小池百合子
小池 百合子 こいけ ゆりこ | |
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生年月日 | 1952年7月15日(72歳) |
出生地 | 日本 兵庫県芦屋市 |
出身校 |
関西学院大学社会学部中退 アメリカン大学カイロ校 カイロ大学文学部社会学科卒業 |
前職 |
ニュースキャスター アラビア語通訳 |
所属政党 |
(日本新党→) (新進党→) (自由党→) (保守党→) (保守クラブ→) 自由民主党(町村派→無派閥) |
称号 | 社会学士 |
公式サイト | 小池ゆりこ オフィシャルサイト |
第2代 防衛大臣 | |
内閣 | 第1次安倍内閣 |
在任期間 | 2007年7月4日 - 2007年8月27日 |
内閣 |
第2次小泉改造内閣 第3次小泉内閣 第3次小泉改造内閣 |
在任期間 | 2004年9月24日 - 2006年9月26日 |
第5-7代 環境大臣 | |
内閣 |
第1次小泉第2次改造内閣 第2次小泉内閣 第2次小泉改造内閣 第3次小泉内閣 第3次小泉改造内閣 |
在任期間 | 2003年9月22日 - 2006年9月26日 |
選挙区 |
(旧兵庫2区→) (兵庫6区→) (比例近畿ブロック→) (東京10区→) (比例東京ブロック→) 東京10区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 現職 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1992年7月26日 - 1993年 |
小池 百合子(こいけ ゆりこ、1952年〈昭和27年〉7月15日 ‐ )は、日本の政治家、ニュースキャスター。自由民主党所属の衆議院議員(8期)。日本ウエイトリフティング協会会長。
参議院議員(1期)、総務政務次官(細川内閣)、経済企画総括政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣・第2次森内閣)、環境大臣(第5・6・7代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣(第2代)、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長(第49代)などを歴任した。
来歴
生い立ち
兵庫県芦屋市生まれ。甲南女子中学校、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部・ソフトボール部、E.S.Sに所属。高校在学中の1969年、神戸市で衣料関連の貿易商を営んでいた実父が、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から同年12月の第32回衆議院議員総選挙に立候補したが落選している。
高校卒業後、関西学院大学社会学部に入学するも、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年9月に大学を中退してエジプトへ留学。カイロ市のアメリカン大学カイロ校でアラビア語を修めた後、カイロ大学に進学した。1976年10月、カイロ大学文学部社会学科を首席で卒業[1](学位は社会学士)。エジプト滞在中にピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこともある[2][注釈 1]。
通訳・ニュースキャスター時代
カイロ大学卒業後はアラビア語の通訳として活動[2]。PLO議長ヤーセル・アラファートやリビアのカダフィの会見では、コーディネーター兼インタビュアーを務めた[2]。1984年、東京大学に在籍していたトルコ人留学生ヌスレット・サンジャクリの抗議を受け、「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に改められた。小池はこの青年を当時から支援しており、本人も後日新聞報道でそれを認めている[3]。小池によれば、トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、がぜん彼への「共感」(=なんとかしてあげたい)が芽生えた結果だったという[4]。
1979年から1985年まで、日本テレビ『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めた後、1988年よりテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターを務めた[注釈 2]。
1990年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞した[5]。
政界入り
参議院議員
1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」[6]との理由で、前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選した。
衆議院議員
1993年、参院議員を任期途中で辞職。第40回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から日本新党公認で出馬し、当選した。同年、細川内閣で総務政務次官に就任。
