士大夫
士大夫(したいふ)とは東アジアに於いて支配階層を作っていた知識階級のことをさす言葉。特に北宋以降で科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた存在をさす。読書人も同義。
起源
『春秋左氏伝』に拠ると周代の身分制度は王や各諸侯の下に大夫と呼ばれる貴族層があり、その家臣として士と呼ばれる層があった。彼らは都市国家の指導者層であったが、都市国家の連合体制が崩壊して領域国家が形成されてきた戦国時代ごろになると、この身分階層が崩れ、士は独自の能力を持って領域国家を支配する各諸侯に使える人々を指すようになる。
これが前漢の統治体制が確立すると地方に於いて強い経済力を持って人民を保護民化していった者たちが郷挙里選の制度の下で子弟を中央官僚として送り出すようになり、支配層を形作る。彼らは自らを周代の都市国家指導者層になぞらえて士大夫と呼ぶようになる。後世からは豪族と呼ばれる層である。
魏に於いて九品官人法が出来、魏晋南北朝時代には豪族層は漢代以来の血統と文化的実績、人民保護者としての名望を背景に、華北に浸透した北方遊牧民の有力族長層と共により名門意識を高めて後世貴族と呼ばれる階層に変質していくことになるが、自らは変わらず、士・士大夫と呼んでいた。貴族層は自分たちの地位を保全するために貴族層から外れた者たちを庶と呼び、激しく差別して排除していた。
その後の隋代に科挙が実行されるようになり、貴族でなくても官僚となる道が開かれたが、貴族層は科挙出身者を政権中枢の座から締め出した。しかし唐中期ごろから経済の発展とともに新興地主層が台頭し、彼らは子弟から科挙合格者を出すことで新たな権力層を形作り始める。貴族層はこの台頭に激しく反発し、牛李の党争となって現れる。
唐末期の戦乱の中で貴族層は時代の変化に付いていけず、唐にとって変わって後梁を開いた塩賊に出自する朱全忠の軍閥によって実質的に滅亡した。その後の五代の戦乱の中で権力を握っていたのは塩賊や北方遊牧民(北朝以来の名門部族ではなく、より新興の勢力)に出自する軍閥の軍人がほとんどであったが、彼らの軍事警察力の下で実質的に政務を取り仕切っていたのは馮道に代表されるような新興地主層の文人であった。これが後の北宋の士大夫層の形成につながる。
先憂後楽・陞官発財
北宋を開いた太祖は五代の武断主義の反省から科挙を大幅に強化し、文治政策を定めた。それまで一回に付き十人ほどであった科挙合格者が太祖時代に数百人まで増やされ、これら科挙官僚は三代真宗期から実質的に朝廷を主導し始める。
科挙は学識のみが問題とされるものであるが、その難易度は非常に高く、これに合格するためには長い間勉学にのみ集中できる環境とそれなりの財産が必要になった。このことから主に先述の地主層が科挙合格者を輩出することになる。
士大夫が士大夫と呼ばれる所以は、一に学識である。科挙官僚であることが基本であるが、科挙に何度も落第した人物は郷里にて一族の子弟などに教授して、科挙の合格を目指させたりすることが多く、また官僚を引退した人物も郷里にて同じようなことをした。彼らも士大夫の中に入れられるので、必ずしも科挙官僚に限ったことではなく、科挙を目標として学識を身に着けたということが、条件の第一と考えられる。二に財産と地方での指導的立場である。財産と官僚としての特権などを背景に士大夫層は地方官僚に対して口出しをすることがあり、また先述の科挙不合格者などは郷里の子供たちに学問を教えることがあった。宮崎市定は士大夫を「官僚・地主・商人の三位一体」と定義している。
彼ら士大夫は自らの学識を持って出仕したという自負心からか、唐代以前に比べて自らの力を持って国家を支えるという気概を持っていた。そのことを表す有名な言葉として范仲淹の「先憂後楽」がある。范仲淹は後世に士大夫の理想像として仰がれた人物であり、この言葉の意味は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみの後に楽しむ」と言う天下国家を自らが背負うと言う意気込みが表れた言葉である(後に後楽園の名称の元となった)。宋四代仁宗期には范仲淹を初めとして数々の名臣と呼ばれるものが登場し、政界で活躍した。その様は朱熹によって『宋名臣言行録』に纏められている。
また士大夫は文人でもあり、宋代に士大夫たちが作った新しい文化の流れが多数生まれている。文学に於いては欧陽脩らの古文復興運動に表れる。古文運動とは六朝時代以来の四六駢儷体と呼ばれる文の美しさを重視した文体から脱却し、それ以前の質実剛健な文章への復帰を目指す運動である。また漢詩に於いてはそれまで多かった抒情詩から叙事詩が中心になったことが挙げられる。これらは士大夫たちの、より主体的でより理性的であるべしと言う考えから生まれたと考えられる。また思想・学問に於いては士大夫のための新しい儒学の姿が模索され、さまざまな学派が形成された。そのなかでより実践的な道学も誕生し、士大夫が現実の世界で求められる像を求めて窮理が進められた。後に道学は朱熹によって大成された朱子学によって代表されるようになる。
しかしその一方で「三年清知府、十万雪花銀」と言う言葉がある。三年地方官を勤めれば賄賂などで十万両くらいは貯めることが出来ると言う意味である。また科挙合格者を出した家は官戸と呼ばれるようになり、職役の免除や罪を金で購うことが出来ると言った数々の特権を有していた。このようなことから一族の子弟に学問を叩き込んで科挙官僚にすることは最も儲かる商売であったとも言える。このようなことを「陞官発財」(官が陞(昇)れば、財が発する)と言う。
では先憂後楽と陞官発財、どちらが士大夫の実態であったのであろうか。これはどちらも士大夫の実態であり、どちらかを過剰に強調して士大夫を捉えようとすることは慎まねばならないと考えられる。朱熹は浙東提挙を勤めていた際に、知台州唐仲友に対して公金横領や商人と組んでの汚職などといったことで弾劾し、その後慶元偽学の禁の際に朱熹自身に対して恣意的に裁判を行ったり、公金横領を行ったと弾劾された。後者は後に朱熹を尊崇する人によって真っ赤な嘘であると断定されたが、実際にはどうであったか?これらの朱熹と唐仲友に対する非難はおそらく当時の士大夫層一般に通ずることであり、このような所が士大夫の実像であったのではなかろうか。
士大夫のその後
その後、宋から王朝が移り変わっていったが、元を除いて士大夫が政権の中枢を担ったことには変わりない。明から清にかけて士大夫が新たに郷紳と言う層を形成し始める。郷紳は基本的には士大夫と同じであるが、より地方での権力家としての意味合いが強調された語である。郷紳は中華民国時代にも勢力を保持したが、中華人民共和国が成立して消滅した。