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Camp Sendai(キャンプ・センダイ)
Camp Sendai(キャンプ・センダイ)
* [[キャンプ・センダイ]] … [[第二次世界大戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]に[[進駐軍]]が駐留した、[[宮城県]][[仙台市]]内の兵営地の1つ([[日本語]][[通称]]:[[仙台]]キャンプ、または、川内(かわうち)キャンプ)。[[大日本帝国陸軍]]・[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]の[[衛戍]]地である旧[[仙台城]]二の丸およびその周辺地区を受け継ぐ形で設置された。現在は[[東北大学]]川内キャンパスなどになっている。
* [[キャンプ・センダイ]] … [[第二次世界大戦]]後の[[連合国軍占領下の日本|占領期]]に[[進駐軍]]が駐留した、[[宮城県]][[仙台市]]内の兵営地の1つ([[日本語]][[通称]]:[[仙台]]キャンプ、または、川内(かわうち)キャンプ)。[[大日本帝国陸軍]]・[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]の[[衛戍]]地である旧[[仙台城]]二の丸およびその周辺地区を受け継ぐ形で設置された。現在は[[東北大学]]川内キャンパスなどになっている。
* Camp Sendai(キャンプ仙台)とは、戦後、仙台市川内地区で占領政策に携わった、米軍の駐屯していた場所の地名である。キャンプの中で特に大きな土地面積を占有していたのは、米軍家族用の為の住宅地であつた。全ての家が明るい色合いで塗装された平屋として建築されていて、広々とした敷地内には、綺麗に刈り込まれた芝草が、生き生きとした緑の色彩を辺りに放っていた。その様は、あたかも別世界の感があつた。フオード、クライスラー、シボレーなどのセダンが家の前に駐車していて、我々敗戦国民が食料難で貧しかった生活を余儀なくされた、この頃を振り返ると、彼等の生活は、非常に優雅に映り、大変羨ましく思えたものだ。ここに第9軍団司令部(IX Corps)が置かれ、それを支援する為の各種小部隊の兵舎が、整然と基地の中に立ち並んでいた。主な関連部隊は、施設補修管理隊、第8047通信大隊仙台分遣隊(福島の霊山頂上に無線中継所を設地)高等学校における体育授業の単位不足を補充する目的で、終戦後まもなく宮城県側の筆甫村(現丸森町)から福島県の霊山に登ることになった。筆甫村の小学校に総勢30人が一晩お世話になり、翌朝早く小学校を出發し、道なき道を数時間かけて頂上に登り詰めた。突然、面前に展開する施設は、これ如何に、そこには、宇宙探検基地を彷彿とさせる様な大きなテント張りの数棟が張られており、並んで、高い無線用の大きなアンテナが天空に立ちはだかっていた。その下では、米兵が忙しそうに無線機に向かい話しかけている様であった。立ち入り禁止の立看板もないので近寄りながら、彼らの仕事ぶりや設備などを見ることが出来た。ここが第8047通信大隊仙台分遣隊の出先であつた。国の史跡および名勝と指定された霊山には、今では米軍の無線基地が存在した痕跡も残っていない。第547軍事郵便局、極東ネツトウーク仙台ラジオ局、MP(Military Police 憲兵隊)、WAC(女性分遣隊の主な業務はタイプ、事務関係など小隊規模の兵力)女性兵士がモータープールにも働いて、セクリタリーや運転免許の試験官として活躍していた。私達に会うと、いつもにっこりと挨拶を交わしてくれた愛嬌のある黒人女性兵士が運転免許の試験官であった。この文に出てくるAbraham Lincolnは、彼女から試験を受けて、ジープの運転免許証を取得した、と彼から聞いている、軍用車輛の配車と車のメンテナンスを司る第8012統合モータープールなどで構成されていた。モータープールからは、仙台市や郊外に点在する軍施設を巡回するためのシャトルバスが運行されていた。ルートは、Camp Sendai,The 172nd Station Hospital, Camp Fowler,CampShimmelphenning,Camp Loper (多賀城)、松島飛行場(現航空自衛隊基地)まで運行し、そこから同じルートを折り返した。ここで、地域社会の人々が、日常生活を心配なく継続できる様に助力を尽くしてくれた、駐留米軍のことを述べておこう。仙台から山形に抜ける峠越えの未舗装国道48号線は、冬になると、時々雪に閉ざされることがあり、交通が正常に復帰するまでの間、数日通行止めとなる。そのような事態に対処するために、日本でまだ見かけないロードグレーダーを米兵が運転して現地に出動し、道路の除雪作業に当った。第11空挺師団第674砲兵大隊(The 11th Airborne Division, 674th Artillery Battalion)がCamp Younghans(山形県神町)に駐屯していた。時に、夜遅く当直将校から電話があり、仙台駅のRTOに到着した将校を、車で神町まで 送り届けてくれとの依頼があったりした。当時は車が少ない時代で、夜中に峠越えをする車はほとんど無かったし、又、この未舗装の国道はあまり整備が行き届いているとは言い難く、特に夜間の峠越えは、危険を伴うので、運転手からいみ嫌われていた。悪いことに、あらぬ噂が立っていた。それは、峠近くを夜遅く通ると、赤ん坊を背負った女性が車に乗せてくれと頼んでくるので、頼まれるままに乗せてしまうと、走行中の車から知らぬ間に姿が消え失せてしまう。乗せた座席跡を見ると、席が水でべつたりと濡れていた、などの怪談がまことしやかに流れていた。噂とは言え、運転手の気持ちを恐怖から幾分でも和らげる意味合で、2人の運転手を車に付けて、任務を成しとげたことも数回ほどあった。今では考えられないような迷信が、草深い田舎にまだ色濃く残っていた時代でもあった。軍団司令部が設置されていた関係からか軍事法廷の建物がここに存在していた。日本人にはあまり関係のない所であるが、勤務中に、思いもかけない出来事に遭遇してしまい、不運にも、佐官クラスの法務官にその出来事を供述する羽目に陥ってしまった。人柄が温厚で人に優しい軍曹と一諸に夜勤をしていた時の出来事であるが、アルコールの好きな軍曹は、その日に限り泥酔状態で任務に服していたところ、直属将校に誰かが密告したのか、彼の上官である大尉が突然事務所に入って来て、彼の勤務態度を厳しく非難した。これに答えるようにして、軍曹が椅子から突然 立ち上がると、数回大尉の顔面を殴りつけて、彼をドアーまで殴り飛ばしてしまった。殴られた大尉は痛さをこらえながら、MPをすぐ呼ぶように慌てふたむきながらも私に指示を与えたが、あまりの出来事に、呆然とその場に立ち尽くすのみで何も出来なかった。軍事裁判の結果、彼は本国に不名誉除隊で強制送還された。キャンプ施設の中には、家族の生活を本国と同じように維持させるためのPX,カミソリ(食料品販売)、映画館、小学校、教会、グエストハウス、体育館、バンク オブ アメリカなどがあった。