アーチボルド・プリムローズ (第5代ローズベリー伯爵)
第5代ローズベリー伯爵 アーチボルド・プリムローズ Archibald Primrose, 5th Earl of Rosebery | |
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5代ローズベリー伯 | |
生年月日 | 1847年5月7日 |
出生地 | イギリス、ロンドン、バークレー・スクエア |
没年月日 | 1929年5月21日 (満82歳没) |
死没地 | イギリス、サリー州、エプソム |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 自由党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | ハンナ・ドゥ・ロスチャイルド |
親族 |
初代クルー侯爵 (娘婿) 第6代ローズベリー伯爵 (子) |
サイン | |
内閣 | 第2次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1885年3月 - 1885年6月 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第3次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1886年2月 - 1886年8月 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第4次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1892年8月 - 1894年2月 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | ローズベリー伯爵内閣 |
在任期間 | 1894年3月 - 1895年6月 |
国王 | ヴィクトリア |
第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・フィリップ・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery、1847年5月7日 - 1929年5月21日)は、イギリスの政治家。ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC)。
自由党に属し、ウィリアム・グラッドストンの政権で閣僚を歴任。グラッドストン引退後にイギリスの首相を務めた(在任: 1894年 - 1895年)。
1851年から1868年までは「ダルメニー卿(Lord Dalmeny)」の儀礼称号を称した。
経歴
第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズの嫡子ダルメニー卿アーチボルド・プリムローズの息子として、ロンドンのバークレー・スクエアで誕生。母キャサリンは第4代スタンホープ伯爵フィリップ・ヘンリー・スタンホープの娘。
父ダルメニー卿はスターリング選出の庶民院議員で、第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム首相の下で海軍本部委員の一人を務めていた。父が1851年に死去したため、ローズベリー伯爵位の法定推定相続人として「ダルメニー卿」の儀礼称号を帯びた。また母は第4代クリーヴランド公爵ハリー・ポウレットと再婚した。
イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで学ぶ[1]。在学中の1868年に祖父の死去により襲爵、連合王国貴族「ローズベリー男爵」として貴族院議員となる。
ローズベリーの名が広く知られるようになったのは、1879年に自由党のウィリアム・グラッドストンが行った「ミッドロージアン・キャンペーン」によってであった。一連のベンジャミン・ディズレーリ政権批判においてローズベリーは資金提供と舞台演出を担当し、1880年総選挙での勝利に貢献した。選挙後発足した第2次グラッドストン内閣で1881年から1883年まで内務省政務次官(Under-Secretary of State for the Home Department)を務めた後、1885年に王璽尚書兼建設長官(First Commissioner of Works)として入閣した。1886年の第3次グラッドストン内閣では外務大臣として再び閣僚となった。
1890年に妻と死別してからしばらく政界から距離を置いていたが、ヴィクトリア女王らの説得もあって復帰し、1892年の第4次グラッドストン内閣で再度外務大臣に任じられた。外務大臣としての彼は、イギリスが占領下においていたエジプト王国からの撤兵に反対し、フランスやドイツとの勢力争いの舞台となっていたウガンダの排他的支配を主張した。1893年に仏泰戦争でフランスがシャムに迫るとフランスとイギリスが衝突する可能性が高まったが、ローズベリーは硬軟合わせた交渉によりシャムを緩衝国として残すことで危機を解決した。また日清戦争後の1895年に起きた三国干渉では、イギリスは干渉に加わるべきでないと判断している[2]。
1894年にグラッドストンが引退すると、ヴィクトリア女王は自由党内の自由帝国主義グループの領袖であったローズベリーに大命を降した。しかし彼が引き継いだ政権は、閣内・与党内に深刻な亀裂を抱えていた。財務大臣兼庶民院院内総務のウィリアム・ヴァーノン・ハーコートはローズベリーと対立していたし、アイルランド統治法案を巡る確執もありアイルランド議会党(Irish Parliamentary Party)の支持も磐石ではなかった。結局1895年6月に陸軍予算に関する法案が否決されると、彼はこれを内閣不信任と見做して総辞職した。
