呂蒙
表示
呂蒙(りょ もう、Lü Meng 178年 - 219年)は、中国、後漢末の武将。呉の大都督。字は子明。
略要・人物
概要
子は呂琮・呂覇・呂睦。幼名は阿蒙(何故か成長した後も“蒙”を諱としている)。
生涯
- 汝南郡の人。姉の夫が孫策の重臣であった縁故で、孫策に若くして仕えるようになる。200年、孫策が死んだ後はその弟である孫権に仕えた。呂蒙は勇将で、その武勇をもって孫権のもとで数多の功績を立て、平北都尉・広徳県長に昇進する。そして208年の赤壁の戦いやその後の江陵の戦いでも功績を挙げ、偏将軍・尋陽県令に任命された。
- 呂蒙は武勇においては呉の武将の中でも一、二を争う猛将であった。黄祖討伐を始め、かの赤壁の大戦、その後の周瑜の荊州をめぐる一連の戦でも常に大将を務め戦功を上げる。
- しかしその一方教養は全くといってよいほど無かった。しかし、主君の孫権から教養の大切さを諭され、勉学に励んだ。その後、病に篤かった魯粛の後任として荊州に訪れた呂蒙に魯粛があれこれ質問してみると、勉学に励んでいた呂蒙は何でもスラスラと答えてしまったという。このため、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」と評し、それに対し呂蒙は「士別れて三日なれば,括目して相待すべし」と言った(日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている、ということからいつまでも同じ先入観で物事を見ずに常に新しいものとしてみなさいと言う意味)。
- 孫権は成人してから学問に励んだ武将として、呂蒙と蒋欽を挙げている。また、このことから、進歩のない人間のことを「呉下の阿蒙」と呼ぶようになった。
- 呂蒙は直接大国の魏を攻撃しても効果が薄いと考え、蜀が締結を無視して占拠していた荊州南部の全域を奪い返し、そこを足がかりとすべきだと主張した。
- 219年、荊州に居座る蜀の名将関羽に対し病と偽り、後任として無名の陸遜を任命し油断させ、さらに関羽配下の傅士仁・麋芳を寝返らせた。これにより関羽の退路を断ち孤立させ、ついに冬12月14日に当陽の南方にある漳郷で見事これを捕虜し、臨沮で、その子の関平と共に処刑した。こうして、呂蒙は関羽を討ち、荊州を奪還するという大功績を挙げた。
- しかし、以前から病に臥せりがちであった呂蒙は、孫権が千金をかけて領地中から名医を集めたものの、そのかいむなしく同月の17日に病のために死去した。享年42。その死後は次男呂覇が後を継いだが、直系が続かず二人の兄弟が相次いで後継している。
- 陳寿は呂蒙を、勇敢であるとともに軍略を知る、単に武将であるだけに留まらない人物と評している。
創作作品における呂蒙
- 『三国志演義』では、10月14日に関羽を討ち取り、12月17日にその宴で関羽の亡霊に取り付かれて散々孫権に罵倒を浴びせた後、体じゅうの穴という穴から血を吹いて死んだということになっている。また、人気のある関羽の仇敵ということで、後世の創作では悪人扱いされる事がしばしばある。
- NHKの人形劇三国志(昭和58年)では、声までも醜い醜悪な老人として描かれた挙句(ただし、甲冑は美麗であり将軍としては扱われている)百姓を人質に取り次々惨殺しつつ降伏を迫るというやり方で関羽を騙し討ちに麦城から引きずり出し、縄をかけて嬲り殺しにした後、戦利品とした赤兎馬を厩から無理矢理引き出して「これで一流の名将の仲間入りをした」と欲得丸出しの喜び方をしながら遠乗りに出たところ、死の道連れにされ悲鳴をあげながら滝壷に落ちるという悪人そのもの(同じく悪人の部類に属する袁術や蔡夫人らの死に方と比しても惨い)の殺され方をしている。この死のシーンの直後には赤兎馬に跨った関羽の亡霊が滝壺を見下ろし、頭上から日の光が指すという描写がなされており、全く外道と神という扱いであった。
- この扱いは史実の呂蒙を知る者の間では批判が大きく、番組のファンの中にもこれだけは受け入れられない、残念であるという声が散見する。
- 横山光輝の三国志では終始教養を身につけて以降の姿が描写され、容貌も美形ではないものの渋い中年であり、たびたび孫権に有益な助言をし、荊州攻略戦に関しても厳格にして公正な名将としての見せ場が主に描かれている。が、関羽を追い詰める過程では悪辣とも取れる表情も見せており、その死は回想シーンで描かれたのみで、朝議に出席中突如吐血して死ぬといういかにも祟られたかのような死に様であり、悪人としての評価を否定する内容のものではない。
- 『蒼天航路』では打って変わって努力型、明朗な少年漫画の主人公のような人物に描かれているが、鼻血を出すなど、学問に苦戦する情けない姿を晒す、欠点を配下の諸将に知られるなど「呉下の阿蒙」の側面が強調されて描かれており、一流の名将に相応しい扱いを受けたとは言いがたい。