淳于髠
淳于 髠(じゅんうこん、生没年不詳)は、戦国時代の人物。斉の威王に仕えた、稷下の学士の一人である。元々贅壻であったが、才能によって立身出世することができた。そもそもの姓は『淳于』で、名は『髠』だが、『髠』とは仮名のようなもので、丸坊主を意味する言葉である。『贅壻』とは、 いわゆる奴隷であり、奴隷は頭を丸刈りにするのでそういう名にしたのであろう。
淳于髠の一生
三年鳴かず飛ばず
斉の人で、淳于髠は元々贅壻という奴隷同然の身分であったが、後に斉に仕えた。
- 隠を喜び、好んで淫楽長夜の飲を為す。沈面(酒におぼれること)して治めず、政を卿大夫に委せ、百官荒乱し、諸侯並び浸し、国且に危亡せんとすること、旦暮に在り。左右、敢えて諫むる莫し。
と記されていた。隠とは『隠語』のことで、謎かけが好きな威王は、側近とも謎かけで語っていた。しかし、自分の出した謎が早く解けると機嫌が悪くて首が飛ぶかもしれず、側近たちは苦労した。そのころ、三晋(韓、魏、趙)は斉を侵略し、攻撃していた。この侵攻に、斉は手も足も出なかった。そんな状態が九年続き、斉は各国から見くびられていた。そのような状態の中、淳于髠は、威王に謁見し謎かけを使い、「わが国に大きな鳥がいます。王宮の庭に止まって、三年のあいだ、飛ばず、鳴かずです。王様、これが何という鳥かご存知ですか?」と言った。これに対して威王は、
- 此の鳥、飛ばずば即ち已まん。一たび飛ばば天に沖せん。鳴かずば即ち已まん。一たび鳴かば人を驚かさん。
と答えた。「この鳥は、飛ばなければ飛ばぬままだけれど、一度飛べば天へ飛躍するだろう、この鳥は、鳴かなければ鳴かぬままだけれど、一度鳴けば人を驚かすだろう」、という意味である。
その後、淳于髠は威王に仕えた。名君として振る舞った威王は斉の国中に県の長官72人を召集して、業績の多い者は賞し、業績のない者は処刑した。そして、兵を整えて猛然と出撃した、三晋などの各国の君主は驚愕して、斉から奪った土地を返した。以降から威王の威光による治世は36年に及んだ。
威王の8年(紀元前371年)に楚の粛王は大軍を率いて、斉を討伐した。威王は淳于髠を使者として趙に派遣させ、その際に百斤の黄金と四頭立ての馬車と馬を十台分を持参するように命じた。淳于髠はそれを知ると身をそらせて天に向かって大笑いした。そのときに淳于髠の冠のひもが切れてしまった。
淳于髠を見た威王は「先生は持参する贈り物が少ないと判断されたのか?」とたずねた。淳于髠は「いえ、そうでもありません」と述べた。しかし、威王は「先生が大笑いしたのは何か理由があるからでしょう」と言った。すると淳于髠は「先ほど私は東方からここに参ったのですが、道端で田の神を祀って祈願する者を見かけました。彼は豚の脚先ひとつと一椀の酒を持参して、「高い痩地でも籠いっぱい、低い肥地なら車いっぱい、五穀みなみな豊かに実って、たんまりと家がいっぱいになりますように」と述べておりました。私が王から持参を命じられた荷物を見て、なんと貧弱であるなと思い、王の望みがそれと比較して大きいと思いついに笑ったのでございます」と述べた。これを聞いた威王は急遽に千溢の黄金、十双の白い璧玉、四頭立ての馬車と馬を百台分に変更させた。
淳于髠は趙の成侯に謁見して、成侯は斉に対して十万の精鋭と千台の戦車を貸し出してくれた。楚の粛王はこの報を聞くと、その夜のうちに引き揚げた。
威王は大変喜んで、自ら淳于髠を奥御殿の酒宴に招いた。威王は「先生はどれくらいで酔われるかな?」と言った。淳于髠は「私は一升で酔い、一斗でも酔います」と述べた。不思議に思った威王は「先生は、一升でも一斗でも酔われると言われた。どうして一斗でも飲めるのかその理由を訊きたいものだ」と言った。淳于髠は「王の御前で酒を飲むと、私は王のそばにおられる監察官を意識して、恐れ多くも這いつくばって一升で酔うのでございます。もし、私の親のところに立派なお客が訪ねた際には、私は袖をたくし上げて、体をこごめて前に出て酒を差し出します。おりおりに残りの酒をいただくと、盃をささげてお客をことほぐす言葉で申し上げますが、このようにたびたび立ち上がるのでは、私は飲んでも二升を越えずにすぐに泥酔してしまいます。もし、しばらく顔を合わせてない友人と急に酒を飲みかわすときには、楽しい思いで話や心の中で語り合うときには、ついつい五・六升くらいは飲んで酔います」と述べた。
引き続き淳于髠は「わたしも村里の集いで男女に混ざって座って、徳利はあちらやこちらにとどまり、双六や輪投げの賭けに遊び、誘い合って組を作ります。また、男女が手を握り合っても処罰されずに、目を見つめ合うことも禁じられずに、前には耳飾りが落ちていると思えば、後ろには簪が抜けて落ちたままになっていることがあります。そのような感じならば私は心から楽しんでおり、八升ほど飲んでも酔うのは二、三度ほどでございます。さらに日暮れに近づいて酒宴が終わろうとするときに、樽の残りをある場所に寄せ集めて、座席をひと場所にかため、男女が同じ場所に座り、上履きは散乱し盃も皿も引っくり返っております。やがて、座敷の灯火が消されて主人はこの私を残して、他の客を送り出します。そして、残ったもうひとりの客の絹の肌着の襟がほどき、濃厚な香気が鼻に刺激します。そのような状況になるとこの私は気分が高まり、一升の酒が飲めるのです。そのために「酒を極めれば乱れあり、楽しく極めれば悲しみあり」と申します。そのように万事がその通りでして、「極める」といけない、同時に「極める」と衰えるのである、という言葉がございます」と述べた。
淳于髠はこのようにして、威王を諌めたのである。威王は「なるほど、先生の申す通りだ」と言って、深夜に酒宴を禁じたのである。以降から威王は淳于髠を諸侯の接待役に任命して、斉の酒宴には淳于髠が威王のそばにいたのである。
稷下の学士の創立
また、淳于髠は威王を覇者にするために、人材を積極的に登用することを勧めたといわれる。そこで、稷下の学士が登場することになった。彼らは、斉に高給で雇われた学者で、儒家や法家、道家や墨家などのいろいろな人々が集まった。彼らは大邸宅に住み、日々集まっていろいろなことを論じ合った。しかし、彼らは基本的に斉の要職に就くことはなく、政府はその討論から出てきた論理で役に立ちそうなものを政治に転用した。
と述べている。