1994年、日本新党の解党に伴い新進党結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市・宝塚市・川西市)から出馬し、再選。新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近であり、1997年の新進党解党後は小沢が党首を務める自由党の結党に参加。1999年、小渕第2次改造内閣で経済企画政務次官に任命され、第1次森内閣まで務める。
2000年の自由党分裂に際して小沢と決別し、保守党結党に参加した。2002年、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に保守党を離党し、保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。清和政策研究会に入会した。
小泉政権
環境大臣
2003年、第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣に任命され、初入閣した。同年の第43回衆議院議員総選挙では、比例近畿ブロック単独で立候補し、4選。第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。環境大臣は第3次小泉改造内閣まで務め、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役を務める。
2005年衆議院議員総選挙
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政国会で郵政民営化法案に反対票を投じた小林興起の当選を阻止するため、東京10区に刺客として国替えする意向を表明。この総選挙では、小泉純一郎の意向で女性候補が比例区の名簿で上位に優遇される措置が取られ、小池もその対象であった。しかし、小池は対立候補から事実上当選が確実な状態であることを指摘され、選挙区での戦いが不利になることを懸念。優遇の措置を辞退して選挙に臨んでいる。選挙の結果、民主党の鮫島宗明や小林を大差で破り、5選。
第1次安倍政権
防衛大臣
2006年に発足した第1次安倍内閣では、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に任命される。その後、2007年7月3日、防衛大臣久間章生の辞任後の後任の防衛大臣に起用された。
防衛大臣就任後、 テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した[7]。
2007年8月には、米下院慰安婦決議問題で内閣総理大臣安倍晋三、外務大臣麻生太郎、駐米大使加藤良三が日米関係に与えていたマイナス・イメージを払拭すべく、第167回国会を欠席してアメリカを電撃訪問し、国防長官ロバート・ゲーツや副大統領ディック・チェイニーと会談する。野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは米(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした[8]。なお、訪米のための国会欠席について8月9日に行われた自民党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判されている[9]。
8月24日、訪問先のインド・ニューデリーにて、同行した記者団に対しイージス艦機密情報漏洩事件に言及。「防衛省内で誰も責任を取っていない。私は責任を取りたい」と述べた上で、3日後に行われる内閣改造で自身の再任を固辞し、防衛大臣を離任する意向を表明した[10]。
2008年自由民主党総裁選挙
2008年9月、福田康夫の辞任に伴って実施された自由民主党総裁選挙に20人の推薦人を確保し、立候補した。自民党結党以来、女性の自民党総裁選出馬は史上初である。
「霞が関をぶっ壊す」をスローガンに構造改革路線の継承を掲げた[要出典]が、麻生太郎、与謝野馨に次ぐ3位の得票数で、地方票は0票であった。ただし、党員票では麻生に次ぐ2位に付けており与謝野を大きく引き離している。これは多くの都道府県が地方票の1位総取り方式を採用したためである。
2009年衆議院議員総選挙
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、公明党の推薦を受け[11]、再び東京10区から出馬。また、同じ東京10区に候補者を擁立していた幸福実現党に選挙協力を打診し、幸福実現党は候補擁立を取り止めて小池を支援した[12]。
「風車のお百合」をキャッチフレーズに、自身が所有する電気自動車を使用して環境を前面に押し出した選挙運動を展開し、選挙協力を得た幸福実現党と共に演説を行ったが、民主党新人の江端貴子(105,512票取得)に敗れ、重複立候補していた比例東京ブロックで復活した。小池が獲得した96,739票は、比例東京ブロックで復活した自民党候補の得票数では下から2番目に低く、惜敗率の低さから比例東京ブロックで復活できなかった石原宏高や佐藤ゆかり、伊藤公介の得票数を下回っている(ただし、東京10区は東京都で2番目に有権者数が少ない選挙区である)。9月3日、「派閥単位でなく、党全体で結束すべき」として町村派を退会し、無派閥となった[13]。
麻生総裁退陣に伴う2009年自由民主党総裁選挙には立候補せず、谷垣禎一の推薦人に名を連ね、谷垣総裁の下で党広報本部長を務める。2010年6月9日の自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)設立総会で、相談役に就任した。