第9軍団米軍司令官は、旧日本陸軍第2師団長の邸宅を宿泊地として利用していた。オクラホマ出身の伍長で、私の最良の友であるW。J。L。は、軍司令官の専属ドライバーとなり、バンパーに将軍を表す星のプレートを付けたセダンで、司令官の送り迎えに従事していた。このキャンプで勤務する日本人従業員は、警備員、 メイド、店員、ルームボーイ、運転手、車両修理工、大工、通訳、ボイラーマン、消防手などであつた。基地で働く日本人従業員の為の労働対価として支払われた給与は、公務員に準じる、と聞いた。職種が通訳として採用されると、県の通訳資格試験を受験する選択肢があった。アメリカの大学で学んだ日本人の大学教授が試験官で、資格を取ると、思いもかけない額の語学手当が支給された。下士官クラブや市内に将校クラブもあり、軍施設内で支払いのために使用された通貨は、すべて軍票によってなされた。松島駅近くの海岸には、一見日本の三重塔を連想させる様な、米軍の素敵なリゾートホテルが建っていた。1950年になると、朝鮮戦争が始まり、戦雲急を告げると、多くの人員が隊から引き抜かれて戦場に向かつた。同じ勤務先の伍長が、予期せぬ間もなく、朝鮮戦線に急遽移動を命じられてしまった。家族との別れか悲しいのか、自分の不運を嘆いたのか、分からないが、動転してしまった彼は、自家用ジ-プを泥酔した状態で運転して、堀に落としたりしたが、幸いなことに怪我は無かった。戦争によって、自分の生死を他人の手にゆだねられた、避けて通れない本人の運命を考えると、送る者にとり、悲しくもあり、又、寂しくもあつた、思いもよらない今生の別れでもあった。このキャンプ センダイで軍務に服していた米兵と日本人従業員との人間関係は、どのようであつたかを述べてみよう。軍用車を多数保有したモータープールに所属し、ここで車輛運転に従事していた日本人ドライバーは、配車された先との人間関係が非常に良好であつた。その良好な関係を証明する為の、2点ほどのエピソードを述べてみよう。夜の24時から放送された週一度のポピラーソング リクエスト アワーを迎えると、FENセンダイラジオ局の知り合いのGI(米兵)を通して、当時一番人気のあつたパテイ へージの歌う、テネシイワルツをリクエストしたものだ。これに快く答えるように、第8012モータープール ボーイズからの依頼によるテネシイワルツを放送いたしますと、電波を通して流してくれた。又、体調が悪かつたり、風邪をひいたりした時、薬局に勤務のGIに頼んで薬を調合してもらったりと、いろいろとお世話になった。薬局に遅くまで勤務していた2人の米兵を、時々キャンプから市内の第172病院にジープで送り返してあげることがあった。私が勤務していた夜の11時過ぎに、2人がモータープールまで歩いてきて、車での送りを頼まれたが、その時運転手は、すべて仕事で出はらってしまって誰も居なかった。お互い知り合いなので、彼等の為に私が代わりに運転して行くことになった。彼等を無事に第172病院に送り届けて、キャンプに帰ってくると、闇夜の物陰から突然人が現れてジープに向かい、大きな声でエブリシング オーケー サー(全て異常なし)、と敬礼してくれた。暗闇の中から突然現れたジープをパトロール中のMPのジープと、日本人警備員が勘違いした為であろう。夜中でも安全が保障されているキャンプを、図らずも見せてもらった一瞬であつた。 キャンプ センダイは、小高い山の中腹に位置し、その先に亀岡地区の住民が住んでいる。ここに住んでいる人々にとりキャンプ センダイの中を通る道は、生活の道であり、ここを通行しないと広瀬川の対岸から大きく迂回をして、上流の橋から亀岡に入ることになり、大変不便をともなう。そのために、この地区に住む人の便宜を図り、キャンプを通行できる通行許可証が発行された。キャンプ内の小道で道草を食いながら歩いているランドセル姿の小学生を時々見ることができた。兵舎が立ち並ぶ中の不自然な光景でも、地域住民にとり有難い配慮であった。キャンプ センダイとはどのような所であったかを知る為の一番推薦できる手掛かりは、Abraham LincolnがAPO547や副官の下で軍務についた頃に写した、伍長と軍曹時代の写真集である。 数年前に彼にメールで確認したところ、写真に出てくる彼の上官であったKnox大佐やZimmerman中尉は,すでにこの世を去っている。又、彼が写した写真集の展示を、仙台市役所でやってもらったことも聞いている。久しく彼の消息が不明なので、彼が最後に居住したと思われるオハイオ州 Brookvilleの死亡記事を調べてみると、Abraham Lincoln, 86歳、 Brookvilleの居住地で、2020年12月29日に死亡、と出ていた。彼が撮影した米軍占領時代の基地の様子や、任務状態など、当時の様子を深く知ることが出来る貴重な記録を、彼が後世に残してくれた。 2023年現在、91歳を迎えた同年代の私も、学生時代に、このキャンプでアルバイトをしながら学費を稼いだことがある。
* Camp Sendai(キャンプ仙台)とは、戦後、仙台市川内地区で占領政策に携わった、米軍の駐屯していた場所の地名である。キャンプの中で特に大きな土地面積を占有していたのは、米軍家族用の為の住宅地であつた。全ての家が明るい色合いで塗装された平屋として建築されていて、広々とした敷地内には、綺麗に刈り込まれた芝草が、生き生きとした緑の色彩を辺りに放っていた。その様は、あたかも別世界の感があつた。フオード、クライスラー、シボレーなどのセダンが家の前に駐車していて、我々敗戦国民が食料難で貧しかった生活を余儀なくされた、この頃を振り返ると、彼等の生活は、非常に優雅に映り、大変羨ましく思えたものだ。ここに第9軍団司令部(IX Corps)が置かれ、それを支援する為の各種小部隊の兵舎が、整然と基地の中に立ち並んでいた。主な関連部隊は、施設補修管理隊、第8047通信大隊仙台分遣隊(福島の霊山頂上に無線中継所を設地)高等学校における体育授業の単位不足を補充する目的で、終戦後まもなく宮城県側の筆甫村(現丸森町)から福島県の霊山に登ることになった。筆甫村の小学校に総勢30人が一晩お世話になり、翌朝早く小学校を出發し、道なき道を数時間かけて頂上に登り詰めた。突然、面前に展開する施設は、これ如何に、そこには、宇宙探検基地を彷彿とさせる様な大きなテント張りの数棟が張られており、並んで、高い無線用の大きなアンテナが天空に立ちはだかっていた。その下では、米兵が忙しそうに無線機に向かい話しかけている様であった。立ち入り禁止の立看板もないので近寄りながら、彼らの仕事ぶりや設備などを見ることが出来た。ここが第8047通信大隊仙台分遣隊の出先であつた。国の史跡および名勝と指定された霊山には、今では米軍の無線基地が存在した痕跡も残っていない。第547軍事郵便局、極東ネツトウーク仙台ラジオ局、MP(Military Police 憲兵隊)、WAC(女性分遣隊の主な業務はタイプ、事務関係など小隊規模の兵力),軍用車輛の配車と車のメンテナンスを司る第8012統合モータープールなどで構成されていた。