代わって首相となった保守党の第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは直ちに解散総選挙を行って勝利し、翌1896年にローズベリーは自由党の党首を辞任した。以後徐々に彼は党内の主流派ではなくなり、ヘンリー・キャンベル=バナマンやハーバート・ヘンリー・アスキスに対して貴族院から批判を行った。1908年の「人民予算」に対しても反対票こそ投じなかったものの反発している。最後に議場に姿を見せたのは1911年議会法に賛成票を投じた時であった。1916年に挙国一致内閣を組織することになったデビッド・ロイド・ジョージはローズベリーに「高いポスト」を提示したが、辞退している。
1929年5月21日、エプソムの自宅で死去し、ダルメニーの教会墓地に葬られた。
家族
1878年にローズベリーは、ユダヤ人銀行家メイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵の一人娘ハンナ・ドゥ・ロスチャイルド(ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの孫)と結婚した。ハンナは1874年に死去したメイアーから父の所領の大半を相続しており、イギリス有数の遺産相続人であった。2人を引き合わせたのは、ベンジャミン・ディズレーリ夫人メアリーであった。
夫人との間に二男二女をもうけた。
- レディ・シビル・メアリ・キャロライン・プリムローズ (1879年 - 1955年) - チャールズ・グラント陸軍大将と結婚。作家
- レディ・マーガレット・エトレン・ハンナ・プリムローズ (1881年 - 1967年) - 初代クルー侯爵ロバート・クルー=ミルンズと結婚
- ダルメニー卿アルバート・エドワード・ハリー・メイアー・アーチボルド・プリムローズ (1882年 - 1974年) - 第6代ローズベリー伯爵。スコットランド担当大臣
- オナラブル・ニール・ジェイムズ・アーチボルド・プリムローズ (1882年 - 1917年) - 陸軍大尉。パレスチナで戦死
出典
- ^ "Rosebery, Archibald Philip Primrose, Earl of. (RSBY888AP)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ Chisholm, Hugh [in 英語] (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press.
外部リンク
- ウィキメディア・コモンズには、第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズに関するカテゴリがあります。
- 英語版ウィキソースには第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ著の原文があります。
- ウィキクォートには、第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズに関する引用句があります。
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Archibald Primrose
- Archibald Primrose 5th Earl of Rosebery - ダウニング街10番地
- "Primrose, Archibald Philip (1847-1929) 5th Earl of Roseberyの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery (1847-1929) - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- Archibald Primrose - Find a Grave
公職 | ||
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先代 レオナルド・コートニー |
内務省政務次官 1881年-1883年 |
次代 J.T.ヒバート |
先代 ジョージ・ショウ=レフィブレ |
建設長官 1885年 |
次代 デイヴィッド・プランケット |
先代 初代カーリングフォード男爵 |
王璽尚書 1885年 |
次代 第3代ハーロウビー伯爵 |
先代 第3代ソールズベリー侯爵 |
外務大臣 1886年 |
次代 初代イデスリー伯爵 |
先代 (新設) |
ロンドン参事会議長 1889年 - 1890年 |
次代 サー・ジョン・ラボック準男爵 |
先代 サー・ジョン・ラボック準男爵 |
ロンドン参事会議長 1892年 |
次代 ジョン・ハットン |
先代 第3代ソールズベリー侯爵 |
外務大臣 1892年-1894年 |
次代 初代キンバリー伯爵 |
先代 ウィリアム・グラッドストン |
第48代首相 1894年-1895年 |
次代 第3代ソールズベリー侯爵 |
先代 初代キンバリー伯爵 |
貴族院院内総務 1894年-1895年 | |
先代 初代キンバリー伯爵 |
枢密院議長 1894年-1895年 |
次代 第8代デヴォンシャー公爵 |
党職 | ||
先代 ウィリアム・グラッドストン |
自由党党首 1894年-1896年 |
次代 ウィリアム・バーノン・ハーコート |
先代 初代キンバリー伯爵 |
自由党貴族院院内総務 1894年-1896年 |
次代 初代キンバリー伯爵 |
名誉職 | ||
先代 第6代ホープトン伯爵 |
リンリスゴー総督 1873年-1929年 |
次代 第2代リンリスゴー侯爵 |
先代 第5代バクルー公爵 |
ミッドロージアン総督 1884年-1929年 |
次代 第6代ローズベリー伯爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 アーチボルド・プリムローズ |
第5代ローズベリー伯爵 1868年-1929年 |
次代 ハリー・プリムローズ |
イギリスの爵位 | ||
先代 (創設) |
初代ミッドロージアン伯爵 1911年-1929年 |
次代 ハリー・プリムローズ |