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橘澄清

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橘澄清
時代 平安時代前期-中期
生誕 貞観元年(859年
死没 延長3年5月6日/9月3日(925年5月30日/9月23日
官位 従三位中納言
主君 宇多天皇醍醐天皇
氏族 橘氏
父母 橘良基
兄弟 澄清在公藤原保蔭
忠正藤原中正
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橘 澄清(たちばな の すみきよ、貞観元年(859年) - 延長3年5月6日[1]925年5月30日)または同年9月3日[2](同年9月23日))は、平安時代前期の公卿参議橘常主の孫である信濃橘良基の五男。橘氏是定官位従三位中納言

経歴

寛平2年(890年文章生となり、寛平6年(894年渤海使伯耆国に到来した際には伯耆権掾に任ぜられている。六位蔵人兵部少丞を経て、寛平9年(897年従五位下伊予に叙任される。のち、讃岐権介・播磨介・伊予介・伊予守・太宰大弐と専ら地方官を歴任し、この間、延喜2年(902年)従五位上、延喜6年(906年正五位下、延喜9年(909年従四位下と順調に昇進している。

延喜11年(911年勘解由長官として京官に復帰すると、次いで左中弁・右大弁と弁官を経て、延喜13年(913年参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。延喜21年(921年従三位中納言に叙任された。『延喜式』・『延喜交替式』の編纂にも加わっている。

娘が藤原中正と結婚し、その所生である時姫藤原兼家(後の摂政)と結婚してその子孫が摂関家を継いだことから、10世紀後期に橘氏の公卿が途絶えると、摂関家が是定の地位を占める口実とされた(藤原道隆道長ら兄弟は澄清の曾孫にあたるため)。

京都市伏見区にある道澄寺は、清澄が甥の藤原道明(良基の外孫)とともに創建したと伝えられている。

官位歴

  • 寛平2年秋(890年-月-日) 文章生。(橘上)。
  • 寛平6年12月28日(895年1月27日) 伯耆権掾
  • 寛平8年
    • 正月11日(896年1月29日) 蔵人
    • 正月26日(896年2月13日) 兵部少丞
  • 寛平9年
  • 昌泰4年2月19日(901年3月12日) 讃岐権介
  • 延喜2年正月7日(902年2月17日) 従五位上
  • 延喜6年
  • 延喜9年
    • 正月7日(909年1月31日) 従四位下
    • 正月21日(909年2月14日) 伊予介。
    • 4月22日(909年5月14日) 轉伊予守
  • 延喜10年5月29日(910年7月8日) 太宰大弐
  • 延喜11年
  • 延喜12年
    • 正月15日(912年2月5日) 右大弁
    • 2月15日(912年3月6日) 昇殿
  • 延喜13年
    • 正月28日(913年3月8日) 任参議。右大弁、勘解由長官如元。
    • 4月15日(913年5月23日) 轉左大弁。参議、勘長官如元
  • 延喜14年
    • 正月7日(914年2月4日) 従四位上
    • 正月12日(914年2月9日) 兼播磨権守。参議、左大弁、勘長官如元。
  • 延喜18年正月13日(918年2月26日) 止播磨権守。参議、左大弁、勘長官如元。
  • 延喜19年正月28日(919年3月3日) 兼播磨権守。参議、左大弁、勘長官如元。
  • 延喜21年
  • 延長3年5月6日(925年5月30日) 薨去。

系譜

脚注

  1. ^ 日本紀略』『公卿補任
  2. ^ 尊卑分脈
  3. ^ 大日本史 卷之一百十五』:攝津守藤原中正妻,澄清女也,生女,侍攝政兼家,生大納言道隆。以故,詔道隆為是定。【公事根源。】自後橘氏敘爵,皆屬藤原氏。【職原抄、公事根源。】

参考文献