自由民主党総務会長
2010年9月の党役員人事で、谷垣総裁の下、第49代自由民主党総務会長に就任した。党三役に女性が就任するのは結党以来初めてだった。2011年9月、自民党総務会長を退任した。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では、東京10区で前回敗れた江端を大差で破り7選。選挙後、自由民主党広報本部長に就任する。2014年の第47回衆議院議員総選挙では、東京10区で8選。
2016年東京都知事選挙
2016年6月29日に記者会見を開き、舛添要一の辞任に伴う同年7月の東京都知事選挙に立候補する意向を表明する[14]。自民党東京都連会長石原伸晃に推薦を依頼するも、「7月10日の参院選の投開票後に結論を出したい」と返答された[15]。7月6日、「このままでは(自民党東京都連の)推薦が得られない中での立候補になるが、東京の改革のために覚悟を持って臨みたい」として正式に立候補を表明した[16]。
政策・主張
外交・安全保障
- 核武装
- 2003年11月、毎日新聞の衆議院議員アンケートで、日本の核武装について「国際情勢によっては検討すべきだ」と回答した[17]。
- リビア
- リビア情勢に詳しく、日本の国会議員きっての親リビア派の議員として知られている。日本リビア友好協会では会長に就任しており[18]、日本とリビアとの関係の強化、発展を狙っている。なお、この日本リビア友好協会は、リビアからの要求に基づき、政府に代わり「日本リビア間の経済、産業、科学技術、文化等の協力促進に関する合意書」を締結した団体である[19]。国際連合によるリビア制裁の間も、日本とリビアとの関係強化を図るためさかんに活動しており[19]、同国の革命指導者であるムアンマル・アル=カッザーフィーの二男のサイフルイスラーム・ムハンマド・アル・カッザーフィーや、三男のアル=サアディー・カッザーフィーに対し、日本訪問を要請したのもこの団体である。
- 小池はリビアを訪問した経験もあり、複数回にわたって同国の革命指導者ムアンマル・アル=カッザーフィーと直接会談している[20]。さらに、カッザーフィーに招かれ執務室の中に入ったこともあるという[20]。
- リビアでのカッザーフィーの施政については、カッザーフィーは民主主義国家の樹立を目指していると指摘したうえで、カッザーフィーが明治維新を参考にしている、などと主張している[20]。
- また、かつてカッザーフィーに対して任天堂のゲーム機「Wii」をプレゼントしたこともあるという。2009年(平成21年)11月、小池はTwitterの公式アカウントで「リビアのカダフィ指導者へのお土産はWiiにしました!」[21]とつぶやいている。
- 2011年8月には、日本の政治家として初めてリビア国民評議会のトップであるムスタファ・モハメド・アブドルジャリル議長らと会談した[22]。
内政
人物
政党遍歴
- 日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と5つの政党を渡り歩いているため、世間では「政界渡り鳥」と揶揄されることもある[26]。しかし、日本新党、新進党、保守党は党そのものが解党しており、自発的に離党したのは自由党を離党した時のみである。また、自由党を離党したのも自自公連立政権からの離脱に反対したためであり、海部俊樹、扇千景、野田毅、二階俊博など小池を含めて26名の議員が共に離党している。小池本人も、2016年7月に東京都知事選挙への立候補を表明した際、「このところいろいろと私のこれまでの経歴などをご紹介いただく放送などを見ていて、『政党がコロコロ替わる』というようなご指摘もいただいている。しかし、改めて申し上げると、それは政党の離合集散の結果であって、政党名が変わっただけであって、私の主張、思想、そして信念は一度も変えたことがない。改めて思うと、政党というのはあくまで機能体であって、仲間内の運命共同体ではないと思う[27]」と自ら説明している。
- 2008年に発表した論文では、「政界再編の荒波の中で生きてきた結果、自慢にはならないが、新党の立ち上げはお手のものだ。党名、綱領、政策、キャッチフレーズに、党名ロゴ作りまで、三日もあればまとめる芸当さえ身に付けたが、もうたくさんである[28]」と述懐している。
病歴
- 1997年末には盲腸の手術を、翌1998年5月には子宮筋腫の手術を受けた[29]。
- 2006年3月29日には、40度近い高熱を出し、脱水症状で入院したが、翌4月14日に退院して公務に復帰した[30]。
防衛事務次官更迭問題
2007年に防衛大臣に就任した小池は、内閣総理大臣補佐官時代からの懸案であった防衛省の「情報保全」システムの確立を理由に、防衛事務次官守屋武昌を退任させ、警察庁出身の官房長西川徹矢を防衛事務次官に起用する人事案を作成した。しかしこの人事情報が防衛省中枢からマスコミに漏洩され、更に守屋が小池の頭越しに内閣総理大臣安倍晋三や内閣官房長官塩崎恭久に対して直接、人事案の撤回を直訴。塩崎が小池に対し、人事案の再考を求める事態に発展した。小池は人事案の撤回を迫られ、安倍・塩崎らは守屋留任でも西川でもない「第三の(人事)案」を小池に要求して事態の収拾を図り、守屋同様防衛省プロパー(他省庁からの出向ではない、生え抜きの防衛官僚)である人事教育局長増田好平を後任の事務次官に起用する「第三の案」で決着させ、マスコミは「痛み分け」「けんか両成敗」などと評した。なお守屋は事務次官を退任後、国会での証人喚問の後に逮捕、起訴された。小池は「オンナの直感で『これはよろしくない』と思った[31]」と述べた。
