コンテンツにスキップ

アンナ・マニャーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。110.67.142.229 (会話) による 2011年4月22日 (金) 13:03個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (主な出演作品)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アンナ・マニャーニ
Anna Magnani
生年月日 (1908-03-07) 1908年3月7日
没年月日 (1973-09-26) 1973年9月26日(65歳没)
出生地 ローマ
国籍 イタリアの旗 イタリア
配偶者 Goffredo Alessandrini (1935-1950)
テンプレートを表示

アンナ・マニャーニAnna Magnani1908年3月7日 - 1973年9月26日)は、イタリア女優ローマ出身。

来歴

父親はエジプト人であると長く紹介されてきたが、実際の父親はカラブリア出身のイタリア人である。母マリーナはアンナを生んだ後、娘を実母に預けてアレクサンドリアへ渡り、裕福なオーストリア人と結婚した。アンナは、祖母の家で祖母と5人の叔母たちから育てられた。第一次世界大戦後にマリーナは帰国してアンナをフランス人修道女が運営する寄宿学校へ入れたが、短期間で終わった。その後アレクサンドリアへ戻った母を追ってアンナもエジプトへ向かうが、母から愛されなかった彼女には苦い思いしか残らなかった。15歳から大衆演芸の舞台に立つ。数多くの作品でウェイトレスや歌手という端役を務めた後、1934年映画デビュー。彫りが深い顔立ち、線の太いいかにも「イタリア女」の風貌で、ロッセリーニルノワールヴィスコンティらの作品に出演した。

第二次世界大戦中、ムッソリーニ失脚後、北イタリアはドイツ軍に占領され、ドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。 自動車を取られたマニャーニは怒って、農家の使う大八車を持ち出し、ドイツ兵に怒鳴りながら、ヴィア・デル・コルソなどの目抜き通りを突っ走ったという。

1935年、映画監督ゴッフレード・アレッサンドリーニと結婚。1942年、一人息子のルカを生んだ。ルカの父親は、当時アンナが交際していた年下の俳優、マッシモ・セラートで、彼はアンナの妊娠を知ると即座に彼女と別れた。彼女はルカに自らの姓マニャーニを名乗らせた(奇しくも、私生児としてアンナを生んだ実母マリーナが、自らの姓を名乗らせたのと同じであった)。

1955年の『バラの刺青』でアカデミー主演女優賞ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞。

晩年に『ふたりの女』の出演以来がきたとき、マニャーニは母親役をよしとせず蹴ったところ、代役はソフィア・ローレンになり、ローレンはその演技でアカデミー主演女優賞を獲得。「私の役はみんなソフィアが持っていってしまう。」と、後輩の活躍をうらやんだという。

1973年9月、ローマの病院で、膵臓の腫瘍のため死去。晩年の彼女を支えたのは、一人息子ルカと、(一時期交際していたこともあった)ロベルト・ロッセリーニであった。

主な出演作品

外部リンク