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弘治帝

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弘治帝 朱祐
第10代皇帝
明孝宗著袞龍袍半身像
王朝
在位期間 1487年 - 1505年
都城 北京
姓・諱 朱祐
諡号 建天明道誠純中正聖文神武至仁大徳敬皇帝
廟号 孝宗
生年 成化6年7月3日(1470年7月30日)
没年 弘治18年(1505年)6月8日
成化帝
孝穆皇后
后妃 孝康敬皇后
陵墓 泰陵
年号 弘治 : 1488年 - 1505年

弘治帝(こうちてい)は朝の第10代皇帝(ゆうとう)、廟号孝宗(こうそう)。日本では治世の元号から一般には弘治帝と称される。

生涯

成化帝の第3子として生まれる。母の紀氏は広西省の少数民族の反乱鎮圧で捕虜となり、宮人として献上された。成化帝の寵妃万貴妃は嫉妬深い女性であり、彼女以外の妃が産んだ子をことごとく暗殺していたが、弘治帝は宦官により密かに育てられ成人した。

即位した弘治帝が始めに行った事は、成化帝が重用し、朝政に何ら貢献することなく高禄を与えられていた道士、僧の追放である。その首魁であった李牧省僧継暁は投獄、後に死罪とした。

弘治帝は賢臣を登用し専売法の見直し、宦官・道士・僧の綱紀粛正、北のダヤン・ハーンに対する防衛体制の強化などの政策を実施、弛緩していた明朝の国勢を立て直した。一時期不老長寿を説く宦官を信任した事もあったが、まもなくその害に気付き粛清し、再び政務に励み、後世の史家より中興の祖と称されている。

弘治18年(1505年)に崩御。泰陵(明の十三陵)に埋葬された。

明孝宗朝服像

宗室

后妃

  • 孝康敬皇后

  • 太康公主