「臥薪嘗胆ヘア」と断髪式
小池は高校時代以来髪を伸ばしたことがなく、一貫してショートカットだった。 自民党が民主党に政権を奪われてから2年以上が経った2011年10月12日、同僚議員のパーティーで挨拶した小池は「覚悟を決めて政権を取りに行く気合いを入れないといけない。男性ならヒゲを生やすところだが、残念ながら生えないので、髪の毛を切らないことにした」と発言。その後も民主党政権は続いたため小池は宣言通り髪を切らず、ショートカットだった髪はどんどん伸びていった。2012年半ばごろからは、長くなった髪を後ろで束ねることが多くなった。評判は「ヒラリーの真似か」「似合わないな」「後ろから見れば女子大生だが…」など散々なものが多かったが、小池は「似合わないのは自分がいちばんよく分かっていた。でも、目的を達成するため、つらいことを自分に課そうと思った」と語っており、不評だった長髪を自ら「臥薪嘗胆ヘア」と名付けた。 2012年12月16日に行われた衆議院議員総選挙において、自民党は大勝し政権を奪還。小池自身も2期ぶりに小選挙区からの当選を果たした。この結果を受け、小池は断髪式を行うことを発表。場所は両国国技館を希望したが都合が付かず、都内のホテルにて行われることになった。 2012年12月19日、後援会関係者ら約200人が集まり断髪式が行われた[32]。1年2ヶ月もの間切らなかった髪は肩下まで伸びていたが、自民党の河村建夫選対局長や三原じゅん子参院議員ら50人以上が大相撲の断髪式にならって髪にハサミを入れていき、小池はキャスター時代からのトレードマークであるショートカットに戻った。
その他
- 日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は小池が消費者金融業界の政治団体「全国貸金業政治連盟」(全政連)からパーティー券購入などにより資金提供を受けていると伝えた[33]。
- しんぶん赤旗は小池が環境大臣時代の2005年の総選挙公示直前に、関連企業から100万円の企業献金を受け取っていたと伝えた[34]。
- 小池が代表を務める政党支部の政治資金収支報告書において、2003年から4年連続で繰越金が0円であった[35]。小池の事務所は、「実際にかかった費用を積み上げ、法にのっとって適切に処理した結果だ」[35]としている。
発言
小沢一郎
- 新進党、自由党に在籍していた約6年間に小沢一郎を支持していた理由について、「小沢さんが九三年に刊行された『日本改造計画』に大変な感銘を受けたからだ」[36]と説明しながらも、「ところが、小沢さんが掲げた改革を断行し、護送船団の社会構造を廃して自己責任の社会を実現しようとしたのは小沢さんならぬ、小泉純一郎元総理、その人であった」[36]と評している。小沢の政治手法については、「極論すれば、小沢氏の政治行動の基準は、わずか二枚のカードに集約される、と。それは『政局カード』と『理念カード』である。具体的にいえば、『政局カード』とは持論である政権交代という錦の御旗を立てることであり、『理念カード』とは安全保障を中心にした政策構想である。小沢氏というと政治的駆け引きに長けているように見えるが、決してそんなことはない。むしろやり方はシンプルだ。自民党を離党し、細川政権の樹立から今日まで、手の内のカードはこの二枚を駆使することに尽きる。ある時は『政局カード』を振りかざし、それが手詰まりになると見るや、今度は『理念カード』を切る。この繰り返しである」[37]と評している。
- また、小池が自由党を離党して保守党に参加し、小沢と決別した理由については、「ここで連立政権を離れて野党になれば、小沢氏の『理念カード』によって、政策の先鋭化路線に再び拍車がかかることは想像できる。一方で、経済企画庁の政務次官の仕事を中途半端に投げ出すことには躊躇した」「少々心細くもあったが、実は『政局』と『理念』の二枚のカードに振り回されることにも、ほとほと疲れていた。」[37]「かつて小沢さんは、自由党時代に取り組んだはずの国旗・国歌法案について、自民党との連立政権から離脱するなり、180度転換し、『反対』に回った。国旗・国歌法案は国家のあり方を問う重要な法案だ。政治の駆け引きで譲っていい話ではない。同じく外国人地方参政権の法案についても自由党は反対だったはずだが、公明党の取り込みという目的のために、『賛成』へと転じたことがある。国家の根幹を揺るがすような重要な政策まで政局運営の“手段”にしてしまうことに私は賛成できない。これが私が小沢代表と政治行動を分かとうと決意する決定打となった」[36]と説明している。
- 2007年8月9日、民主党がテロ対策特別措置法の延長に反対していることについて、「(小沢一郎は)湾岸戦争のころから、カレンダーがめくられていないのではないか」と批判した。
沖縄問題
- 2013年3月に「沖縄の先生(=自民党議員)方が何と戦っているかというと、沖縄のメディアなんですよ。今日はこちらに地元メディアもいると思うが、しかしながら、あれと戦って今回のご当選をされてきたということは、むしろ沖縄のメディアの言っていることが本当に県民をすべて代表しているとは、私ははっきり言って思いません。これからも堂々と地元と国会議員としての役割を果たして頂けるように後押しをさせていただきたい」と党国防部会で述べた[38]。
水俣病問題
「女性は子供を産む機械」発言への批判