女性兵士がモータープールにも働いて、セクリタリーや運転免許の試験官として活躍していた。私達に会うと、いつもにっこりと挨拶を交わしてくれた愛嬌のある黒人女性兵士が運転免許の試験官であった。この文に出てくるAbraham Lincolnは、彼女から試験を受けて、ジープの運転免許証を取得した、と彼から聞いている.モータープールからは、仙台市や郊外に点在する軍施設を巡回するためのシャトルバスが運行されていた。ルートは、Camp Sendai,The 172nd Station Hospital, Camp Fowler,CampShimmelphenning,Camp Loper (多賀城)、松島飛行場(現航空自衛隊基地)まで運行し、そこから同じルートを折り返した。ここで、地域社会の人々が、日常生活を心配なく継続できる様に助力を尽くしてくれた、駐留米軍のことを述べておこう。仙台から山形に抜ける峠越えの未舗装国道48号線は、冬になると、時々雪に閉ざされることがあり、交通が正常に復帰するまでの間、数日通行止めとなる。そのような事態に対処するために、日本でまだ見かけないロードグレーダーを米兵が運転して現地に出動し、道路の除雪作業に当った。第11空挺師団第674砲兵大隊(The 11th Airborne Division, 674th Artillery Battalion)がCamp Younghans(山形県神町)に駐屯していた。時に、夜遅く当直将校から電話があり、仙台駅のRTOに到着した将校を、車で神町まで 送り届けてくれとの依頼があったりした。当時は車が少ない時代で、夜中に峠越えをする車はほとんど無かったし、又、この未舗装の国道はあまり整備が行き届いているとは言い難く、特に夜間の峠越えは、危険を伴うので、運転手からいみ嫌われていた。悪いことに、あらぬ噂が立っていた。それは、峠近くを夜遅く通ると、赤ん坊を背負った女性が車に乗せてくれと頼んでくるので、頼まれるままに乗せてしまうと、走行中の車から知らぬ間に姿が消え失せてしまう。乗せた座席跡を見ると、席が水でべつたりと濡れていた、などの怪談がまことしやかに流れていた。噂とは言え、運転手の気持ちを恐怖から幾分でも和らげる意味合で、2人の運転手を車に付けて、任務を成しとげたことも数回ほどあった。今では考えられないような迷信が、草深い田舎にまだ色濃く残っていた時代でもあった。軍団司令部が設置されていた関係からか軍事法廷の建物がここに存在していた。日本人にはあまり関係のない所であるが、勤務中に、思いもかけない出来事に遭遇してしまい、不運にも、佐官クラスの法務官にその出来事を供述する羽目に陥ってしまった。人柄が温厚で人に優しい軍曹と一諸に夜勤をしていた時の出来事であるが、アルコールの好きな軍曹は、その日に限り泥酔状態で任務に服していたところ、直属将校に誰かが密告したのか、彼の上官である大尉が突然事務所に入って来て、彼の勤務態度を厳しく非難した。これに答えるようにして、軍曹が椅子から突然 立ち上がると、数回大尉の顔面を殴りつけて、彼をドアーまで殴り飛ばしてしまった。殴られた大尉は痛さをこらえながら、MPをすぐ呼ぶように慌てふたむきながらも私に指示を与えたが、あまりの出来事に、呆然とその場に立ち尽くすのみで何も出来なかった。軍事裁判の結果、彼は本国に不名誉除隊で強制送還された。キャンプ施設の中には、家族の生活を本国と同じように維持させるためのPX,カミソリ(食料品販売)、映画館、小学校、教会、グエストハウス、体育館、バンク オブ アメリカなどがあった。第9軍団米軍司令官は、旧日本陸軍第2師団長の邸宅を宿泊地として利用していた。オクラホマ出身の伍長で、私の最良の友であるW。J。L。は、軍司令官の専属ドライバーとなり、バンパーに将軍を表す星のプレートを付けたセダンで、司令官の送り迎えに従事していた。このキャンプで勤務する日本人従業員は、警備員、 メイド、店員、ルームボーイ、運転手、車両修理工、大工、通訳、ボイラーマン、消防手などであつた。基地で働く日本人従業員の為の労働対価として支払われた給与は、公務員に準じる、と聞いた。職種が通訳として採用されると、県の通訳資格試験を受験する選択肢があった。アメリカの大学で学んだ日本人の大学教授が試験官で、資格を取ると、思いもかけない額の語学手当が支給された。下士官クラブや市内に将校クラブもあり、軍施設内で支払いのために使用された通貨は、すべて軍票によってなされた。松島駅近くの海岸には、一見日本の三重塔を連想させる様な、米軍の素敵なリゾートホテルが建っていた。1950年になると、朝鮮戦争が始まり、戦雲急を告げると、多くの人員が隊から引き抜かれて戦場に向かつた。同じ勤務先の伍長が、予期せぬ間もなく、朝鮮戦線に急遽移動を命じられてしまった。家族との別れか悲しいのか、自分の不運を嘆いたのか、分からないが、動転してしまった彼は、自家用ジ-プを泥酔した状態で運転して、堀に落としたりしたが、幸いなことに怪我は無かった。戦争によって、自分の生死を他人の手にゆだねられた、避けて通れない本人の運命を考えると、送る者にとり、悲しくもあり、又、寂しくもあつた、思いもよらない今生の別れでもあった。このキャンプ センダイで軍務に服していた米兵と日本人従業員との人間関係は、どのようであつたかを述べてみよう。軍用車を多数保有したモータープールに所属し、ここで車輛運転に従事していた日本人ドライバーは、配車された先との人間関係が非常に良好であつた。その良好な関係を証明する為の、2点ほどのエピソードを述べてみよう。夜の24時から放送された週一度のポピラーソング リクエスト アワーを迎えると、FENセンダイラジオ局の知り合いのGI(米兵)を通して、当時一番人気のあつたパテイ へージの歌う、テネシイワルツをリクエストしたものだ。これに快く答えるように、第8012モータープール ボーイズからの依頼によるテネシイワルツを放送いたしますと、電波を通して流してくれた。又、体調が悪かつたり、風邪をひいたりした時、薬局に勤務のGIに頼んで薬を調合してもらったりと、いろいろとお世話になった。薬局に遅くまで勤務していた2人の米兵を、時々キャンプから市内の第172病院にジープで送り返してあげることがあった。私が勤務していた夜の11時過ぎに、2人がモータープールまで歩いてきて、車での送りを頼まれたが、その時運転手は、すべて仕事で出はらってしまって誰も居なかった。お互い知り合いなので、彼等の為に私が代わりに運転して行くことになった。彼等を無事に第172病院に送り届けて、キャンプに帰ってくると、闇夜の物陰から突然人が現れてジープに向かい、大きな声でエブリシング オーケー サー(全て異常なし)、と敬礼してくれた。暗闇の中から突然現れたジープをパトロール中のMPのジープと、日本人警備員が勘違いした為であろう。夜中でも安全が保障されているキャンプを、図らずも見せてもらった一瞬であつた。 キャンプ センダイは、小高い山の中腹に位置し、その先に亀岡地区の住民が住んでいる。ここに住んでいる人々にとりキャンプ センダイの中を通る道は、生活の道であり、ここを通行しないと広瀬川の対岸から大きく迂回をして、上流の橋から亀岡に入ることになり、大変不便をともなう。