」において第55位[1]。
経歴
1949年12月17日、イングランド・ミドルズブラの港町で、7人兄弟の4番目に生まれる。ロードランナーズ (1967) などのローカルバンドで活動を始めるが、商業的には失敗に終わる。1969年に英国ブルースの巨匠アレクシス・コーナーに見初められ、ポール・コソフ (Gt.) とサイモン・カーク (Dr.)、アンディ・フレイザー (Ba.) と共にフリー[2]を結成。フリーはデビュー当時、メンバーが10代だったにも関わらずブルース色が濃く、シンプルなハードロックスタイルで徐々に人気を獲得していく。1970年にシングル「オール・ライト・ナウ」とアルバム『ファイアー・アンド・ウォーター』がヒットするが、アルバムの商業的不振やメンバー間の不仲で初来日公演直後、解散を発表。
フリー解散後、ロジャースはピース (1971) を結成するが、ドラッグに溺れたコソフを救うためフリーの再結成に参加する。しかし、メンバー間の不仲は解消されておらず、すぐにベースのフレイザーが脱退。コソフのドラッグ癖も悪化したためフリーは危機に陥るが、キーボードにジョン・"ラビット"・バンドリック、ベースに山内テツを加入させフリー名義のラストアルバム『ハートブレイカー』を発表し1973年に解散。
フリー解散後、ロジャースは前述のサイモン・カーク、元キング・クリムゾンのボズ・バレル、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと共にバッド・カンパニーを結成する。バッド・カンパニーは、アメリカナイズされた楽曲スタイルで「キャント・ゲット・イナフ」など世界的ヒットを飛ばし、多くのアルバムがプラチナディスクを獲得した。しかし、ロジャースは肥大化した活動から落ち着くため1982年、バッド・カンパニーを脱退。
1983年、全ての楽器を自身で演奏した初のソロアルバム『カット・ルース』を発表するが、商業的には失敗に終わる。1985年にはレッド・ツェッペリンのギタリストジミー・ペイジらと組んだザ・ファームがスーパーグループとして話題となったが、期待されたほどの成功を収めることなく、アルバム2枚を残し自然消滅。1991年、フェイセズやザ・フーのドラマーだったケニー・ジョーンズらと組みザ・ロウを結成するが商業的に失敗し、アルバム1枚を残し解散 (9曲を収録したセカンドアルバムも存在するが、公式リリースされずお蔵入りとなる)。
1993年にはソロとして、数々のスーパーギタリストと曲ごとに共演したトリビュート作品『マディ・ウォーター・ブルース』が起死回生のヒット作となり、グラミー賞にノミネートされた。1990年代中頃にソロで来日公演を行い、1997年には14年振りとなるオリジナル曲のソロアルバム『ナウ』を発表。
1998年、オリジナルメンバーによるバッド・カンパニーの再結成に参加し、新曲をレコーディングした[3]。1999年にバッド・カンパニーとして全米ツアーを行うが、後にボズ・バレルとミック・ラルフスがツアーへの不参加を表明、ロジャースは1999年にアルバム『エレクトリック』を発表しソロ活動を再開。2002年、新メンバーを加えバッド・カンパニーに参加し、全米ツアーを行う。
2005年から2009年に掛けクイーン (バンド)のメンバーブライアン・メイ、ロジャー・テイラーらと組みクイーン+ポール・ロジャースの名で世界ツアーを行い、来日・全米公演を行う。2006年10月からクイーンとスタジオ入りし2008年、ニューアルバム『ザ・コスモス・ロックス』を発表するが、ロジャースは活動に終止符を打ちバッド・カンパニーの再始動へ移行した。2010年10月、バッド・カンパニーとして35年振りとなる日本公演を行う。
2014年、オーティス・レディングやアルバート・キングなど、ソウル・ブルースの名曲を60年代に活躍した一流のバックミュージシャンと共に収録した『ザ・ロイアル・セッションズ』を発表。
歌唱スタイル
時期により、歌唱スタイルは変化している。オーティス・レディングがインタビューや楽曲で頻繁に取り上げられ、活動初期の音源では歌唱スタイルの類似が確認できる。非常に強力な声の持ち主であることから、「ザ・ヴォイス」などの異名を持つほどである。
他にもインタビューでジョン・リー・フッカーやエルモア・ジェームス、ハウリン・ウルフなど名を挙げており、レイ・チャールズに至っては2010年に英国営放送BBCでジュールズ・ホーランドと共に「クライング・タイム」を演奏した。フリーのファーストアルバムでは、ハウリン・ウルフの楽曲「Goin' Down Slow」を取り上げている。いずれからも、ブルースやリズム・アンド・ブルースの影響が伺える。