- 女性を「子供を産む機械」に例えた厚生労働大臣柳澤伯夫の発言に対し、2007年2月4日に出演したテレビ番組で「柳澤さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも、日本における男性の、女性に対する見方は遅れてるんじゃないか」と批判した[40]。
外国人参政権
- 2010年1月22日の衆議院予算委員会において外国人参政権について質問し、赤松広隆農林水産大臣の「外国人参政権は民団への公約」という発言について質し、さらに亀井静香金融担当大臣から「私の所属しております国民新党は付与することについては反対でありますし、私としても反対であります」との答弁を引き出した。なお、小池本人は保守党在籍当時の2000年11月に、同じ衆議院の特別委員会で法案提案者の一人として「税金を払っている在日の方々がそれに対して意見を、また参政権という形で、選挙という形で意見を述べるのは、これは当然ではないかというような意見もある」「在日の皆さま方のことを考えると同時に、日本そのものを考えるという大変大きなモメンタムである」と発言している(一方で提案説明の中で「やはり国民の声の中では幾つかの問題提起もされている」「地方の政治と国政とは実は非常に密接に関係してくる」「(南北朝鮮の民団と総連という関係が敵対して)一本化されていないということに一抹の不安を覚える」「国籍を取りやすくするということも、この法案とはまた別にその選択肢も十分ある」と導入に慎重とも受け止められる意見もしている。ただし、「国籍取得をより簡便にするということをまず考えなければならない」として、国政選挙権の行使も可能となる帰化に積極的である)[41]。なお、小池は外国人参政権に関する過去の発言をめぐる報道に関して2010年7月、日刊ゲンダイを名誉毀損で東京地裁に提訴し、勝訴した。
民主党政権及びその政策に対する批判
- 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙とその結果を受けての鳩山由紀夫内閣成立は「日本解放第二期工作要綱が決行された結果である」と自分のメールマガジンで主張[42]。11月26日には、鳩山由紀夫内閣が進める事業仕分けについて、「中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる」と述べている[43]。
- 2010年3月11日、自身のTwitterにおいて、朝鮮学校の高校無償化に反対を明言し、それに加えて「反日教育を進めている北教組の傘下にある北海道の高校も同類」と書き込み、北海道の高校の授業料無償化にも反対の姿勢を示した[44]。
その他
- 2007年7月26日、青森県弘前市で行なわれた第21回参議院議員通常選挙の比例区に立候補した候補者の応援演説において、1995年の阪神・淡路大震災における救援活動について「アメリカが支援に神戸港に入ろうとしても、港湾組合が厳しくてなかなか着岸できなかった」と発言。これに対して港湾労組協議会は「拒否した事実はない」と否定している。小池側は「非核証明がない限り入港できないという、非核神戸方式を念頭に置いた発言」としている[45]。
- 2008年の中国製ギョーザ中毒事件に関連して、「自殺願望の人が農薬を口にしたが偽装農薬で死ねず、良かったといってお祝いでギョーザを食べたら死んでしまった。すごくブラックなジョーク」と述べた[46][47]。
- 日本解放第二期工作要綱を「昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書」として紹介している。2009年8月の政権交代による民社国連立政権成立によって第2期解放工作の民主連合政府の形成という目標が達成されたとしており、韓国が中国共産党の対日工作に呼応すれば、韓国も独自の地位を確保することが可能になるであろうとしている[48]。
- 2010年12月5日、そよ風主催・在日特権を許さない市民の会女性部協賛の会合で講演を行った[49]。2016年東京都知事選挙に立候補する直前の7月8日、日本外国特派員協会で実施された記者会見でジャーナリストの江川紹子からこの件について質問されると、「いろんな講演会に招かれることはしばしばございます。しかし私は在特会という、最近よく出ておりますけど、それについてはよく存じておりません。また、私を招いてくれた会は、こことどういう関係にあるか知り得なかったということでございます。よって、その認識はないということです」と答えた[50]。
評価
政治家からの評価
- 2016年東京都知事選挙に立候補する直前、小池は自民党に推薦を要請し、自民党東京都連会長の石原伸晃に面会した。しかし小池は都連の決定を待たずに出馬表明したため、同年7月6日、石原は「やっぱり小池さんは自由人なんですね、そう思った」[51]と述べた。7月11日に党本部で開催された都連会合でも、石原は「わがままだなとは思ったが推薦依頼があったので、このような席に出てきて都政にかける意気込みをぜひ聞かせていただきたく思っていた。(小池に)連絡しているが、出席には至っていないのは残念だ」[52]と述べている。その後、自民党が増田寛也の推薦を正式に決定すると、石原は東京都連幹事長内田茂との連名で、自民党が推薦していない候補者を応援した場合は「除名などの処分対象になる」との文書を自民党所属の国会議員や地方議員に配布した[53]。
- 野田聖子は、2016年7月12日に行った早稲田大学での講演で「小池百合子さんとは同期。すばらしい女性だ。私にはない強さがある。彼女はどんどん突っ走っていくタイプ。そういった意味で、一国一城に向いている。国会は法律をつくるのに20人くらい仲間がいないと出せないので根回しが必要。いい人じゃないと『あいつは嫌なやつだから応援しない』、そういうのが渦巻くところだが、都知事はトップ。私はまったく向いていないが、彼女には資質はあると思う」[54]と述べた。