そのために、この地区に住む人の便宜を図り、キャンプを通行できる通行許可証が発行された。キャンプ内の小道で道草を食いながら歩いているランドセル姿の小学生を時々見ることができた。兵舎が立ち並ぶ中の不自然な光景でも、地域住民にとり有難い配慮であった。キャンプ センダイとはどのような所であったかを知る為の一番推薦できる手掛かりは、Abraham LincolnがAPO547や副官の下で軍務についた頃に写した、伍長と軍曹時代の写真集である。 数年前に彼にメールで確認したところ、写真に出てくる彼の上官であったKnox大佐やZimmerman中尉は,すでにこの世を去っている。又、彼が写した写真集の展示を、仙台市役所でやってもらったことも聞いている。久しく彼の消息が不明なので、彼が最後に居住したと思われるオハイオ州 Brookvilleの死亡記事を調べてみると、Abraham Lincoln, 86歳、 Brookvilleの居住地で、2020年12月29日に死亡、と出ていた。彼が撮影した米軍占領時代の基地の様子や、任務状態など、当時の様子を深く知ることが出来る貴重な記録を、彼が後世に残してくれた。 2023年現在、91歳を迎えた同年代の私も、学生時代に、このキャンプでアルバイトをしながら学費を稼いだことがある。
* 仙台市苦竹に位置するCamp Shimmelphenningは、キャンプ シモ又は苦竹キャンプとも呼ばれていた。フイリピンのレイテ島で日本軍との交戦に巻き込まれて戦死した、ドイツ系大佐の名前を取り、このキャンプは命名された。 終戦になると、レイテ島から第11空挺師団第187と第188パラシュート歩兵連隊(The 11th Airborne Division,187th and 188th Parachute Infantory Regiment)が苦竹キャンプに進駐してきた。東北地方の各都市や軍需施設には、大隊規模の兵力が進駐した。第187パラシュート歩兵連隊の一部であった第711弾薬大隊は、宮城県船岡町の旧第1海軍火薬製造所跡に駐屯した。この地に駐屯するや、警戒の為に、大きな正門前で米兵が立哨任務に就いていた。肩にはトンプソンM1短機関銃(Thompson Sub Machine Gun)を何気なく下げて、ゲートの周りを所在無げに歩き回っていた。米兵のお蔭で片田舎町に急行列車が停車するようになった。国道旧4号線を特徴のある甲高いエンジンの音を響かせながら、未舗装の砂利道を砂塵を天空に舞い上げながら走行する軍用トラツクのバンパーには、11th A/B 187thの記号が表示されていた。終戦直後の苦竹キャンプ内における日本人労務者による主な作業内容は、大工による施設内の補修や修理、女性によるパラシュート補修の為のミシン掛け、人員の多い雑役係による施設内の整理、整頓、清掃作業、などであつた。草刈りなどの進行が遅れると、米兵は当時の流行語でハバハバ(ある南洋の言葉で、意味は急げ急げ)と声高に叫んで、作業の進行を促せた。フイリツピン戦線で日本軍と死闘を重ねてきた恨みからか、それとも日本人を心から信頼していない為の警戒心からか、我々労務者に接したアメリカ兵現場監督の態度は、きわめて厳しいものであった。戦後の厳しい混乱期を乗り越えて日本社会が安定してくると、我々に接する彼等の態度も陽気で明るい本来のアメリカ兵の姿に立ち戻り、お互いの間に強い信頼感や絆が芽生えてきた。キャンプ内から集められたゴミは、多賀城海岸の埋立地にダンプで運んで、廃棄処分された。ゴミの中には、まだ食べられる様な缶詰が混じっていた。そこでは、人々が競い合ながら、目当ての品物を拾い集めている姿があった。今考えると、人間としての誇りや恥ずかしさを捨てた様な行為と思われるが、当時の深刻な食糧難を考えると、生きてゆく手段として、仕方のない行動であった。敷地内の空き地には終戦により由緒正しい旧家などから強制的に差し出された価値ある名剣類が、無残な姿で雨ざらしにされていた。負け戦の成れの果て、過去の栄光いずこぞ。 苦竹キャンプの奥の裏門からバリケードフェンスに沿って簡単な飛行場のランウエイがあり、単発の連絡機が常に離着陸していた。矢野目飛行場(現仙台空港)上空からのパラシュート降下訓練も、キャンプから遠望することができた。世界のジャズ界を風靡した、ルイ アームストロングが、米兵と家族慰安の為に、このキャンプを訪れて、人気の歌や演奏を披露したこともあった。宮城県出身の歌手で、まだ無名時代のフランク永井が、ここで軍用トラツクの運転手をしていたことがある。 朝鮮戦争が始まると、第187パラシュート歩兵連隊は、関連大隊と共に戦場に移動していった。移動した連隊の代わりとして、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州で組織された州兵が苦竹キャンプに駐屯して来た。 これらの部隊は、第40歩兵師団と改名された。しかし、この師団はこの地域に、9ヶ月間の短い期間の滞在で、1950年1月に、朝鮮戦争に参戦の為、移動させられていった。 1951年、第9軍団、第1騎兵師団は、韓国から帰国し、北海道に駐屯した。1954年、第9軍団は師団司令部と共に 仙台に移動した。
* 仙台市苦竹に位置するCamp Shimmelphenningは、キャンプ シモ又は苦竹キャンプとも呼ばれていた。フイリピンのレイテ島で日本軍との交戦に巻き込まれて戦死した、ドイツ系大佐の名前を取り、このキャンプは命名された。 終戦になると、レイテ島から第11空挺師団第187と第188パラシュート歩兵連隊(The 11th Airborne Division,187th and 188th Parachute Infantory Regiment)が苦竹キャンプに進駐してきた。東北地方の各都市や軍需施設には、大隊規模の兵力が進駐した。第187パラシュート歩兵連隊の一部であった第711弾薬大隊は、宮城県船岡町の旧第1海軍火薬製造所跡に駐屯した。この地に駐屯するや、警戒の為に、大きな正門前で米兵が立哨任務に就いていた。肩にはトンプソンM1短機関銃(Thompson Sub Machine Gun)を何気なく下げて、ゲートの周りを所在無げに歩き回っていた。米兵のお蔭で片田舎町に急行列車が停車するようになった。国道旧4号線を特徴のある甲高いエンジンの音を響かせながら、未舗装の砂利道を砂塵を天空に舞い上げながら走行する軍用トラツクのバンパーには、11th A/B 187thの記号が表示されていた。終戦直後の苦竹キャンプ内における日本人労務者による主な作業内容は、大工による施設内の補修や修理、女性によるパラシュート補修の為のミシン掛け、人員の多い雑役係による施設内の整理、整頓、清掃作業、などであつた。草刈りなどの進行が遅れると、米兵は当時の流行語でハバハバ(ある南洋の言葉で、意味は急げ急げ)と声高に叫んで、作業の進行を促せた。フイリツピン戦線で日本軍と死闘を重ねてきた恨みからか、それとも日本人を心から信頼していない為の警戒心からか、我々労務者に接したアメリカ兵現場監督の態度は、きわめて厳しいものであった。