ソロアルバム・ディスコグラフィー
- カット・ルース - Cut Loose(1983年)
- マディ・ウォーター・ブルーズ - Muddy Water Blues:A Tribute to Muddy Waters(1993年、トリビュートアルバム)
- シングズ・ジミ・ヘンドリックス・ライヴ - The Hendrix Set(1993年、ライヴEP)
- クロニクル - The Cronicle(1994年、セルフカヴァーアルバム)
- ポール・ロジャース・ライヴ - Live:The Loreley Tapes (1996年、ライヴアルバム)
- ナウ - Now(1997年)
- エレクトリック - Electric (1999年)
- ライヴ・イン・グラスゴー - Live In Glasgow(2007年、ライヴアルバム)
- ザ・ロイアル・セッションズ - The Royal Sessions(2014年)
その他のエピソード
- 初めて購入したレコードはブッカー・T & ザ・MG' sの「レッド・ビーンズ・ライス」であるとインタビューで語っている。
- 幼少期は自宅でラジオが流れており、興味深くチャートを聴いていたとヴィンテージ・ロックのインタビューで語っている。フランク・シナトラ、エルビス・プレスリーも耳にしていた。プレスリーが登場した当時、ロジャースの姉はプレスリーに夢中で、ロジャース自身は10代を通しビートルズに夢中だった。ブルースのきっかけはローリング・ストーンズであり、BBキングやマディ・ウォーターズを発見し、音楽の深みにはまっていったと語る。後に、自身をオーティス・レディングに見立て歌うようになったと語っている。
- フリーとして初来日した際、「サムライはどこだ」と聞いたという。
- 元妻の清水マチは、TBSの刑事ドラマ『夜明けの刑事』を担当していた大映テレビプロデューサー野添和子の姪にあたる。1974年秋に私用で夫婦揃って来日した折、野添家に世話になった"お返しに"と、無報酬でドラマの挿入歌「Yoake No Keiji」を日本語で歌った[4]。レコード化はされていないが、ニール・ショーンをギターに迎えた来日公演で、リクエストに応え歌ったことがある。2010年10月のバッド・カンパニー来日公演では、アコースティックギターの弾き語りでフルコーラスを披露した。
- 元妻マチ (女優野添ひとみの従姉妹) との間にもうけた息子スティーブ、娘ジャスミンは共にボアというイギリスのバンドで活動している。ボアの楽曲「DUVET」は、日本のメディアミックス作品Serial Experiments LainのTVアニメーション版主題歌となった。スティーヴは、前述にある2010年のバッド・カンパニー来日公演に帯同した。
日本公演
- 1971年 FREE
- 1972年 FREE (NEW SESSION) with EMERSON, LAKE & PALMER
- 1975年 BAD COMPANY
- 3月3日 日本武道館
- 5月18日 沖縄市民会館 5月24日 CLUB CITTA'
- 2005年 QUEEN + PAUL RODGERS LIVE IN JAPAN
- 10月26日 27日 さいたまスーパーアリーナ 29日 30日 横浜アリーナ
- 11月1日 ナゴヤドーム、3日 福岡ドーム
- 2006年 UDO Music Festival
- 7月22日 泉大津フェニックス 23日 富士スピードウェイ
- 2010年 BAD COMPANY JAPAN TOUR
- 10月18日 Zepp Fukuoka 20日 Zepp Nagoya 21日 なんばHatch 25日 26日 東京国際フォーラム ホールA
脚注
- ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Paul Rodgers”. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “FREE official web site”. 2017年3月24日閲覧。
- ^ “Bad Company Biography”. Rolling Stone. 2016年5月1日閲覧。
- ^ 週刊朝日、1975年3月21日号36頁