官僚からの評価
- 小池が環境大臣を務めた2003年から2006年にかけて環境事務次官として小池に仕えた炭谷茂は、小池は外交政策や経済政策に強く、明確なビジョンを示す力や、戦略を進める人脈が広いため、「総理大臣は、小池さんで大丈夫」だと述べた[55]。
所属団体・議員連盟
- 自民党国際人材議員連盟(会長)
- 自由民主党資源・エネルギー戦略調査会(顧問)
- 自由民主党税制調査会(副会長)
- 自由民主党環境・温暖化対策調査会(顧問)
- 自由民主党安全保障調査会(顧問)
- 自由民主党観光立国調査会(顧問)
- 日本会議国会議員懇談会(副会長)
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(拉致議連)
- 国際連帯税創設を求める議員連盟
- 親学推進議員連盟
- 日華議員懇談会
- 日韓議員連盟
- 自民党動物愛護管理推進議員連盟
- 朝銀問題を考える超党派の会(副会長)
- 歴史教科書問題を考える会
- 公益財団法人日本国際フォーラム(評議員[56]、政策委員[57])
- 衆議院日仏友好議員連盟
- 日カザフスタン友好議員連盟
年譜
- 1971年(昭和46年) - 甲南女子高等学校卒業。関西学院大学社会学部に入学(のちに中退)。
- 1976年(昭和51年) - カイロ大学文学部社会学科卒業。
- 1979年(昭和54年) - 日本テレビ「世相講談」キャスター。
- 1985年(昭和60年) - テレビ東京「マネー情報」キャスター。
- 1988年 (昭和63年) - テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」初代メインキャスター。
- 1992年(平成4年)7月 - 参議院議員初当選(日本新党公認・比例区)。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1996年(平成8年)10月 - 衆議院議員再選(新進党公認・兵庫6区)。
- 1997年(平成9年)12月 - 新進党解党。
- 1998年(平成10年)1月 - 自由党結成に参加。
- 1999年(平成11年)10月5日 - 経済企画総括政務次官に就任。
- 2000年(平成12年)
- 2000年(平成12年)6月 - 衆議院議員3選(保守党公認・兵庫6区)。
- 2002年(平成14年)12月 - 保守党解党、自由民主党に入党。
- 2003年(平成15年)
- 2003年(平成15年)11月19日 - 環境大臣に再任。
- 2004年(平成16年)9月27日 - 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)9月26日 - 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)就任。
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)9月 - 自由民主党総裁選挙に立候補。麻生太郎、与謝野馨に次ぐ得票数3位で落選。
- 2009年(平成21年)
- 8月 - 衆議院議員6選(自由民主党公認・比例東京ブロック)。
- 10月 - 自由民主党広報本部長就任。
- 2010年(平成22年)9月 - 自由民主党総務会長就任。
- 2011年(平成23年)9月 - 自由民主党総務会長退任。
- 2012年(平成24年)12月 - 衆議院議員7選(自由民主党公認・東京10区)、自由民主党広報本部長就任。
- 2013年(平成25年)
- 4月 - ルノー社外取締役就任[58]
- 6月 - 日本ウエイトリフティング協会の新会長に選任(女性初)[59]。
- 2014年(平成26年)12月 - 衆議院議員8選(自由民主党公認・東京10区)。
著作
単著
- 1982年1月 『振り袖、ピラミッドを登る』 講談社、ISBN 4062002701
- 1983年1月 『3日でおぼえるアラビア語』 学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月、ISBN 4311710011
- 1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』 太陽企画出版、ISBN 4884660749
- 1994年6月 『永田町ブロードキャスター』 朝日新聞社、ISBN 4022567430
- 週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
- 2007年4月 『小池式コンセプト・ノート プロジェクトは「大義と共感」で決まる!』 ビジネス社、978-4828413518
- 2007年10月 『女子の本懐 〜市ヶ谷の55日〜』 文春新書、ISBN 9784166606023
- 2008年10月 『もったいない日本』 主婦と生活社、ISBN 978-4391136609
- 2009年7月 『ふろしきのココロ』 小学館、ISBN 978-4093878487
- 2009年10月 『議員と官僚は使いよう』 小学館101新書、ISBN 978-4098250554
- 2011年6月 『発電する家「エコだハウス」入門』 プレジデント社、ISBN 978-4833419550