戦後の厳しい混乱期を乗り越えて日本社会が安定してくると、我々に接する彼等の態度も陽気で明るい本来のアメリカ兵の姿に立ち戻り、お互いの間に強い信頼感や絆が芽生えてきた。キャンプ内から集められたゴミは、多賀城海岸の埋立地にダンプで運んで、廃棄処分された。ゴミの中には、まだ食べられる様な缶詰が混じっていた。そこでは、人々が競い合ながら、目当ての品物を拾い集めている姿があった。今考えると、人間としての誇りや恥ずかしさを捨てた様な行為と思われるが、当時の深刻な食糧難を考えると、生きてゆく手段として、仕方のない行動であった。敷地内の空き地には終戦により由緒正しい旧家などから強制的に差し出された価値ある名剣類が、無残な姿で雨ざらしにされていた。負け戦の成れの果て、過去の栄光いずこぞ。 苦竹キャンプの奥の裏門からバリケードフェンスに沿って簡単な飛行場のランウエイがあり、単発の連絡機が常に離着陸していた。矢野目飛行場(現仙台空港)上空からのパラシュート降下訓練も、キャンプから遠望することができた。世界のジャズ界を風靡した、ルイ アームストロングが、米兵と家族慰安の為に、このキャンプを訪れて、人気の歌や演奏を披露したこともあった。宮城県出身の歌手で、まだ無名時代のフランク永井が、ここで軍用トラツクの運転手をしていたことがある。 朝鮮戦争が始まると、第187パラシュート歩兵連隊は、関連大隊と共に戦場に移動していった。移動した連隊の代わりとして、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州で組織された州兵が苦竹キャンプに駐屯して来た。 これらの部隊は、第40歩兵師団と改名された。しかし、この師団はこの地域に、9ヶ月間の短い期間の滞在で、1950年1月に、朝鮮戦争に参戦の為、移動させられていった。 1951年、第9軍団、第1騎兵師団は、韓国から帰国し、北海道に駐屯した。1954年、第9軍団は師団司令部と共に 仙台に移動した。
* 米軍の施設が仙台市内にも点在していた。通信隊の基地 Camp Fowlerが榴岡にあり、ここより程遠くない距離に、第172 病院があった。現在、かんぽ生命仙台サービスセンターとして使用されているビルが、第172病院として米軍が使用していたのと同じ建物である。通常のべツト数は、250であつたが、朝鮮戦争が始まると、ベツト数は倍以上に増加された。GIの友人を見舞いに、この病院を訪れて驚かされたことがある。それは、大尉の肩章を付けた看護婦が、現場で働いているのを見た時である。なぜならば、将校の位の看護婦を、いまだ日本の軍隊で見たことが無かつたからである。この病院で火事が発生し、一部が焼失し、数人の犠牲者が出たこともある。アメリカ文化センターは公共の図書館で、館内には、英語の蔵書や雑誌が置かれていて、日本人も自由に利用できた。それ以外に軍政府、将校クラブ、消防署、RTO(Railway Transportation Office)などの施設が市内に整っていた。
* 米軍の施設が仙台市内にも点在していた。通信隊の基地 Camp Fowlerが榴岡にあり、ここより程遠くない距離に、第172 病院があった。現在、かんぽ生命仙台サービスセンターとして使用されているビルが、第172病院として米軍が使用していたのと同じ建物である。通常のべツト数は、250であつたが、朝鮮戦争が始まると、ベツト数は倍以上に増加された。GIの友人を見舞いに、この病院を訪れて驚かされたことがある。それは、大尉の肩章を付けた看護婦が、現場で働いているのを見た時である。なぜならば、将校の位の看護婦を、いまだ日本の軍隊で見たことが無かつたからである。この病院で火事が発生し、一部が焼失し、数人の犠牲者が出たこともある。アメリカ文化センターは公共の図書館で、館内には、英語の蔵書や雑誌が置かれていて、日本人も自由に利用できた。それ以外に軍政府、将校クラブ、消防署、RTO(Railway Transportation Office)などの施設が市内に整っていた。

2023年7月1日 (土) 01:02時点における版

Camp Sendai(キャンプ・センダイ)

  • キャンプ・センダイ第二次世界大戦後の占領期進駐軍が駐留した、宮城県仙台市内の兵営地の1つ(日本語通称仙台キャンプ、または、川内(かわうち)キャンプ)。大日本帝国陸軍第2師団衛戍地である旧仙台城二の丸およびその周辺地区を受け継ぐ形で設置された。現在は東北大学川内キャンパスなどになっている。
  • Camp Sendai(キャンプ仙台)とは、戦後、仙台市川内地区で占領政策に携わった、米軍の駐屯していた場所の地名である。キャンプの中で特に大きな土地面積を占有していたのは、米軍家族用の為の住宅地であつた。全ての家が明るい色合いで塗装された平屋として建築されていて、広々とした敷地内には、綺麗に刈り込まれた芝草が、生き生きとした緑の色彩を辺りに放っていた。その様は、あたかも別世界の感があつた。フオード、クライスラー、シボレーなどのセダンが家の前に駐車していて、我々敗戦国民が食料難で貧しかった生活を余儀なくされた、この頃を振り返ると、彼等の生活は、非常に優雅に映り、大変羨ましく思えたものだ。ここに第9軍団司令部(IX Corps)が置かれ、それを支援する為の各種小部隊の兵舎が、整然と基地の中に立ち並んでいた。主な関連部隊は、施設補修管理隊、第8047通信大隊仙台分遣隊(福島の霊山頂上に無線中継所を設地)高等学校における体育授業の単位不足を補充する目的で、終戦後まもなく宮城県側の筆甫村(現丸森町)から福島県の霊山に登ることになった。筆甫村の小学校に総勢30人が一晩お世話になり、翌朝早く小学校を出發し、道なき道を数時間かけて頂上に登り詰めた。突然、面前に展開する施設は、これ如何に、そこには、宇宙探検基地を彷彿とさせる様な大きなテント張りの数棟が張られており、並んで、高い無線用の大きなアンテナが天空に立ちはだかっていた。その下では、米兵が忙しそうに無線機に向かい話しかけている様であった。立ち入り禁止の立看板もないので近寄りながら、彼らの仕事ぶりや設備などを見ることが出来た。ここが第8047通信大隊仙台分遣隊の出先であつた。国の史跡および名勝と指定された霊山には、今では米軍の無線基地が存在した痕跡も残っていない。第547軍事郵便局、極東ネツトウーク仙台ラジオ局、MP(Military Police 憲兵隊)、WAC(女性分遣隊の主な業務はタイプ、事務関係など小隊規模の兵力),軍用車輛の配車と車のメンテナンスを司る第8012統合モータープールなどで構成されていた。女性兵士がモータープールにも働いて、セクリタリーや運転免許の試験官として活躍していた。私達に会うと、いつもにっこりと挨拶を交わしてくれた愛嬌のある黒人女性兵士が運転免許の試験官であった。この文に出てくるAbraham Lincolnは、彼女から試験を受けて、ジープの運転免許証を取得した、と彼から聞いている.モータープールからは、仙台市や郊外に点在する軍施設を巡回するためのシャトルバスが運行されていた。