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坂 胆道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 - 1998年(平成10年))は日本の彫刻家。本名 青嵐(せいらん)。
経歴
1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、胆道も当初は画家を目指したが、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)、新文展(のちの日展)に初入選した。同年学徒出陣により陸軍入隊、タイバンコクで終戦を迎え、10か月の捕虜生活の後日本に帰国した。
戦後は中学校の美術教諭や百貨店勤務のかたわら彫刻制作を行ない、1964年(昭和39年)「青年像」が日展で特選を受賞、1966年(昭和41年)には日展会員となり北海道を代表する彫刻家となった。1964年からは北海道女子短期大学助教授(翌年教授)となった。1982年(昭和57年)には日彫展で「酔っぱらい」が西望賞を受賞し、同年札幌市民芸術賞も受賞した[1]。1976年(昭和51年)には代表作となる「丘の上のクラーク」を製作したが、長女の回想によればクラークばかりが有名になり「クラークだけが俺の作品じゃない」と話していたという[2]。
作家活動の一方で、北海道女子短期大学で長く教授を務め、文部大臣より短期大学教育功労賞を受け、1995年(平成7年)には同短大の名誉教授に就任した。作風として道化師などの特徴的な人物像を得意としたが、初期には世相を色濃く反映した人物像も制作していた[1]。
1998年(平成10年)77歳で死去。死後、遺族の所有していた作品群が能登町に寄贈され、2009年(平成21年)能登町舎内浦町舎に常設の坂胆道作品展示場が設けられた[2]。
脚注
参考
- 広報のと第56号 (PDF) - 能登町、平成21年10月発行(2012年1月19日閲覧)
- 特集 坂寛二・坂坦道 - 石川県立美術館(2012年1月19日閲覧)
- 坂家の巨匠たち - 陶工房空(胆道の長女が運営する陶器工房)(2012年1月19日閲覧)