- 2014年9月 『自宅で親を看取る 肺がんの母は一服くゆらせ旅立った』 幻冬舎、ISBN 978-4344026469
共著
- 1995年12月 パラダイム・ファクトリー著『日本破局のシナリオ 待ったなし、日本再生構想』 新講社、ISBN 4915872106
- 2001年8月 相澤英之ほか編『一問一答金庫株解禁等に伴う商法改正』 商事法務研究会、ISBN 4785709553
- 2001年12月 『対論:テロは日本を変えたか』 広済堂出版、ISBN 4331508579
- 古森義久との共著。
- 2002年11月 山本一太監修『私が総理になったなら 若き日本のリーダーたち』 角川書店、ISBN 4048837877
- 2005年4月 環境ビジネスウィメン懇談会編著『環境ビジネスウィメン』 日経BP社、ISBN 4822208575
- 小池百合子、染谷ゆみ、善養寺幸子、堤恵美子、キャシー松井、薗田綾子、安井悦子、鈴木敦子、枝廣淳子、崎田裕子、谷みどりによる共編著。
- 2008年7月 TPL著『東京WOMEN大作戦』 小学館、ISBN 9784093877947
- 2009年7月 『南地中海の新星リビア 高まる日本への期待』 同友館、ISBN 978-4496045516
- 畑中美樹との共著。
- 2013年12月 『異端のススメ』 宝島社、ISBN 978-4800215437
- 林修との共著。
- 2015年7月 『無電柱革命』 PHP新書、ISBN 978-4569825120
- 松原隆一郎との共著。
対談等
- 1992年10月 牟田口義郎著『カイロ 世界の都市の物語 10』 文藝春秋、ISBN 978-4-16-509620-7
- 「ケイオスティック・カイロ」を寄稿。
- 1993年9月 佐高信著『日本人の死角』 徳間書店、ISBN 4191452908
- 対談「私は政治改革のモルモット」を収録。
- 1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』 ダイヤモンド社、ISBN 4478180202
- 第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿。
- 2001年2月 佐和隆光、浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』 ダイヤモンド社、ISBN 4478200653
- 鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録。
論文
出典・注釈
出典
- ^ “カイロ大学首席卒業の小池百合子、エジプト情勢に「暗殺の企て」”. exciteニュース (2011年2月8日). 2016年4月7日閲覧。
- ^ a b c 「衆議院議員 小池百合子さん エジプト・カイロへ大学留学中、ピラミッドの頂上でお茶を点てました」『プレジデント』2008年10月13日号、PRESIDENT Online、2015年1月9日閲覧。
- ^ 1985年4月11日毎日新聞夕刊
- ^ 『小池式コンセプトノート』P235
- ^ “歴代受賞者”. 日本女性放送者懇談会 SJWRT. 2016年6月21日閲覧。
- ^ 鯨岡仁「政権選択『93世代』はいま――対談小池百合子氏前原誠司氏」『朝日新聞』43724号、朝日新聞東京本社、2008年1月7日、2面。
- ^ “テロ対策特措法:国会の事前承認に否定的…小池防衛相”. 毎日新聞. (2007年8月3日)
- ^ アサヒコム 2007年8月11日配信など
- ^ 読売新聞2007年8月10日
- ^ “小池防衛相、続投希望せず 情報漏えいで「引責」”. 共同通信社. 47NEWS. (2007年8月24日) 2015年1月9日閲覧。
- ^ 衆院選小選挙区 自民128人推薦 公明新聞 2009年8月7日[リンク切れ]
- ^ “小池氏、幸福実現党とタッグ結成も「金正日拘束」「ミサイルUターン」にドン引き…東京10区”. スポーツ報知. (2009年8月18日)[リンク切れ]
- ^ “小池百合子氏が町村派を退会 「派閥の時代でない」”. 共同通信. (2009年9月3日) 2011年2月15日閲覧。
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- ^ 『協会概要』日本リビア友好協会。
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- ^ 『Twitter / 小池百合子: ちなみに、リビアのカダフィ指導者へのお土産はWiiに ...』Twitter、2009年11月19日。
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- ^ http://www.yuriko.or.jp/bn/column-bn/colum97/corum9703.shtml | KOIKE Yuriko *臓器移植は条件つき賛成*
- ^ スポーツニッポン、1997年3月24日
- ^ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査
- ^ 日刊ゲンダイ2008年12月12日紙面より)
- ^ 小池百合子の乱勢い「韓国人学校 都の土地提供、貸し出しはまあ撤回ですね」『産経ニュース』2016年7月7日
- ^ 小池百合子「小沢一郎と小泉純一郎を斬る」 『文芸春秋』2008年1月号、p131