ルートは、Camp Sendai,The 172nd Station Hospital, Camp Fowler,CampShimmelphenning,Camp Loper (多賀城)、松島飛行場(現航空自衛隊基地)まで運行し、そこから同じルートを折り返した。ここで、地域社会の人々が、日常生活を心配なく継続できる様に助力を尽くしてくれた、駐留米軍のことを述べておこう。仙台から山形に抜ける峠越えの未舗装国道48号線は、冬になると、時々雪に閉ざされることがあり、交通が正常に復帰するまでの間、数日通行止めとなる。そのような事態に対処するために、日本でまだ見かけないロードグレーダーを米兵が運転して現地に出動し、道路の除雪作業に当った。第11空挺師団第674砲兵大隊(The 11th Airborne Division, 674th Artillery Battalion)がCamp Younghans(山形県神町)に駐屯していた。時に、夜遅く当直将校から電話があり、仙台駅のRTOに到着した将校を、車で神町まで 送り届けてくれとの依頼があったりした。当時は車が少ない時代で、夜中に峠越えをする車はほとんど無かったし、又、この未舗装の国道はあまり整備が行き届いているとは言い難く、特に夜間の峠越えは、危険を伴うので、運転手からいみ嫌われていた。悪いことに、あらぬ噂が立っていた。それは、峠近くを夜遅く通ると、赤ん坊を背負った女性が車に乗せてくれと頼んでくるので、頼まれるままに乗せてしまうと、走行中の車から知らぬ間に姿が消え失せてしまう。乗せた座席跡を見ると、席が水でべつたりと濡れていた、などの怪談がまことしやかに流れていた。噂とは言え、運転手の気持ちを恐怖から幾分でも和らげる意味合で、2人の運転手を車に付けて、任務を成しとげたことも数回ほどあった。今では考えられないような迷信が、草深い田舎にまだ色濃く残っていた時代でもあった。軍団司令部が設置されていた関係からか軍事法廷の建物がここに存在していた。日本人にはあまり関係のない所であるが、勤務中に、思いもかけない出来事に遭遇してしまい、不運にも、佐官クラスの法務官にその出来事を供述する羽目に陥ってしまった。人柄が温厚で人に優しい軍曹と一諸に夜勤をしていた時の出来事であるが、アルコールの好きな軍曹は、その日に限り泥酔状態で任務に服していたところ、直属将校に誰かが密告したのか、彼の上官である大尉が突然事務所に入って来て、彼の勤務態度を厳しく非難した。これに答えるようにして、軍曹が椅子から突然 立ち上がると、数回大尉の顔面を殴りつけて、彼をドアーまで殴り飛ばしてしまった。殴られた大尉は痛さをこらえながら、MPをすぐ呼ぶように慌てふたむきながらも私に指示を与えたが、あまりの出来事に、呆然とその場に立ち尽くすのみで何も出来なかった。軍事裁判の結果、彼は本国に不名誉除隊で強制送還された。キャンプ施設の中には、家族の生活を本国と同じように維持させるためのPX,カミソリ(食料品販売)、映画館、小学校、教会、グエストハウス、体育館、バンク オブ アメリカなどがあった。第9軍団米軍司令官は、旧日本陸軍第2師団長の邸宅を宿泊地として利用していた。オクラホマ出身の伍長で、私の最良の友であるW。J。L。は、軍司令官の専属ドライバーとなり、バンパーに将軍を表す星のプレートを付けたセダンで、司令官の送り迎えに従事していた。このキャンプで勤務する日本人従業員は、警備員、 メイド、店員、ルームボーイ、運転手、車両修理工、大工、通訳、ボイラーマン、消防手などであつた。基地で働く日本人従業員の為の労働対価として支払われた給与は、公務員に準じる、と聞いた。職種が通訳として採用されると、県の通訳資格試験を受験する選択肢があった。アメリカの大学で学んだ日本人の大学教授が試験官で、資格を取ると、思いもかけない額の語学手当が支給された。下士官クラブや市内に将校クラブもあり、軍施設内で支払いのために使用された通貨は、すべて軍票によってなされた。松島駅近くの海岸には、一見日本の三重塔を連想させる様な、米軍の素敵なリゾートホテルが建っていた。1950年になると、朝鮮戦争が始まり、戦雲急を告げると、多くの人員が隊から引き抜かれて戦場に向かつた。同じ勤務先の伍長が、予期せぬ間もなく、朝鮮戦線に急遽移動を命じられてしまった。家族との別れか悲しいのか、自分の不運を嘆いたのか、分からないが、動転してしまった彼は、自家用ジ-プを泥酔した状態で運転して、堀に落としたりしたが、幸いなことに怪我は無かった。戦争によって、自分の生死を他人の手にゆだねられた、避けて通れない本人の運命を考えると、送る者にとり、悲しくもあり、又、寂しくもあつた、思いもよらない今生の別れでもあった。このキャンプ センダイで軍務に服していた米兵と日本人従業員との人間関係は、どのようであつたかを述べてみよう。軍用車を多数保有したモータープールに所属し、ここで車輛運転に従事していた日本人ドライバーは、配車された先との人間関係が非常に良好であつた。その良好な関係を証明する為の、2点ほどのエピソードを述べてみよう。夜の24時から放送された週一度のポピラーソング リクエスト アワーを迎えると、FENセンダイラジオ局の知り合いのGI(米兵)を通して、当時一番人気のあつたパテイ へージの歌う、テネシイワルツをリクエストしたものだ。これに快く答えるように、第8012モータープール ボーイズからの依頼によるテネシイワルツを放送いたしますと、電波を通して流してくれた。又、体調が悪かつたり、風邪をひいたりした時、薬局に勤務のGIに頼んで薬を調合してもらったりと、いろいろとお世話になった。薬局に遅くまで勤務していた2人の米兵を、時々キャンプから市内の第172病院にジープで送り返してあげることがあった。私が勤務していた夜の11時過ぎに、2人がモータープールまで歩いてきて、車での送りを頼まれたが、その時運転手は、すべて仕事で出はらってしまって誰も居なかった。お互い知り合いなので、彼等の為に私が代わりに運転して行くことになった。彼等を無事に第172病院に送り届けて、キャンプに帰ってくると、闇夜の物陰から突然人が現れてジープに向かい、大きな声でエブリシング オーケー サー(全て異常なし)、と敬礼してくれた。暗闇の中から突然現れたジープをパトロール中のMPのジープと、日本人警備員が勘違いした為であろう。夜中でも安全が保障されているキャンプを、図らずも見せてもらった一瞬であつた。 キャンプ センダイは、小高い山の中腹に位置し、その先に亀岡地区の住民が住んでいる。ここに住んでいる人々にとりキャンプ センダイの中を通る道は、生活の道であり、ここを通行しないと広瀬川の対岸から大きく迂回をして、上流の橋から亀岡に入ることになり、大変不便をともなう。そのために、この地区に住む人の便宜を図り、キャンプを通行できる通行許可証が発行された。キャンプ内の小道で道草を食いながら歩いているランドセル姿の小学生を時々見ることができた。兵舎が立ち並ぶ中の不自然な光景でも、地域住民にとり有難い配慮であった。キャンプ センダイとはどのような所であったかを知る為の一番推薦できる手掛かりは、Abraham LincolnがAPO547や副官の下で軍務についた頃に写した、伍長と軍曹時代の写真集である。 数年前に彼にメールで確認したところ、写真に出てくる彼の上官であったKnox大佐やZimmerman中尉は,すでにこの世を去っている。又、彼が写した写真集の展示を、仙台市役所でやってもらったことも聞いている。久しく彼の消息が不明なので、彼が最後に居住したと思われるオハイオ州 Brookvilleの死亡記事を調べてみると、Abraham Lincoln, 86歳、 Brookvilleの居住地で、2020年12月29日に死亡、と出ていた。彼が撮影した米軍占領時代の基地の様子や、任務状態など、当時の様子を深く知ることが出来る貴重な記録を、彼が後世に残してくれた。 2023年現在、91歳を迎えた同年代の私も、学生時代に、このキャンプでアルバイトをしながら学費を稼いだことがある。
