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アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)

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アルフォンソ10世と宮廷

アルフォンソ10世(Alfonso X, el Sabio, 1221年11月23日 - 1284年4月4日)は、カスティーリャ王国国王(在位:1251年 - 1282年)。フェルナンド3世と、最初の王妃ベアトリス・デ・スアビアの長男。

事跡

王太子時代は父と共にレコンキスタを推進し、その補佐に当たった。1251年、父の死により王位に即位し、自らも父にならってレコンキスタを行なったが、聡明な父と違って軍事的には無能であったため、その成果はほとんど無く、むしろ失敗が多かったと言われている。また、この頃に神聖ローマ帝国では皇帝不在の大空位時代に入ったが、アルフォンソ10世は生母が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の孫娘、ドイツ王フィリップの娘に当たることを理由に皇帝の位を望んだ。一時は選帝侯たちにローマ人の王に選ばれるところまでこぎつけたが、ローマ教皇の猛反対にあって結局は失敗に終わったのである。

このような失政の連続のうえ、1275年には王太子であったフェルナンド・デ・ラ・セルダが自身に先立って夭逝するなどの悲劇も起こった。そしてこれらの理由から、次男のサンチョ4世と王位をめぐる内乱が発生する。この内乱はアルフォンソ10世の敗北に終わり、1282年にサンチョによって王位を奪われた。その後、マリーン朝と共謀してサンチョから王位奪回を企んだが、失敗してセビリャに追放され、失意の内に1284年、64歳で没した。

「聖王」と讃えられた父王と較べると外政については失政が多い人物であるが、評価できる一面もある。彼がローマ法に基づいて編纂した「七部法典」(Siete Partidas)は、その後のスペインにおける法律の基礎となった。さらに歴史学においては「スペイン史」(Estoria de España)や「世界史」(General Estoria)、天文学においては「アルフォンソ天文表」を編纂。さらにはスペインにおける諸学問の保護発展に尽力し、自らも詩を多数創作した。また、ガリシア語による「聖母マリアのためのカンティーガ集」(Cantigas de Santa María)の編纂を行うなど、優れた行政手腕や文化手腕を持っていた。国内におけるカスティーリャ語の普及にも尽力し、これは後のスペイン語の基礎になったと言われている。軍事面においては失政者であるが、文化面・行政面における功績は大きく、アルフォンソ10世はこの功績を讃えられて「賢王」(エル・サビオ:el Sabio)と呼ばれることとなった。また、天文学上の功績により「天文王」(エル・アストロロゴ:el Astrólogo)とも呼ばれる。

13世紀の終わりに、トレドに翻訳研究所(エスクエラ・デ・トラドゥクトーレス)を設置、アラビア語モサラベ語ラテン語に翻訳させた。ユダヤ教徒の学者をムスリムキリスト教徒それぞれの学者と同じように宮廷で歓迎し、タルムードの翻訳に資金提供をしたが、息子サンチョの反乱以降はシナゴーグに閉じ込め、家を壊した。

子孫

ビオランテ(ヨランド)・デ・アラゴン(アラゴンハイメ1世と、ハンガリーエンドレ2世の娘ヨランドの娘)と1246年に結婚した。実際に嫁いだのは1249年であるが、それは結婚時に彼女がまだ13歳だったからである。数年の間は子供ができず、アルフォンソは危うく彼女を離縁するところだったが、夭逝した2人を除いて10人の子供をもうけている。

  1. フェルナンド(生没年未詳) 幼少時に死亡。ブルゴスのラス・ウェルガス修道院に埋葬されている。
  2. ベレンゲーラ(1253年 - 1284年以降) フランスルイ9世の息子で後継者だったルイ(フィリップ3世の兄)と婚約したが、1260年にルイが夭逝したためラス・ウェルガス修道院に入った。1284年まで生きていたことは確実。
  3. ベアトリス(1254年 - 1280年) 1271年、ムルシアでモンフェラート侯グリエルモと結婚。
  4. フェルナンド・デ・ラ・セルダ(1255年10月23日 - 1275年7月25日) 1268年、フランス王ルイ9世の娘ブランシュ(ブランカ・デ・フランシア)と結婚、2子をもうけた。カスティーリャ王位継承予定者であったが、父より先に死亡、王位は弟のサンチョが継ぐ。
  5. レオノール(1257年 - 1275年)
  6. サンチョ(1258年 - 1295年) カスティーリャ王サンチョ4世。勇敢王(エル・ブラーボ:el Bravo)と呼ばれる。
  7. コンスタンサ(1258年 - 1280年) ラス・ウェルガス修道院の修道女
  8. ペドロ(1260年 - 1283年)
  9. フアン(1262年 - 1319年) バレンシア・デ・カンポスの領主。ビスカヤの女領主(ディエゴ・ロペス・デ・アロの死後)マリア・ディアス・デ・アロと結婚し、フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)をもうける。
  10. イサベル(生没年未詳) 夭逝。
  11. ビオランテ(1265年 - 1296年) ビスカヤの領主ディエゴ・ロペス・デ・アロと結婚。
  12. ハイメ(1266年 - 1284年)

アルフォンソ10世には他にも多くの非嫡出子がいた。その一人ベアトリスポルトガルアフォンソ3世に嫁ぎ、ディニス1世の母になった。またマルタンはバリャドリッドの大修道院長になった。他にもウラカという名前の娘がいた。

称号

治世の末期にはカスティーリャ、トレドレオンガリシアセビーリャコルドバムルシアハエン及びアルガルヴェの王を名乗っていた。

先代
ヴィルヘルム・フォン・ホラント
ドイツ王(ローマ王)
1257年 - 1275年
大空位時代
対立王:
コーンウォール伯リチャード
ハプスブルク伯ルドルフ
次代
ルドルフ1世