- ^ 大下英治『小池百合子の華麗なる挑戦』川出書房新社、2008年、p169
- ^ 大下『小池百合子の華麗なる挑戦』p289~291
- ^ “女の直感で「よろしくない」=守屋容疑者について小池元防衛相”. 時事通信社. (2007年11月29日)
- ^ “内閣入り内定!? 小池百合子が断髪式でショートカット復活”. ニコSPA!政策論壇. (2012年12月20日) 2016年6月30日閲覧。
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- ^ 小池氏に受注企業献金 環境相時代、100万円 05年総選挙直前 公選法違反の疑い しんぶん赤旗 2007年8月4日
- ^ a b 「政党支部、収支ピタリ一致の『怪』――『帳尻合わせない』」『asahi.com:政党支部、収支ピタリ一致の「怪」 「帳尻合わせない」 - 政治』朝日新聞社、2007年11月26日。[リンク切れ]
- ^ a b c 『中央公論』2008年10月号「それでも時代は、小沢総理を求めるのか」p67
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- ^ 「戦っている相手は沖縄のメディア」小池元防衛相 朝日新聞2013年3月26日
- ^ 水俣病問題に係る懇談会
- ^ “小池首相補佐官、厚労相の「産む機械」発言に不快感”. 朝日新聞. (2007年2月4日)
- ^ 衆議院政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 2000年11月22日議事録
- ^ e-コムネット第46号[リンク切れ]
- ^ 中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。
- ^ 『朝鮮学校の無償化、首相「法案成立後に判断」』(朝日) それはないでしょ!! 絶対反対! 反日教育を進めている北教組の傘下にある北海道の高校も同類。
- ^ 小池防衛相:「神戸の港湾組合、震災支援を阻害」発言(毎日インタラクティブ 記事はサイトリニューアルにより消滅)
- ^ “「ギョーザ食べ死んだ」 小池百合子氏発言”. 中日新聞 (中日新聞社). (2008年3月11日) 2013年5月3日閲覧。
- ^ 夕刊フジ記事2008年03月12日
- ^ “No.046 小池百合子のメールマガジン『e-コムネット』” (2009年9月21日). 2010年5月30日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 在日特権を許さない市民の会 - 【そよ風講演会】 小池百合子先生講演会「日本と地球の護りかた」 【女性部】2014年10月20日
- ^ 小池百合子氏、在特会の関連団体での講演を指摘され「よく存じておりません」『The Huffington Post』2016年7月8日
- ^ 「やっぱり小池百合子氏は自由人」「『時間がない』と」自民・石原伸晃都連会長、谷垣禎一幹事長との協議後、記者団に『産経ニュース』2016年7月6日
- ^ 石原伸晃自民都連会長「小池百合子氏はわがままだ」 萩生田光一官房副長官「公党への侮辱ではないか」『産経ニュース』2016年7月11日
- ^ 小池百合子氏を応援したら「除名対象」!!自民都連が文書で警告 石原伸晃会長らが所属議員を引き締め『産経ニュース』2016年7月13日
- ^ 「『小池百合子さんは都知事の資質ある』自民・野田聖子氏」『朝日新聞デジタル』2016年7月13日
- ^ 大下『小池百合子の華麗なる挑戦』p392
- ^ “評議員、役員等”. 日本国際フォーラム. 2014年2月25日閲覧。
- ^ “委員”. 日本国際フォーラム. 2014年2月25日閲覧。
- ^ http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD170NX_X10C13A4TJ2000/
- ^ 小池氏、女性初の会長=重量挙げ協会
注釈
関連項目
- 自由民主党国会議員一覧
- 中山泰秀(元政策秘書)
- 宮内義彦(後援会会長)
- 地域経済総合研究所(評議員)
- 日本解放第二期工作要綱
- 中華民国政府與台湾人民對東日本大震災之援助
- 日本国際フォーラム (評議員)
- 世界オピニオンリーダーズサミット(オピニオンリーダー)
- 半田晴久(ワールドメイト)
外部リンク
- 小池ゆりこ オフィシャルサイト
- 小池百合子 Yuri Channel - YouTubeチャンネル
- 小池百合子 (@ecoyuri) - X(旧Twitter)
- 『ザ・選挙』小池百合子 選挙・政治家情報ページ[リンク切れ]
- 過去の大臣記者会見・談話等(小池環境大臣)
公職 | ||
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先代 久間章生 |
防衛大臣 第2代:2007年 |
次代 高村正彦 |
先代 鈴木俊一 |
環境大臣 第5・6・7代:2003年 - 2006年 |
次代 若林正俊 |
先代 茂木敏充 |
特命担当大臣(沖縄及び北方対策) 第6・7代:2004年 - 2006年 |
次代 高市早苗 |
議会 | ||
先代 佐藤敬夫 |
衆議院科学技術委員長 1997年 - 1998年 |
次代 大野由利子 |
党職 | ||
先代 田野瀬良太郎 |
自由民主党総務会長 第49代:2010年 - 2011年 |
次代 塩谷立 |