  • 仙台市苦竹に位置するCamp Shimmelphenningは、キャンプ シモ又は苦竹キャンプとも呼ばれていた。フイリピンのレイテ島で日本軍との交戦に巻き込まれて戦死した、ドイツ系大佐の名前を取り、このキャンプは命名された。 終戦になると、レイテ島から第11空挺師団第187と第188パラシュート歩兵連隊(The 11th Airborne Division,187th and 188th Parachute Infantory Regiment)が苦竹キャンプに進駐してきた。東北地方の各都市や軍需施設には、大隊規模の兵力が進駐した。第187パラシュート歩兵連隊の一部であった第711弾薬大隊は、宮城県船岡町の旧第1海軍火薬製造所跡に駐屯した。この地に駐屯するや、警戒の為に、大きな正門前で米兵が立哨任務に就いていた。肩にはトンプソンM1短機関銃(Thompson Sub Machine Gun)を何気なく下げて、ゲートの周りを所在無げに歩き回っていた。米兵のお蔭で片田舎町に急行列車が停車するようになった。国道旧4号線を特徴のある甲高いエンジンの音を響かせながら、未舗装の砂利道を砂塵を天空に舞い上げながら走行する軍用トラツクのバンパーには、11th A/B 187thの記号が表示されていた。終戦直後の苦竹キャンプ内における日本人労務者による主な作業内容は、大工による施設内の補修や修理、女性によるパラシュート補修の為のミシン掛け、人員の多い雑役係による施設内の整理、整頓、清掃作業、などであつた。草刈りなどの進行が遅れると、米兵は当時の流行語でハバハバ(ある南洋の言葉で、意味は急げ急げ)と声高に叫んで、作業の進行を促せた。フイリツピン戦線で日本軍と死闘を重ねてきた恨みからか、それとも日本人を心から信頼していない為の警戒心からか、我々労務者に接したアメリカ兵現場監督の態度は、きわめて厳しいものであった。戦後の厳しい混乱期を乗り越えて日本社会が安定してくると、我々に接する彼等の態度も陽気で明るい本来のアメリカ兵の姿に立ち戻り、お互いの間に強い信頼感や絆が芽生えてきた。キャンプ内から集められたゴミは、多賀城海岸の埋立地にダンプで運んで、廃棄処分された。ゴミの中には、まだ食べられる様な缶詰が混じっていた。そこでは、人々が競い合ながら、目当ての品物を拾い集めている姿があった。今考えると、人間としての誇りや恥ずかしさを捨てた様な行為と思われるが、当時の深刻な食糧難を考えると、生きてゆく手段として、仕方のない行動であった。敷地内の空き地には終戦により由緒正しい旧家などから強制的に差し出された価値ある名剣類が、無残な姿で雨ざらしにされていた。負け戦の成れの果て、過去の栄光いずこぞ。 苦竹キャンプの奥の裏門からバリケードフェンスに沿って簡単な飛行場のランウエイがあり、単発の連絡機が常に離着陸していた。矢野目飛行場(現仙台空港)上空からのパラシュート降下訓練も、キャンプから遠望することができた。世界のジャズ界を風靡した、ルイ アームストロングが、米兵と家族慰安の為に、このキャンプを訪れて、人気の歌や演奏を披露したこともあった。宮城県出身の歌手で、まだ無名時代のフランク永井が、ここで軍用トラツクの運転手をしていたことがある。 朝鮮戦争が始まると、第187パラシュート歩兵連隊は、関連大隊と共に戦場に移動していった。移動した連隊の代わりとして、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州で組織された州兵が苦竹キャンプに駐屯して来た。 これらの部隊は、第40歩兵師団と改名された。しかし、この師団はこの地域に、9ヶ月間の短い期間の滞在で、1950年1月に、朝鮮戦争に参戦の為、移動させられていった。 1951年、第9軍団、第1騎兵師団は、韓国から帰国し、北海道に駐屯した。1954年、第9軍団は師団司令部と共に 仙台に移動した。
  • 米軍の施設が仙台市内にも点在していた。通信隊の基地 Camp Fowlerが榴岡にあり、ここより程遠くない距離に、第172 病院があった。現在、かんぽ生命仙台サービスセンターとして使用されているビルが、第172病院として米軍が使用していたのと同じ建物である。通常のべツト数は、250であつたが、朝鮮戦争が始まると、ベツト数は倍以上に増加された。GIの友人を見舞いに、この病院を訪れて驚かされたことがある。それは、大尉の肩章を付けた看護婦が、現場で働いているのを見た時である。なぜならば、将校の位の看護婦を、いまだ日本の軍隊で見たことが無かつたからである。この病院で火事が発生し、一部が焼失し、数人の犠牲者が出たこともある。アメリカ文化センターは公共の図書館で、館内には、英語の蔵書や雑誌が置かれていて、日本人も自由に利用できた。それ以外に軍政府、将校クラブ、消防署、RTO(Railway Transportation Office)などの施設が市内に整っていた。
  • Camp Sendai is the name of the place where the US military force was stationed in the Kawauchi district of Sendai City in September 1945. The IX Corps Headquarters was located here. To support this headquarters, there were the Repair and Maintenance Units, the 8047th Signal Battalion, Sendai Detachment (a radio relay station was operated at the top of the Mountain Ryozen, Fukushima Prefecture),  APO547,Far East Network Sendai Radio Station, MP, WAC’S, Intelligence, Liaison and the 8012th Consolidated Motor Pool, which controls the dispatch of military vehicles and the maintenance of vehicles. From the motor pool, a shuttle bus was operated to the military facilities in Sendai City and the suburbs. The route operated to Camp Sendai, the 172nd Station Hospital, Camp Fowler, Camp Simmelphenning Tagajo, Matsushima Airfield (currently the Air Self-Defense Force Base), and then returned the same route. Among the Camp Sendai facilities including independent housing for the family, there were PX, Elementary School, Church, Guest House, Gymnasium, Bank of America, etc. to maintain the life of the family as in the home country. The commander  of the IX Corps used the mansion of the 2nd Division Commander of the Imperial Japanese Army as a lodging place.  In 1950, the Korean War began, and many military personnel were pulled out from the Camp Sendai and headed for the battlefield.
  • There was the 172nd Station Hospital in the Sendai City.The building currently used as the Japan Post Insurance Sendai Service Center is the same building that the US Military used as the 172nd Station Hospital.The usual number of bets was 250, but with the start of the Korea War, the number of the bets was more than doubled.
  • Camp Shimmelphenning located in Negatake, Sendai, was also known as Camp Shimo or Negatake Camp. The Camp Shimmelphenning was named after a colonel who died in a battle with Japanese troops on Leyte Island in the Philippines. At the end of the war, the 11th Airborne Division 187th and 188th Parachute Infantry Regiment were stationed at the Camp Shimmelphenning . Same time, the related battalion moved to the main cities and munitions factories in the northern parts of Japan to carry out occupation missions. The 711th Ordinance Battalion which was part of the187th Parachute Infantry Regiment was stationed at the site of The First Navy Gun Powder Manufacturing Depot at Funaoka Town, Miyagi Prefecture. In the Camp Shimmelphennig, there was a simple airfield runway along the barricade fence from the back gate and a single liaison plane was always taking off and landing.The parachute descent training from the sky above Yanome Airport (currently Sendai Airport) was also could see it from the Camp Shimmelphenning. Louis Armstrong who dominated the world of jazz, visited Camp Shimmelphenning for the entertainment of soldiers and their family. The 187th Parachute Infantry Regiment moved to the battlefield with the relevant battalions. National Guard organized in California, Nevada, and Utah were stationed as a replacement. These units were renamed the 40th Infantry Division. The 40th Infantry division also moved to Korea after short stay of nine months in the area. In 1951, the IX Corps and the 1st Cavalry Division returned from South Korea and were stationed in Hokkaido. In 1954, the IX Corps Headquarters with Division Command moved to Sendai.
  • 仙台駐屯地 … 宮城県仙台市宮城野区にある陸上自衛隊駐屯地で、東北方面総監部が置かれている。戦中の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所の跡が占領期に進駐軍のキャンプ・シンメルフェニヒ(日本語通称:苦竹キャンプ)となり、1960年昭和35年)から陸上自衛隊の駐屯地となった。
  • 川内駐屯地鹿児島県薩摩川内市にある陸上自衛隊の駐屯地で、第8施設大隊などが駐屯する。